「れっきとした不法侵入だな……」
もしもバレたら経歴に傷が付く、と冷静になればなるほど笑えなくなる状況に嫌気が差しながらも、目的のために慎重に足を踏み入れる。
深夜。森のなかへは散策路側の通路から登っていく形で入り込むことにした。
人目がないこともあり、ホルンは潜伏用に着込んでいた上着を脱いで元のワンピース姿に戻る。
「見てるだけで寒そうなんだけど」
「しぐまは、風邪を引かないようにしてください」
「いや、言われなくてもそうするけどさ」
肌寒そうでなんだか見ていられない。ホルンは、どうもこちらの姿でいるほうが力を発揮しやすいのだそうだ。
俺はドラッグストアで調達した使い捨てカイロを両のポケットに収め、冷気を肌身に触れさせないよう縮こまりながら必死に暖を取る。冬の夜、しかも森のなかとあっては、冗談抜きで凍えてしまいそうだった。
吐く息が外気温と触れ合って白く膨らむ。
今年はまだ雪が降っていないだけ、不幸中の幸いと言えるだろうか。
「じゃあ、俺が先頭行くから」
「……大丈夫ですか?」
スマホのフラッシュライトで足元を照らしながらいざ進もうとすると、心配からきた言葉なのだろうが、水を差すようなことを言われてしまって足を止める。
振り返りながら。
「その代わり、もし目標を見つけたらその対処はホルンに任せるからな」
「……はい。もちろんです。しぐまは自分の身を一番に守ってください」
「おう」
ホルンと各々の役割を確認し合ったのち、改めて歩き出す。
実はここに来る前、ホルンには一度『しぐまは待っていてください』と気を遣うような台詞を言われていたのだが、いまさらホルン一人にだけ任せる気にはなれなくて一緒に行動することを選んだ経緯だった。
実際、これから魔物退治なのだと思うと恐れる気持ちもホルンの戦うところを見てみたいと思う気持ちも正直なところ半々は抱えている。が、何の力も持たない一般人として、きちんと弁えたい気持ちも俺にはある。
先頭に立つのは、俺なりの役割遂行のためだ。
先日の調査のとき、ホルンが山歩きに苦心していたのをよく覚えていたから、彼女よりも山道やけもの道を比較的歩き慣れている人間として前にいたほうがずっと効率的で安全だと考えた。
――がさり、と枯葉を踏み締めながら奥地へ。
夜の森は不安になるほど静かで息が詰まる。風が吹き抜ける音。冬場は木の葉は大きくさざめき立つこともなければ、多くの虫や動物もなりを潜めているので異音が鳴ることは滅多にない。
五感が研ぎ澄まされていくような感覚。手元の光源のみを頼りに前回の焼け朽ちた木があったポイントまで目指すことにする。
錯覚なのかどうかは分からないが――、どこからか視線を感じるような気がして、それが特に不快だった。
すん、とホルンが鼻を鳴らす。
どうやら違和感を感じ取ったみたいだ。
「しぐま」
「ああ、俺も感じる……」
囁くように確認し合う。やはり悪寒は間違っていなかったようだ。途端に立ちこめる硫黄のような匂い。明確に狙われているような気配を察知する。
ここから先は警戒を強めたほうがいいだろう。
数瞬の間に重ねた思考で次手を模索するなか、ハッと気付くとそばにいたはずのホルンがどこにもいなくなっていることに気付いた。
「――ホルン?」
俺は周囲を見渡す。無風と静寂と、そして困惑。この森のなかでぽつんと俺だけが孤立する。彼女はいったいどこに行った??
混乱する頭で「え」と一言だけ呟く。状況の変化には理解できても、この事態を呑み込むことができない。一人だけ取り残されてしまったような感覚が俺の不安感を駆り立てる。忽然と消えてしまったホルン。探そうと声を張り上げようとして、――がさり、――がさり。と慎重に枯葉や枝を踏み締める異音を俺の耳は拾った。
その不穏な気配に俺は息を呑む。
だんだんと、恐怖心が俺のなかで発露する。これはまずい。俺は恐れている。シャツの胸元を掻きむしるようにぎゅっと握り込む。少しでも俺という存在を掻き消すために心臓のがなりを抑えたかった。
「はぁッ、はぁッ」
堪えきれず、息が上がる。なんだか腰が引けてきて身がすくむ。獣の足音は一点だけじゃなかった。前ですると思えば、後ろ、右、至るところでがざりがざりと音を立てている。精神的に追い詰められていく。
ひょっとして、魔物は一匹だけではないのか――? そんな憶測が脳裏を掠めた。戸惑いから視界がパチパチと弾ける。
視野が狭くなっていくのを感じる。
手の震えを自覚する。
恐怖心に身が囚われそうになったそのとき、
白くまばゆい光がパァと視界を埋め尽くして目が醒めた。
「しぐま!」
途端に彼女の声が聞こえたかと思いきや、先ほどまではそこにいなかったはずなのに、いや俺を置いて消えていたはずなのに、まるで当然のように俺の隣で俺のことを心配するホルンの姿を観測する。
……どういうことだ……?
