咄嗟の判断で目の前の高速道路に乗り換える。逃げ切ることを最優先の道路選択をすることにした。
引き換えに、せっかくの稼いだ時間を乗り口で消耗することにはなったが……。
「来ました!」
「早えよ……ッ!」
空いている高速道路上。
合流を終えた矢先にホルンが報告し、悪態をつく。俺からはミラー越しにその姿を確認することはできないが、窓から顔を覗かせて斜め上の角度を警戒しながらそう教えてくれるホルンが、唯一運転中の俺の死角をカバーしてくれていた。
俺にできるのはせいぜい事故らないよう、目の前の運転に集中することだけだ。
「攻撃が来ます!」
「――っ、もう防げないのか!?」
俺がそう言うと、ホルンが苦しそうに言葉を詰まらせる。いや分かっている、『一度くらいなら』とさっき言っていたよな。あのルーン魔術はそう何度も使えるものではないのだろう、尋ねてしまったのは八つ当たりだ。
ジリジリと焼けていく紙のように余裕がなくなっていくのを感じるなか、俺は思い切ってハンドルを捌いていく。こうなったら車線をとにかく切り替えて蛇行運転し、少しでも奴の狙いを外すしかない。
「ぐっ」
まるでハリウッド映画のカーチェイスシーンでも実演しているかのようだ。シートベルトを付けていないため、遠心力に体を投げ出されそうなホルンが索敵をやめて後部座席のアシストグリップを懸命に掴む。
法定速度ギリギリの速度で深夜の高速道路を駆ける。そんな俺の工夫も虚しく、ぼごんっと重量感のある音を立てて、車の天井部分に何かが乗り掛かったのを察知した。
そして。
――パリィン!
「うわっッ!?」
「しぐま!?」
突如として運転席のサイドガラスが破られる。頭上から、ぬっと覗いてきた拳が勢いよくガラスをぶち破り、車のハンドルを奪おうとしてきやがった。
砂利のように粉々に飛散するサイドガラス。そのけたたましい音と状況の変化にパニックになる。冷えた風が一気に流れ込む。ハンドルの制御で手一杯だと言うのに、探るような女の腕が俺の右腕を掴んだ。
被膜のようにドラウプニルを纏った銀色の拳だ。
俺の腕を軽く捻り上げるような怪力を放つ。
「……っっ!」
声にならない。
咄嗟に右手をハンドルから離したおかげで操縦は乗っ取られずに済んでいるが、長くは続かない。腕が折れてしまいそうな苦痛。処理しなければならない情報量が多くて視界がブレる。
左手だけでこの速度を運転することはできない。
苦しんでいると、咄嗟に反対側の後部座席のドアを勢いよく開け放ったホルンが車から飛び出し、器用にもくるんと体を翻させて天井の上に飛び乗った。
「離れてくださいッ!」
そうして叫んだホルンが車の上を占領していた襲撃者を追い払う。女の手がスッと俺から離れ、その行方を見ようと右方向に視線をやると、対向車線上を俺の車と並走するように飛行する女の姿が見えた。
夜闇に浮かぶ真紅の羽を持ったワルキューレ。
女はただ淡々とホルンのことを見つめる。
「抵抗をやめろ」
「――私はっ、死にたくない!」
「掟破りが何を抜かしているんだ?」
まともに取り合う気はないらしい。対向車の大型トラックが俺たちと襲撃者の間に割って入ったタイミングで、奴はその場から姿を消す。どうやら並走をやめて高く浮き上がることにしたみたいだ。
車内にいる俺からはその様子が確認できなくなり、ひりつくものを感じながら、俺は俺の役割に徹するために再度運転に集中する。
膝の上のガラス片を払いながら、いまのうちにホルンと状況確認を行なった。
「大丈夫か!」
「しぐまは運転に集中してください!」
「お前は大丈夫なのか!?」
「はいっ―――私が、彼女を退けます!!」
それは普段のホルンからは考えられないほどの力強い台詞だった。
冷や汗が全身に纏わりつき、車内に侵入する風が俺の体の自由を奪おうとするなか、絞り出すように声を張り上げる。
「――任せたぞ!」
「はい!」
頭上から彼女の足音がする。俺の制限された視界では彼女の勇姿を見届けることができない。だから、心から信頼してやるしかない。
時速一〇〇キロで進む軽ワゴン車上、ワルキューレ同士の対決が幕を開ける。
▲▽▲▽▲▽▲
――荒々しい暴風を一身に背に受けながら車上で膝を突いていたホルンは、高度数百メートル先の上空からこちらをマークする襲撃者のワルキューレを見上げるように睨み付けながら、左手のドラウプニルに深々と魔力を注いで念じた。
術者のイメージを再現した形状へとその形を自動的に変化させる流体金属は、ホルンの前腕部をそのまま銃砲のように変化させる。それはブラスターだ。
彼女は重心を下に降ろしながら車上でバランスを取り、正確に狙いを定め、射出口から一度目の攻撃を放つ。
吐き出されるのはホルンが浮かべる光輪と同じ色をした、凝縮されたエネルギー弾。
