――サイドミラー越しにその景色は目の当たりにした。
深夜の高速道路を明るく染め上げる一条の赤いイカズチ。
ホルンが放ったその攻撃は忘れられない。未来永劫、俺の心に残ることだろう。
「どうなった!?」
「っ……まだ、追ってきています……!」
「なんつーしぶとさだよ……!」
肩に力が入ってハンドルを抱えるような姿勢で強く握り込む。おそらくだがホルンはもう手を尽くしてくれた。これ以上はなすすべないんだろう、俺があとはどうにかして彼女を守らないといけない。
ミラーで襲撃者の位置は確認できる。その飛行速度は随分と低下していて、見たところダメージはしっかりと入っているみたいだ。蚊のようにフラフラと不安定な飛行を見せる襲撃者の姿が確かにあった。
その執念には嫌悪感しか湧かないが……。
この調子なら、何があってもしばらくは追いつかれることがないと判断してもいい。ホルンのことが心配になった俺は、この隙を見て声を掛ける。
「もう下がってもいいぞ、ホルン……!」
彼女へ車内に戻ることを勧めた。
ホルンの声が弱々しくなっていたのには気付いていたから、できれば車上で待機するよりも車のなかで休ませてやりたいと思ったのだ。
素直に応じ、後部座席の開けた窓からするりと体を滑らせてなかに入るホルン。
あまり後ろの様子を見てやれないが、横になった彼女は苦しそうに呻く。ちらりと一瞥した限りでも痛々しい怪我の数々だ。
心配だが、高速道路上ではあまりよそ見もしていられないのが難点だった。
前方に見えたハザードランプ。
速度を緩めながら、行先に何が起きているのか、注意深く観察する。
「ハァ? 渋滞かよっ……」
思わずダッシュボードに八つ当たりをした。
いくつものブレーキランプが鮨詰めのようになってしまっている夜景。ふざけないでほしい、どうも渋滞区画に出くわしてしまったみたいだ。歯噛みする。
止まっている暇なんかないってのに……!
焦る、汗が出る、気が逸る。
ぐるぐると脳が空回りを続ける。
このままでは一時停止は免れない。インターチェンジもないので高速道路を降りることもできず、これでは八方塞がりだ。「もう一度、迎撃します……!」と事態を察したホルンが辛そうに身を起こすのを感じる。
甘えたくない、甘えたくないが、俺にはこの状況を打破することも、どうすることもできない。
だからといって、これ以上彼女に負担を強いるのも嫌だ……!
そうこうしているうちに、車が渋滞にハマる。
苦い顔をする。絶体絶命であることを自覚した。車を捨ててホルンを抱えて逃げ出すか? 車内で無抵抗のままやられるわけにはいかない。こうしている間にも快復した襲撃者が襲ってくるかもしれない。相手は空を飛ぶんだ。身一つで逃げられるのか俺は。どうすればいい。どうすれば俺たちは助かる?
ダメだ、答えを出しきれない。
……もうじき、追いつかれる頃合いだ。
荒くなる動悸。震えを押し殺しながら恐る恐るとサイドミラーに目線を配る。
その上空に、奴の姿は見えない。
「………」
「………」
沈黙が続く。不思議なことに、その気配はどこにも感じられなかった。
ホルンにドラウプニルの反応の確認を頼む。
彼女は異常を検知しない。
それでもじっくりと機を窺い、慎重に発言する。
「……………消えた、のか……?」
ぽつりと俺が呟く。不可解な状況に身体を強張らせる俺とは反対に、ホルンは乾涸びた口内を湿らせるように息を呑むと、おもむろにこんなことを口走った。
「助かったんだ……!」
え? と思って振り返る。
ホルンは顔を輝かせながら言う。
「諦めたんですよっ、彼女は……!」
それは喜びを噛み締めるような弾んだ声音だった。「ほ、本当か?」と俺は食って掛かるが、いまにでも感涙してしまいそうなホルンが何度もコクコクと必死に頷いて喜びの共有を求めてくる。
話を聞くところによると、力を消耗して撤退を余儀なくされた可能性が高いらしい。
「実際に、何も起きていない……」
「はい!」
俺は二度の経験から奇襲が怖いと思っていたし、どんな手を使ってくるかも分からないのでぬか喜びは避けたいと思っているのだが、どれだけ待ってもホルンが言うように、次の攻撃がやってくることはない。
張り詰めていた糸が、弛緩するのを感じる。
次第に俺の気も緩んでいく。
「〜〜〜っ」
声にならない声で呻いて脱力した。実感が追い付くと、ぐわっと体の奥底から血が沸き立つような感覚が俺の身に迫った。肩を下ろす。
ようやく息の長い呼吸をすることができた。
「よかった……っ!」
ホルンは、何度も何度も噛み締めるようにそう言葉にする。胸元で小さくガッツポーズをしているのが特に印象的だ。姉の一人を自力で退けたという体験が、ホルンには涙が滲みそうなくらい鮮烈な体験であったのかもしれない。
特に掛ける言葉もなく、邪魔をしちゃ悪いかと思って運転手である俺は大人しく前に向き直る。
サービスエリアかパーキングエリアを見かけたら、一度立ち寄ろうと思った。
それから、深夜三時過ぎ。
宮城県と福島県の県境に位置する国見サービスエリア(上り)を発見し、進入することにした。
