「予定は早まったが、次の目的地は決めてあるんだ」
いつ来るかも分からない襲撃を恐れて引き続き運転中。
信号待ちの間に助手席のホルンへそう声を掛ける。
「親戚を頼りに行こうと思う」
「ご親戚、ですか」
ホルンが意外そうに頭を持ち上げる。
俺は首肯を一つ、その理由を簡単に説明した。
「このままじゃ貯金が尽きて立ち行かなくなるのはわかっていたから、遅かれ早かれ誰かに頼らざるを得ないとは思っていてな」
自由に使える金がもうじきなくなる。これ以上の逃避行を続けるには誰かからの協力を得るしかないが、県外に友人はいないし地元へ帰ることもできない以上、行き着く先は歳の離れたいとこのところしかなかった。
中学の頃にばあちゃんの葬式で会って以来だから、振り返ると五年ぶりぐらいにはなるのだろうか。
じっちゃんと俺が二人暮らしになるっていうとき、「うちに来れば?」とこともなげに言い放ったいとこの涼しげな顔はいまでもよく覚えている。
……その言葉の意味を尋ねたら「数年後にはまた一人ぼっちになっちゃうから(意訳)」みたいなブラックジョークじみた発言だったと分かったときには、当時の俺はドン引くしかなかったけど……。
連絡はいまでも取り続けているが、最近の近況報告はしていない。
巨獣出現のニュースが日本中を震撼させた頃に一度『大丈夫?』と連絡を受け、端的に『無事』と返事を返したのが最後だ。
「断られたらそれまでだけど……、好意に甘える形になっちゃうけど、あの人なら数日くらいなら受け入れてくれると思う。突然行っても」
正式なアポイントメントは日が登ってからにする。ダメだったら別の方法を考えるが、どうせこの街から発つ必要はあるのだ。
目的地がある方向に車を走らせておく分にはいいだろう。
「その方はどこに?」
「横浜。ここから相当距離があるかな」
仙台から横浜までの大まかな距離を算出。片道四百キロ近いロングドライブだ、恐ろしい。
神奈川には一度も行ったことがなければ、それほどの長距離を運転したこともない。
当然、不安はあるものの、いい旅になるんじゃないかという予感もあった。こんな経験をしてすっかり楽しむ気持ちを失っていたが、元々は『地元を出てみたい』『自分の持つ世界を広げたい』というのが俺の根底にある一つの行動原理だ。
正しく言い換えれば、いい旅にしたい。という希望がある。
「その。しぐま、私にできることがあればなんでも言ってくださいね」
「ありがとう」
ロングドライブを覚悟していると、ホルンにそう気遣われてしまって苦笑する。運転中の俺に余裕がないことが助手席の彼女にはよく伝わってしまっていたのだろうか。おずおずとお伺いを立てるような優しさだった。
ありがたいけど、どこか情けない気持ちだ。
もう少し、スマートに運転できる男になっていきたいと思う。
その後、軽快に車を走らせ続ける。
深夜ということもあって片側二車線の国道路線上は大した混雑の様子もなく、広い視野を持って快適な走りを行うことができていた。
静謐でしっとりとした空気が占め、夜行性動物にでもなったような感覚。
閉店時間を迎えたファミレスやカーショップ、商業施設の数々を横目に通り過ぎていく。暗い時間の道路はまるで世界が別物になったような感覚に陥ることができる。街路樹の隙間から覗くぽつんとした街灯と正面に点在する信号機の眩さが、薄ぼんやりとした輪郭を形成する夜。
ホルンはドラウプニルの赤い信号を感知した。
「――来ました!」
「っ」
全身が強張る。ついアクセルを強く踏み込んだ。身構える。確かな襲撃の予感。前触れ。その予兆。肌が粟立っていくのを自覚する。
ちらりと助手席を確認してみると、確かにホルンの腕には赤い信号が灯っているのが見て取れた。
――本当に、来やがった。
サイドミラーやバックミラーに目線を配る。気が気じゃなかった。現状、俺の視界のなかではなんらかの異常を確認することができない。
「敵がいないかよく確認してくれ!」とホルンに声を掛けながらも、俺は努めて冷静に安全運転を心がける。
気が動転して事故を起こしてちゃ元も子もない。
小柄なホルンが後部座席へと器用に移り、右も左も窓を開けて顔を覗かせながら襲撃者の位置を必死に探ってくれている。
ドラウプニルが、一定のテンポで点滅を繰り返す。過去通算二度、実家での襲撃時と火炎球で攻撃される直前にその信号は受信しているわけだが、これほどまでの秒数を点滅が繰り返したところは見たことがない。
故に、気が逸る。恐れが沸き立つ。