火薬を用いず、銃声は響かない。レーザー光を煮詰めたような一射が深夜の高速道路上、地上から上空へ向けて、続けざまに何発も放たれていく。
一度の発射に丸一秒のチャージタイムを要する。
襲撃者はその断続的な攻撃を揶揄うように何度も身を翻して軽々と躱していくと、自身のドラウプニルをもう一度槍に変化させて逆手に構え、思い切り振りかぶって投擲した。
飛来してくる槍に対し、ホルンは即座にブラスターを大盾に変化させると、大きく息を吸い込んで身構える。接触と同時に盾の角度を大きく変え、真っ向から受けるのではなく受け流す。
「ふッ――!」
コンクリートの地面に深々と槍が突き刺さった。賭けだった。アルギズの盾のように全てを跳ね返す鉄壁さがこの盾にはない。
それでもなんとかいなすことに成功し、膨らんだ肺を萎ませながら、ホルンは苦しい顔で面を上げる。
飛行速度を早めた襲撃者が狙いを変えてその頭上を通り過ぎる。
背後を取られることに強い警戒心のあるホルンは、スムーズにドラウプニルの形状を先ほどのブラスターに変更しながら向こうを振り返った。
一度車を通り過ぎた襲撃者は、進行方向上の一キロ先でぐるんと旋回すると、真っ直ぐと迎え打つ形で車上のホルンへ突撃してくる。
体当たりだ。
「!? いっ―――ッッ!」
掴み掛かられ、取っ組み合いながら、真っ向からの体当たりに全身を掬われたホルンは車上に残っていられず置き去りにされる。
コンクリートの地面には何度も跳ねるように体を打ちつけ、上に乗る襲撃者には組み敷かれてしまう。
おろし金で全身を摺るような激痛が駆け巡る。
苦悶の表情を浮かべるホルンに対して、女は容赦なく右腕はハイヒールで踏みつけ、左腕は拘束具のように変化させたドラウプニルで封じ込み、ホルンの抵抗の自由を完全に奪ってきていた。
それは戦闘経験の差とでも言うべきか。
その強さ――冷酷無慈悲な恐ろしさに、ホルンは目尻に涙を浮かべながら、反抗的な目つきでただ睨み付ける。
襲撃者は冷めた目でホルンを見下す。
「お前は目立ちたがり屋なのか?」
「……っ」
苛立ったように口にされるが、ホルンにはその言葉の意味がよく分からなかった。
息を呑む。問答のつもりはないようで、右手を広げて魔力を用い、遠くの地面に突き刺さっていた槍を手元へと引き寄せて掴んだ女は、その形状をパタ(手甲剣)のように変化させて鋒を突き立ててくる。
首筋に突きつけられた白銀。
トドメが刺されてしまう――。
その間際に、眩い光とクラクションの音が近くで鳴り響くことになった。
「!?」
「ッ」
見ると高速道路を利用するその他の一般車がホルンと襲撃者を轢きそうになっていた目前の出来事で、その一瞬の間にフッ――と二人は一般車の前から姿を掻き消す。ドライバーは幻でも見たのかと困惑するに違いない、そんな刹那の出来事だった。
予期せぬ阻害を受けた襲撃者は、ホルンの首を掴んで上空に転移している。
今度こそ誰の邪魔も入ることはない。
襲撃者は先ほどのトラブルも踏まえ、今一度ホルンに自身の行動の是非を問いかける。
「掟を覚えているか?」
「っ……っ、覚えて、いますっ……」
「であれば、分かるはずだ」
「………」
「お前が抵抗すればするほど、我々にとっては迷惑でしかない」
姉による否定の言葉は、ホルンにとって、どんな傷よりも深々と突き刺さる痛みを持っていた。
瞳を一層潤ませるホルンを前にしても、襲撃者の冷ややかな眼差しの温度が変わるようなことはなく。
「速やかに処罰する」
ホルンは唇の端を噛み締める。
「いやだ……!」
反抗的な目つきを取り戻したホルンが体を丸め、目前の襲撃者の胴体を強く蹴り飛ばすと、蹴り付けたその反動で手元から抜け出すことに成功する。
途端に自由落下するホルン。
姉の舌打ちがかすかに耳に残る。
「っっ」
間もなく路上に衝突するというところで、ホルンは即座に羽根を展開した。姿勢制御に手間取りながらもすぐに逃走を開始する。トップスピードは車の最高速度をも超え、新幹線に並ぶ三〇〇キロほど。
地面スレスレの高度を車間をすり抜けるようにホルンは逃走し、それと同等の速度で襲撃者が追い縋る。
ワルキューレの飛行には多くの魔力を消耗し、時速を高めれば高めるほど長くは保たなくなる背景がある。魔力はあらゆる技の媒介として使用するものであり、過剰な消費は継戦能力の低下にも繋がるため、この一手は本来褒められたものではないが……。
すでにルーン魔術を二度も立て続けに地球上で使用しているホルンと、先ほどから常に飛行を続けホルンに対する攻撃を繰り返していた襲撃者のワルキューレ。
どちらが先に限界を迎えるかは定かではない。
生き残るための博打のような賭け。
その行動は、諸刃の剣だった。