彼女は、呆然と立ち尽くす俺を相手に懸命に寄り添ってくれていたようだった。
押し寄せた高波が引いていくように、冷静になっていくのを自覚する。
「幻覚、か……」
周囲に獣の気配なんてない。硫黄の匂いもいまは感じ取れない。
先ほどまでの不可解が解けた瞬間、急激に体から力が抜けそうになった。
「私の手を握っていてください」
「………」
そう言われ、この状況下でも漢気を張れるほど余裕のなかった俺は、大人しく差し出された手を取る。
なんとも複雑な感情だ。情けないやらありがたいやら。握り返してくれるホルンの手に、悴んだ俺の手は迷惑じゃないだろうか?
「行きましょう」
「……ああ」
言うなれば、洗礼のような出来事だった。
まるで『来るな』と俺たちの侵入を拒むような現象に、息を呑む。
何が起こるか全く読めない。
決意を新たにした俺は、更に森の奥地を目指していく。
「――ここだ」
それから数十分後。目的の焼け朽ちた木を発見した場所にもう一度辿り着くことができると、俺から手を離したホルンはおもむろにその木の根元に近づいてしゃがみ込んだ。
「やはりここはスリップを起こした最初の地点に間違いないようです」
「どうして分かる?」
「残存する魔力濃度、でしょうか……」
俺の質問に困ったようにするホルン。どうも感覚的なもので断定しているみたいだ。彼女は「これなら……」と呟きながら、木の周辺を確かめたりし始めるので、邪魔にならないように窺いながら質問する。
「何をするんだ?」
「ものは試しになりますが……、ルーン魔術で痕跡を辿ってみます」
「ルーン魔術?」
「はい。私たちワルキューレの間で伝えられている儀式的な魔術です。先ほどしぐまを起こすのにも用いました」
「ああ、あの光……」
どこからが幻覚でどこからが現実だったのか、いまだにはっきりとした実感はないが、ホルンがそういうならそうなのだろうと思って大人しく見守ることにする。
指先に淡い光を発生させたホルンは、対象の木に向かって何やら文字を宙に描き出すと「ケナズの光が照らす場所」と短く呟いた。
その言葉に呼応するように、輝きを強めたルーン文字がほどけていくようにしてその姿を見えなくする。
様子を伺う。何も変化がない、か?
どういった結果が起こる魔術なのかも分からないから、俺が不思議に思っていると、すっと立ち上がったホルンは足元を指し示した。
「これは、足跡か」
「直近のものです。これを辿れば、魔物に辿り着く」
規則的な並びで足元にいくつも浮かび上がった、ぼんやりとした黄色い光の点。ホルンの説明を受けながら、俺はその痕跡を目でなぞるように遥か先のほうまで見通す。
ホルンの腕輪に赤信号が灯る。その瞬間、
―――――赤黒い色をしたバスケットボール大の火炎球が、真っ直ぐにこちらへと飛来した。
「ホルン! 来るッ!」
「――はいっ! しぐま!」
咄嗟に身を伏せる俺の呼びかけに応じて、手元のドラウプニルを大盾のように展開させたホルンが火炎球と俺たちとの間に割って入り、その業火を見事に防ぎ切る。それでも急激な熱波が大盾を乗り越えてこちらにまで押し寄せるくらいだから、その威力を考えれば恐ろしい。
一秒でも気付くのが遅れていたら、背中から直撃していただろう。
次手はどうする!? 戸惑いながらもホルンのほうを見る。
「私、向かいます!」
「――ちょっ、まっ―――」
奇襲のような先制攻撃を許してしまった焦りからか、まばゆい光をまとったホルンは頭上に光輪と背に光の羽根を作り出しながら迎撃に向かって行ってしまう。
「結局残されちゃどうしようもないだろうがよ……!」
思わず悪態も吐く。あとに残された俺は幸いにもルーン魔術による痕跡が残ったままなのをいいことに、急いで現場へと向かうことにした。