車を端のほうに停車させると、俺は一度下車し、体と座席中に飛び散っていたガラス片を払い落とす。
このサイドガラス、どうにかしなきゃいけないのだが、考えるだけで頭が痛い……。
後ほど対応を調べておこう。
そのまま後部座席に移動して、俺はホルンの怪我の手当てを行うことにする。確か仙台宿泊中に買い出した荷物のなかに、軟膏と絆創膏があったはずだ。
彼女の怪我を見ると誤魔化しにしかならないが、しないよりはマシだと考え、ホルンの擦り傷だらけの背中に軟膏を塗っていく。
その手当ての合間に、ホルンからどういう戦いがあったのかも聞かせてもらった。
「魔力は、休めば戻ります。でも相応に時間は掛かる。しばらくは、襲撃はないものと考えていいのかも」
「そうか……」
ワルキューレは自力での飛行を得意としていない(それ故に長距離を移動する際は神馬に騎乗する)。
今回は移動しながらの戦いだったこともあり、襲撃失敗は奴にとってかなりの痛手なんじゃないかとホルンは考えているようだった。
どうも危険な道を渡らせたみたいだが、ホルンは上手いことやってくれたみたいだ。
「何はともあれ、おつかれさまだ、ホルン」
手当てを終え、その頭に手をぽんと乗せてやると、座席に座りながらこちらを見上げたホルンが瞬時に瞳を潤ませる。泣き出すのか笑顔を浮かべたいのか、よく分からない表情を見せると――。
ぎゅっ、と咄嗟に抱きつかれて、困惑した。
「……っ?」
咄嗟のことで驚きが上回る。思わず『ど、どうした』と肩を掴んで引き剥がそうとしてしまったが、突き放すことも受け入れるのもなんだか違う気がして、グッとその言葉を呑み込みながら行き場のない両手をただ持ち上げる。
思考停止のようにされるがままになった。
……力強い抱擁だ。彼女なりに、試練を乗り越えた喜びが全身に溢れ出しているのかもしれない。男女間でここまで積極的なスキンシップを取ることはまずないから、慣れなくて、どうにも心音がうるさい。
頬をぽりぽりと掻いた。
夜風が身に染みる冷たさだ。
「ありがとう、ございます。しぐま」
いずれ満足した様子で離れたホルンが、俺に向けてそんなことを口にする。咄嗟の抱擁で乱れた横髪を耳に掛けて、改まった様子でそう言ってくるもんだから、そんな彼女の瞳に思わず目を奪われた。
「助かりました」
「……まだまだだ。先は長いぞ」
「はい」
「一緒に乗り越えよう」
俺がそう言うと、彼女は更に力強く返事をする。
その笑顔は柔らかい。
俺は気恥ずかしさを誤魔化すみたいに、グータッチを申し込むことにした。
その文化がないらしいホルンは、戸惑いながらも俺の拳に自身の拳をこつんと重ね、恥じらったように笑みを浮かべる。
山場を乗り越えた、と痛感した。
▲▽▲▽▲▽▲
――これ以上の深追いは困難だ。
渋滞にハマるターゲットの車を見て、もうすぐで手が届くところにいるのにも関わらずその追跡を諦めた襲撃者の黒いワルキューレは、身を翻すと横転した大型トラック車両のある地点にまで逆戻りしていた。
発煙筒を灯し、安全のためにガードレール外から道路緊急ダイヤルのオペレーターと興奮した様子で通話をするドライバーの男。その背後にぬっと現れた女は、男の首筋にドラウプニルの鎌首を差し向ける。
「先ほど撮影したものを全て消せ。そして忘れろ」
「ひっ――ひぃぃいいっ!?」
『お客様!? 大丈夫ですか!? どうされましたか!?』
突然の女の出現に慄いて転んだ男が、スマートフォンを路上に放り投げる。スピーカーにされた通話音声は男の悲鳴を聞きつけたオペレーター女性の困惑した声が垂れ流しにされていた。
ワルキューレの女はスマートフォンを拾い上げ、それを腰が抜けたように後ずさる男の顔面に思い切り投げ付ける。
「早くしろ」
「ひいぃぃぃッ、はい……! はい……!!」
脅迫され、オペレーターとの通話をぶつ切りにしスマートフォンを操作する男。「消しました! 消しました!!」と必死に画面を見せながら録画データのなかから先ほど撮影した動画が消えていることを証明する。
「それで全てか?」
「はいぃ……!!」
命乞いをするように男は降伏する。女の殺気立った目つきがそれほどに異常だったからだ。
「嘘を吐いていたら容赦はしないが……」
女は試すように口にする。男は選択を迫られている。
まるで威圧するように、悠然とした足取りで女は迫る。男には逃げ切れる自信が微塵も湧かなければ、生きている心地もしなかった。
「ささささ先ほどッ、動画サイトにアップロードしてしまいました……!」
「なに?」
「許してくださいぃぃぃ!!!」
桐箱に収まりそうなほど綺麗な形の土下座をしながら白状した。男は泣いて懇願する。一度ネット上に上げてしまったものは今更削除しようと残り続ける。現に男がいくつものタグを付けてアップロードした動画はすでに拡散の兆しを見せ始めてもいた。
だからこそいずれこの件がバレてしまい、殺される、と思い込んだ男は命乞いをするという暴挙に出る。
「チッ」――女は舌打ちをした。
それは考えうる限りで最悪の結果だ。
男の顔面をハイヒールの靴底でゴンっと八つ当たりのように蹴り付けると、女は早急に現世から姿を消す。