深夜未明。意外にもすんなりと逃げおおせた先で、車を停めた俺はホルンに向き直って謝罪した。
「勝手なことをしてごめんな」
「いえ……」
力なくホルンが口にする。彼女は俺と目を合わせてくれない。
それ以上の掛ける言葉が見つからなくて、二人きりの車内で無言の時間を共有する。
……しばらくして。
ホルンは、ぽつぽつと語り出した。
「あの人は、カーラ。私の二十三番目の姉です」
「そ、そうか……」
ワルキューレという集団が組織立って行動する上、姉妹関係であることを考えれば本来驚くこともないが、数字で聞かせられると思わず目を白黒させてしまうところがある。
戸惑いをぐっと呑み込んで続きを促しながら。
「いつも、あんな人なんです」
諦めというか、鬱っぽいというか。
憂いを帯びた顔のホルンは膝を抱えるように丸まりながら、感情の高まりにくしゃっと顔を歪める。
「っ、私、間違ってないと思うんですっ……っ」
「――そうだよ。お前は間違ってない」
その言葉に、ホルンはまだ一人で戦っているのだと思った。
外部の人間である俺からできることとして、援護射撃のように、一つの信念を持って彼女のことを勇気付ける。俺のこの言葉に嘘はない。
「だって、魔物が現れて一日が経ってますもん……! いつもすぐに対応するから、きっと向こうで何かがあったんだって思って……。私が、やるしかないんだって思って………」
溜め込んでいた感情の吐露。パチパチと刺激物みたいに、カーラの悪意ある言葉の数々が脳内に思い起こされる。あの少しの間の接触だけで俺の心にもそれなりの引っかき傷を生んでいるのだから、顔馴染みのある彼女にとっては余計に辛かったことだろう。
労わるように、優しく彼女の背をさする。
「『最愛』なんて、嘘……っ」
……自然と、苦虫を噛み潰したような顔になった。
兄弟のいない俺は、ホルンの気持ちを全て正しく理解することなどはできない。だからどれも薄っぺらいような気がして、気安く言葉を掛けられないのが歯痒い。
拳を握り締める。
無力感を噛み締める。
ひとしきり泣きじゃくり、しばらくして落ち着いた様子のホルンが、ゆっくりと身を起こす。
申し訳なさそうに、ちょっとだけ恥ずかしそうに、にへらっと曖昧に笑いながら。
「……すみません。変なところを、お見せして。いつもなら、平気なはずなのに」
その顔を見て、俺は我慢ならなかった。
「悪くない。ホルンは、悪くないよ。本当に。うまく言えない、それしか言えないけど……」
カーラが言っていたように、向こうの事情を知らないのは事実だ。だから下手に踏み込んだことなんて言えないし、無責任にジャッジするつもりもないけど、それだけは疑いようなく言える。
言えるから、言ってやりたいと思った。
少しでも孤独なホルンの心に届けばいいと思って。
ふっ――と、儚げな微笑をホルンは浮かべる。
その頑張り方に、胸が張り裂けそうになりながら。
「ありがとうございます、しぐま」
「お前は悪くない、本当に悪くないから……。あんな奴の言葉、間に受けなくていいんだから……」
「はい」
俺に気を遣って、普段通りを装い始めるホルンに言い知れないやるせなさを感じる。
どうしたら彼女の気持ちは救われるのだろうか。
彼女が以前口走った『グズ』だとか『ノロマ』だとか言う言葉も、決して彼女の言葉ではないような気がする。あの姉の態度を思えば……。
これは、根強い問題だなと思った。
泣き腫らした目の彼女は深呼吸する。
「ワルキューレは、原則、人間に手を掛けることはできません。カーラはああ言っていましたが、しぐまが狙われることはないと思います」
「え、そ、そうなのか。別に、もう覚悟はしてたんだけど」
「……でも、私は狙われるだろうから。これ以上しぐまに迷惑をかけないためにも、このあたりでお別れしたほうがいいのかもしれません」
「待て、それはないだろ。ダメだ、俺はまだ協力するぞ」
断固として首を振り、なんだったら車のロックまで掛ける。こんな形で別れるつもりは毛頭ない。ホルンは俺のことを試すようにじっと俺の目を見つめる。
「勝手なことをしたのは俺だ。だから責任は取る」
「気にしないでください。助かりました」
「そうじゃなくても、嫌だろ。ならお前はここで俺と別れたいのかよ。一人のほうが逃げられる、生き延びられるっていうなら俺も素直に身を引くけど、気を遣って言ってるだけなら俺はお前を一人にしないぞ」
唇を尖らせて俺がそう言うと、我慢していたホルンの瞳に再び湿り気が加わる。
堪らず、といったふうに彼女は素直な気持ちを吐き出した。
「――っ、この先も、力になってほしいです」
「うん。大丈夫だから」
