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第16話 エンカウント

 ブラックドッグの硫黄の匂いは、姿を現したときと消えるときにどこからか香ってくるとされる。

 つまりそれが事実ならば、先日の調査のときも今回も、奴はずっと俺たちのことを影から狙っていたってことだ。


「……っ」


 豪速球のような火炎球が掠めて行った森のなかを、遡るように懸命に駆けていく。一本だけ焼け朽ちた木もそうなのだが、魔物の炎は通常の炎とは違った燃焼の仕方をするらしい。火炎球が掠めていった枝葉や幹といったものは抉られたように爛れるか炭のように燃え尽きており、それ以上の延焼をした形跡は見られなかった。

 これがブラックドッグの地獄の火、なのだろうか。


 額に脂汗を浮かべながら息も絶え絶えに坂を登る。ホルンの光が見えた。安心するが、どうもその影は戦っている様子がない。魔物はいなかったのか? 疑問に思いながらも先ほどは幻覚攻撃なんてものまであったので、慎重に様子を伺いながら、無事を見て接近する。


「ホルン、どうだった」

「………。分かりません。何か、おかしいです……」


 こちらと目も合わせず立ち尽くすホルンが、戸惑ったようなことを口にする。怪訝に思い、その見つめる地面に俺も目を向けると、転々と更に向こうへ続いていく血痕が確認できた。

 ここまで続くルーン魔術の痕跡とも重なるあたり、それが魔物のものであることは疑いようがない。


「……戦ったのか?」

「いえ、私が来たときにはすでにいなくて……」


 とすると。


「魔物は手負いなのか……?」


 新たな疑問が浮かぶ。血痕は新しい。この先に待ち受けるものがなんなのか分からなくて、恐ろしさからゴクリと生唾を呑み込んだ。

 ホルンと頷き合って、血痕を辿ることを選ぶ。


 しばらく歩き、少しだけひらけた場所に魔物はいた。


「っ、」


 ――そして、謎の人影も。

 がさりと音を立てて覗き込んだ俺たちに気付いたその人影は、ぷらぷらと手を振りながらこちらに声を掛けてくる。


「おい、どうせホルンなんだろー? 隠れてないで、出てこいよ。早く」


 気の強そうな女性の声だった。

 状況とその発言内容から見て、ワルキューレの一人であることは確かだ。ホルンを差し置いて俺が出て行くわけにも行かず、彼女にその判断を委ねる。


 と、まるで叱られる前の子どもみたいに思い詰めた表情で小刻みに震えながら、ホルンは言われた通りにおずおずと出ていく。

 その顔色の悪さに(大丈夫か……?)と心配に思う。

 言い知れぬ不安を感じながら、俺も躊躇いがちに前に出る。


「――ハッ。こりゃあ傑作だぜ。掟破りとして追われる立場でありながら、随分と余裕があるみたいじゃねェか、ホルン」


 その女は、すでに仕留めたと思われる魔物の伏した胴体に足を組んで座りながら、まるで毛深く上質なソファにでも背もたれるようにして傲岸不遜な態度でこちらを出迎えた。

 女は赤を基調としたワルキューレみたいだった。赤い巻き髪のツインテールに赤い瞳、竜のような縦型の瞳孔が特徴的な少女だ。

 肩には魔物退治に使われたのだろう、血まみれの銀槍が掛けられている。


 まるで嘲り笑うような、小馬鹿にした印象を感じさせる声のトーンで、女は次々に口にする。


「人間様を侍らせちゃってなァ〜? ホルン。よくアタシの前にその面出せたもんだぜ」


 見るからに高圧的で、その印象は最悪。悪意を向けられたホルンは、気が弱いから言い返すこともできず、どこまでも背中を小さくしていく。その痛ましい姿にいてもたってもいられず、俺は乾いた口内を湿らせてから一言返す。


「お前が、呼んだんだろ」


 まさか部外者であるはずの俺から口撃されるとは思わなかったのだろう、女はきょとんとした顔をした。ホルンが『やめて』と俺の袖を引っ張る。


 女は「クヒッ」と楽しげに喉奥で笑う。


「おいホルン! 喜べよ、お前の王子様はお前を庇ってくれてるみたいだぜ? なァ。顔を上げろよ」

「……っ」


 ……ダメだ、すぐに俺から目線を外される。どうやら俺は眼中にないらしい。

 女の標的は常にホルンみたいだ。低く高圧的な命令口調。息を呑んだホルンが、怯えながらも顔を上げる。

 俺は居た堪れない気持ちになっていく。


「アタシは嬉しいんだぜ? なんてったってやらかした最愛の妹とこうして再会できたんだから。なァ。不出来であるが故に地上に身を落としたホルン。その信念はいまでも忘れずってか? あっぱれだぜ、拍手拍手」