……………何も起こる気配がない。
確かな予感だけ残っているのが、気持ち悪い。
「見つけられたか?」
「いえ、どこにも……。それらしいものは……」
ホルンが唖然としたように呟く。手元の信号に目を落としてはその表面を指先で触れて確認してみても、信号は赤いまま。その作動を疑うことはできなかった。
狙われているはずなのにこの静寂が、分からないとホルンは態度で訴える。
喉が張り付きそうになるほどの緊張を味わいながら、俺はなけなしの可能性に縋り付いてみることにした。
「本当に、奴は俺たちを見つけられているのか?」
「はい?」
「いや、このまま一般車のつもりで運転していれば、この様子なら気付かれないんじゃないかと思って……」
それは、途端に張り詰めた緊張の糸を緩めたいという意識が働いたのかもしれない。
怪訝な面持ちでバックミラー越しにこちらを見つめてくるホルンから視線を外し、深々と息を吐きながら俺は真正面に向き直る。全ては一瞬のことだ。不注意をしていた自覚もないのに、俺はその瞬間、進行方向上に突っ立つ不自然な人影を初めて認識した。
「つッッッ!?」
「きゃっ―――」
息を呑む。道路の真ん中でこちらを待ち受けていた一人の女性の影。強引にハンドルを切ってその衝突を回避すると、車はぐるんぐるんと大きくタイヤをスリップさせてなんとか踏み止まる。
汗がブワッと吹き出した。
夜間で、車通りがないことが幸いした。すんでのところでなんとか回避できた危機だ。
危うく事故になりかねなかった一瞬の出来事に、ドッとした心労を覚える。
「し、しぐま……」
後部座席で警戒に当たっていたせいでスリップの原因をまだ分かっていないホルンが、心配したように身を乗り出して俺の顔を覗き込んでくる。
違うホルン、見てほしいのはこっちじゃない。窓の外に注意を向けてほしいと思っていても、うまく声が出てこない。息が上がりそうな動悸のなか、なんとか首を振って意思表示し、俺は窓の外を見据える。
――案の定、そこには、あの日俺たちを襲撃した黒いワルキューレが立っている。
「いますぐそこから降りれば話を聞いてやらんこともないぞ、ホルン」
「っ……」
ホルンが青ざめた顔で息を詰まらせる。女は片手に槍を装備していて、一度も光輪や羽根を見せなかったカーラとは違って臨戦態勢は取られていると見ていい。
こちらの反応がないと見るや、女はゆっくりとした足取りでこちらに近付いてくる。
刻一刻と、選択を迫られているのを感じる。
「たっ、戦えるか? ホルン」
投降するという選択肢ははなからなかった。
俺にそう尋ねられ、ハッと顔を上げたホルンが俺の目を見つめて答える。
「っ、迎撃が精一杯です!」
「ここでやれるか!?」
「やりたくないです……っ!」
端的にやり取りを交わす。ならば、と、俺はシフトレバーを動かして再び車を発進させる決意をした。
アクセルはベタ踏み、俺にできることはいますぐここからホルンを連れて離脱することだけだ。
バックミラーで確認する。
足を止めた襲撃者は姿勢を変えて槍を逆手に構えると、全身の筋肉を引き絞るように大きく体を傾け、投擲する直前の姿勢を取った。次に何が起こるのかを瞬時に理解した俺は青ざめる。
まずい―――――。
「一度くらいなら……!」
「手があるんだな!?」
「はい!」
「頼む……!」
後部座席に膝立ちしていたホルンが頭上に光輪を発生させ、リアウインドウ越しに襲撃者を睨みつけながら、両手を前に出してタイミングを図っているのが伺えた。
女が投擲する。
「アルギズの手が折り重なるように!」
呼応するように、ホルンがルーン魔術を唱える。
その呪文が何を意味するのか、いまから何が起こるのか。予測不能な状況に俺は渋い顔で身構えるなか――。
車の後方に光の盾が顕現した。
呪文に対応すると思われるルーン文字を中央に表示した豪華な意匠の緑色のその盾は、とてつもない速度で飛来する一投を見事に弾き返してその役目を終え、じわじわと光に溶けていく。
「っ、はあっ」
気力が抜けたように、光輪を失ったホルンが尻餅を付く。
攻撃を阻止されたワルキューレの様子はすでに遠目で確認することができない。
距離を取るならいまのうちだ。
「ナイスだホルン!」
「あっ、ありっ、ありがとうございます!」
俺が称賛すると、彼女は上擦った声で返答する。
この僅かな時間を無駄にはしないよう、俺は必死になって車を飛ばし続けた。
どうも、ここからが本当の正念場みたいだった。