慰めるように言葉を掛ける。どうしても、一介の高校生一人とワルキューレの末妹のコンビだ。そのバックに大きなものがあるわけじゃないし、頼ってもらうには俺の背中は貧弱すぎると思うけど、どうにか騙し騙しやっていくしかない。
ちょっとずつ、前に進むしかないのだ。
「じゃあ、大きく移動しないとな、また」
「……はい。そうですね」
平常時より対応が遅れているという懸念点はあるがカーラが魔物対応してくれるということで(※皮肉)、俺たちの方針はやはり我が身優先に、巨獣が現れた登米市からさらに遠ざかるように南下していく必要がある。
どのみち金銭面でも余裕がなくなってきていて、どうしようかと手をこまねいていたところだ。
「妙子さんへ連絡するの、手伝ってもらってもいいか?」
「は、はい。魔物のことですよね」
「うん。悪いけど事後処理は彼女に任せよう」
車を長く停めているのは不安だったため、走り出しながら連絡を取ることにする。助手席のホルンにスマホを持ってもらい、スピーカーにしながら電話を掛けることにした。
現在時刻を考えると繋がらない可能性もあったが、数回目のコールでなんとか通話が繋がる。
寝ぼけた声音の彼女が『もしもし……』と気怠げに応答する。
「夜分遅くにすみません。斉藤志久真です。公園の魔物の件なんですが、たったいま解決しました。それで、お願いしたいことがいくつかあって……」
『ちょっちょっちょ、はあ!? 何言ってるの君!?』
思わず運転に支障が出そうな大声で言われてしまって、苦笑する。とは言え無理もない。向こうからしたら昨日の今日で意味の分からない話の展開のはずだ。こんな時刻だし。
余裕さえあれば順を追って説明してあげたいところだが、あいにくとそんな時間的猶予もなく、端的にこちらの目的を告げる。
「後ほど大まかな場所に印を付けたマップ画像を送信するので、そこで魔物の死骸がないか確認してください。なくても大丈夫です。仕留められているのは確認しました」
『え、えーっ、ちょっと……どういうこと……』
「できれば俺たちも同行したいんですが、込み入った事情で街から少し遠ざからないといけなくて。すみません。あとは任せます」
『ちょっと待ちなさい! いまどこにいるの?』
「あー……いま運転中です」
回答拒否すると、『ええっ』と妙子さんが分かりやすく困惑のリアクションを見せる。
そのまま『う、うーん……』と唸り、次に彼女は『そうだ! ホルンちゃん? いる? おーい!』と画面越しでホルンに呼びかけ始めた。
スマホを持ちながら狼狽えるホルンに、答えていいよとアイコンタクトを送りながら。
「ほ、ホルンです」
『あ、ホルンちゃん! ちょっといまどこにいるの? 会って話しましょう』
「ごごごめんなさいっ、ここがどこかよく分からなくて」
『ああぁ〜そっか! 帰国子女だもんね……!』
その設定まだ通るんだ。コントみたいなやり取りを繰り広げる二人に笑ってしまいそうになるのをぐっと堪えながら。
困り果てたように、妙子さんがぽつりと呟いた。
『えぇー、本当に……?』
ホルンから電話を引き継いで、俺がもう一度『はい』と神妙になって答える。
妙子さんは真剣な声のトーンで言う。
『志久真くん。どういうつもり?』
「言葉通りです。魔物も俺たちが直接手を下したわけではないです。詳しいことは、うまく説明できないんですけど……」
『何か事情があるのは分かるわ。でも私は首を突っ込まないって約束したのにこうなってることに怒ってる。おじいさんは? ちゃんと人に頼れてる?』
「すみません……。はい。もう大丈夫です」
『危ないことに巻き込まれてはいないよね? 本当に言える?』
「はい。すみません」
妙子さんの心配の声に、心を痛める。悪いことをしているなという自覚はもちろんあった。
顔色を悪くする俺を見て、まだ俺に対して負い目を感じているホルンが気難しい表情を浮かべる。
その困り眉に、「大丈夫だから」と囁くようにホルンの気を落ち着かせてあげながら。
『そっか。それなら信じる。また何かあったら私に電話しなさい。今度は嘘はなし。それなら私も旦那も力になるし、絶対よ』
「お願いします」
本当に、温かい人だ。仙台滞在中、妙子さんと繋がることができて本当によかったと心から思う。
このようなお別れとなるのは、寂しい限りだが……。
『またこっちに帰ってくること、あるんでしょ?』
「はい。そのうち」
『なら、また二人でうちのお店きて』
「もちろんです」
「また」
ホルンがぽつりと一言添え、湿っぽい通話はこれにて終了する。
かくして、魔物事件の事後処理は一旦妙子さんに任せることになり、追っ手が控える俺たちはこれ以上仙台に滞在することもできず、東北の地をあとにすることになった。
逃亡を始めて本日で四日目。
誰よりも濃密な冬休みを過ごしている気がした。