 乾いた拍手の音が、森のなかにこだまし続ける。

 楽しげな声のトーンから一転、女はニヤつきながらいやらしくもこう口にした。


「ッたく、恥ずかしくないのかねェ。どうしたらそんなに面の皮が厚くなれるのかねェ」


 悪意しかない最悪のワードセンスだ。性格が悪い。

 俺ですら憎しみを覚えて拳を握りしめるくらいなのだから、向けられている当の本人の心境を察するのは難しくない。


「まさかだけどさァ、アタシらの手がこんな些事まで回らないと気でも遣ったつもりか〜? 相当アタシらのことを舐めてるんだよな、お前」

「ちッ、違う、ただ、被害が広がらないようにっ……」

「だからそれが舐めてるって言ってんだよ。そもそもこっちに迷惑掛けたのはお前なんだから、変にでしゃばんなって! 面白すぎんだろ!」


 ケタケタと、腿上を叩きながら一人で大笑いする女の姿を見る。

 ホルンは怯んだように顔を俯かせる。「顔上げろよ」――と、間髪入れずに女は強要する。

 ホルンが泣きそうになりながら、顔を上げる。


 ……見ていられない。

 なんとかして、俺が割って入らないと。


「おいおいおいおい、動くな。人間。殺すぞ」

「ッ……」

「自分の立場を勘違いするなよ?」


 ダメだ。睨まれてしまって身が竦む。ホルンほど因縁があるわけではないのだから俺がなんとかするしかないはずなのに、どうしても動けない。ホルンのためにしてやれることがない。

 無力感に歯噛みする。


「まあでも、ここで会ったのがアタシでよかったな! ホルン。そう思うだろ? 感謝しろよ、なァ」

「………は、はい。ありっ、ありがとう、ございます。カーラ……」

「くふふっ! ああ、おいおい。言葉だけじゃ意味ねェぜ。ちゃんと何に対してか分かってるか? 分かってたら、突っ立って言えないよな。なァ」


 なんだ、何を求めている。二人の間に共通言語としてあるものを俺だけが理解できていないから、そのやり取りを訝しんで見守る。

 と、ホルンが、内心の葛藤を堪えるようにして、震えながら膝を突こうとするから。

 何が行われようとしているのかを察した。



 ――ホルンに、土下座させる気なのか、この女。



 かぁっと心臓の裏が熱くなったのを感じた俺は、咄嗟にホルンの腕を取ってしゃがむのを阻止する。

 それを見て、機嫌を損ねたように女が俺を睨む。


「……何してる?」


 俺は、頑張って声を張る。


「お前たちは、姉妹なんじゃないのか」


 底冷えするような声で女が言う。


「関係ねェだろ」

「ある。ホルンに土下座させたくない」


 毅然とした態度で俺が訴えると、呆れたように女が首を傾ける。

 ジロッとした眼球の動き。再びホルンへ目を向ける。


「おいホルン! この馬鹿説得しろよ面倒くせェから。ウチらの事情も知らねェくせにな」

「……そ、そうです、しぐま。離して、だめ、だめなんです、じゃないと私、見逃してもらえない……」


 ホルンが涙声で俺に乞う。分かっている、分かってはいるけど!

 冷静になれ、俺は何がしたいんだ?

 状況だけで見ればしたほうがいい。土下座で済むなら安い話だと俺も思う。だけど、この悪辣な性癖をした女にホルンが屈していいと思えない。ホルンの尊厳をこれ以上侮辱させていいとは思えない。

 この女の思い通りに行くことが、俺は納得できない。


 必死に知恵を絞り、打開策を模索する。


「……どうせ追われる状況だ、俺たちは。お前に命乞いしたところで、それは変わらないんじゃないのか」

「………」


 女はスッと目を細める。

 震えた自分の声を押し殺すよう、拳を握りしめて、強く発声する。


「あの黒い女はすぐに襲ってきたのに、お前は任務や処罰を優先することなくここで。だからホルンが気を遣うんだろ、お前には任せられないって」

「しっ、しぐまっ……!」

「……何が言いたい?」


 大丈夫、大丈夫。まるで賭けみたいだが、打算はある。襲撃者と違ってコイツがここで長々と話をしているのは、性格の違い以上の理由があるはずだ。ホルンがずっと気にするように、巨獣追跡や各地の魔物対応など、依然として仕事が多いはずなのにここでのんびりしている余裕が向こうにあるとは思えない。


 俺は俺にしがみつくホルンを一度離させて、安心させるようにしっかりとその手を握りながら、女を睨みつける。


「お前は、自分でホルンを手に掛けられないんだろ」


 その証明は、ホルンのドラウプニルが赤い信号を発信していないことからも行うことができる。


「………」

「ホルン逃げるぞ。これは時間稼ぎかもしれない」


 そうして俺は身を翻すようにホルンの手を思いきり引っ張った。「えっ――」と目を見開くホルン。彼女を強引に連れ出すことで、その思考を逃げることに強制シフトさせる。


「なっ―――――」


 女が困惑したように言葉を詰まらせる。やはりすぐには追いかけて来ない。何もかもが襲撃者のワルキューレとは違う。

 こいつは、言葉だけだ。



「逃げるなホルンッ!!!」 「気にするなホルン!」



 奴の怒号と俺の声が重なる。板挟みになったホルンは足をもつれかけさせながらも、しっかりと俺に付いてくる。

 そう、そうだ。構わなくていい。あんな奴は放っておけ。謂れのない言葉に、お前がそんなに泣いてしまう必要はないだろ。

 これはもはや義憤のようなものだった。ホルンが可哀想で、でもホルンは何も言い返さないから、俺が代わりにどうにかしてやりたくて。


「――人間!! お前はアタシが殺してやる!!」


 彼方から聞こえる言葉に薄ら笑いを浮かべる。

 別に、後悔はない。

 これでホルンも俺も、立派な逃亡者になってしまったわけだ。


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