翌日は妙子さんからの連絡を受け、午前九時過ぎにジビエカフェへ足を運ぶことになった。
車を走らせ、到着したのは標高がそれなりに高く、住宅地を一望することのできるのどかな立地の建物。手書きの看板には『むらくも』という丸みを帯びた字体で描かれた文字があるので分かりやすい。
小さな駐車場の端に車を停めて敷地内を歩く。木の温もりを感じさせるような外観が特徴的なこの建物は、入口が一面ガラス張りで、暖かな陽光が店内に差し込む設計になっているみたいだった。
季節の花やハーブが植えられた小さなガーデンも、カフェの自然派な雰囲気を演出している。
「た、高そう……」
思わずご馳走になる分際で正直な感想をもらしてしまった。あまりこういう場所に足を運ぶことがないから、貧乏な性分が姿を現してしまって気が弱る。
花が好きなのか、ガーデンの前で足を止めてじっくりと観察するホルンを手招きで呼び寄せた。
カランコロン、とドアの鈴を鳴らしながら入店。レディーファーストってわけじゃないが、そわそわとするホルンを先に立たせながら「お邪魔します」そろりと店内を伺う。
「きたきた。いらっしゃい、お二人さん」
「おはようございます。妙子さん」
「あっ、おはよう、ございます……」
妙子さんと会うときはいつも猟師としての格好だったから、カウンターの向こう側で自家製のエプロンを首から掛けて店主として振る舞う姿にはかなり新鮮なものを感じられる。
空間の不慣れさを全面に押し出しながら誘導されるまま俺とホルンはカウンター席へ。内装はこざっぱりとしていながら随所にジビエカフェとしてのコンセプトを感じられるものが置かれていて、好ましい。シカやイノシシなどジビエ料理で主に扱われる動物のシルエットが控えめに散りばめられていたり、アーティスティックな絵画が壁に掛けられていたりと、まるで秘密の狩人の隠れ家みたいだった。
猟というと野性味やむさ苦しさといったものを感じやすいところがあるかもしれないが、近代的でおしゃれな雰囲気を醸しているこの内装が、『ジビエカフェ むらくも』が若い女性客に支持される一因でもあるのかもしれない。
前々から興味はあった分、好奇心のままに周囲を見渡してしまっていると、ほくそ笑んだ妙子さんがカウンターに身を乗り出しながら俺に尋ねてくる。
少し目のやり場に困る。
「どう? うち」
「なんていうか……思った以上に雰囲気が良くて緊張してます」
「なはは。ホルンちゃんも気に入ってくれた?」
「は、はい、すごく、好きです。こういう場所」
「そっか。それはよかった」
俺とホルンがそれぞれの言葉で賞賛すると、自慢げに妙子さんが微笑む。そんな他愛のない世間話を繰り広げていると、しばらくして奥のキッチンのほうからクマのように大柄な男性が姿を現した。
「ああ、紹介するね。この人がうちの旦那」
「でっっか……」
座席に座っているのもあるが、遥かに見上げるくらいの大男だ。百九十センチぐらいは余裕でありそうである。それでいて相撲の親方みたいに広い肩幅、筋肉質で恰幅のいい体型。もみあげの繋がった髭と鋭い眼光が、殺し屋のような威圧感を放っている人だった。
旦那さんと会うのはこれが初めてだ。
隣でにこにことしている妙子さんとの対比が凄まじい。
「ど、どうも……」
無言で見下され、声を震わせながら会釈する。隣のホルンが怯えたように身を寄せながらそっと裾をつまんでくる。俺だって怖いのに。
ど、どうしてこの人は喋らないんだ……??
「ごめんね、この人超が付くくらい人見知りでさ」
人見知りの風格ではないだろ、コレ。
蛇に睨まれた蛙、どころか鷹に狙われた獲物みたいに生きた心地がしない視線を送られ、俺の体はずっと強張り続けている。
カフェなのにぜんぜんリラックスできていない。
深呼吸をして小休止を挟んだ。
「とりあえず……お腹の空き具合はどう? 私のお任せでもいい?」
「は、はい。あの、本当にいいんですか? 一応、金も持ってきたんですけど」
「気にしない気にしない。斉藤さんにはお世話になってるしね」
じゃ、と言って、妙子さんに耳打ちされた旦那さんが再度キッチンのほうに下がる。どうも仕込みや調理は旦那さんが主に行っているみたいだ。
「この時間はお客さんが滅多に来ないから話し相手になってくれて助かるよ」
「は、はあ」
俺たちの緊張をほぐそうとしてくれているのが分かる。妙子さんは、「そうだ」と言いながらプラ製のメニュー表を取り出して、見るかと俺たちに提案してくれた。
ありがたく受け取る。
「何から何までお洒落ですね、デザイン」
「ふふん。カフェ経営は夢だったからね」
渡されたプラ製のメニュー表を見る。ジビエカフェ、というだけあって潤沢なドリンク類とジビエ食材を使った独創的な料理が多い。鹿肉のホットサンドや鹿肉のロティ、熊肉百パーセントのハンバーグや熊肉のワイン煮込み、猪肉のボロネーゼや猪肉のロースカツサンドを始め、目を引くもので言うと鹿のハツや猪の睾丸なんてものまで提供されている。正直ちょっと引いた。
珍しいものが食べられるのもジビエの醍醐味か。
金額にはあまり触れないようにする。
そもそもジビエ料理は一般的ではないし、臭みを取るのだって簡単じゃないからさもありなんだ。
俺がじっちゃんと家庭料理として食べる妥協マシマシのジビエ料理とは違って、丁寧な調理方法と保存技術で客商売として成立させた上、見栄えと味を意識した料理をこの価格帯で提供してくれるのは、むしろ出来過ぎなお話なのである。
これはいっそ、開き直って楽しむべきかもな。
「ホルンちゃんはジビエ料理、食べたことある?」
「ジビエ……。えと、イノシシはあります。よく、大勢と鍋を囲んで食べていました」
「え、そうなのか?」
思わぬホルンの返答に割り込んでしまった。目を丸くしていると、振り向いたホルンはまるで当然のことのようにこくりと頷く。
……思えば、ホルンの食生活については何も聞いたことがない。
気になったので、追及してみることにする。
「ホルンって、元々はどういうものを食べていたんだ?」
妙子さんがうんうんと頷いて俺の側に付く。ホルンは目をしばたたかせると、興味を持つほどのことではないと否定するように胸元で小さく手を振りながらおずおずと口にした。
「い、いえ、それほど珍しいものでは……。でも、あまり魚料理は食べることがなかったので、この前食べたシーフードのラーメンは、とても美味しかったです」
「へぇー、どこの?」
妙子さんに尋ねられたホルンが俺のほうを振り向く。
いや、そんな大層なものじゃないので答えづらい。
「こ、コンビニの……」と若干の気恥ずかしさを覚えながら打ち明けると、妙子さんは意外そうな顔をしつつ、「そっかそっか、海外からの転校生だと珍しいのかな?」と勝手に納得してくれていた。
ホルンは、車のなかでカップラーメンを食べた夜のことを思い出したのか、妙子さんに向かって少しだけ嬉しそうに頬を染めながら、こんなことを言う。
「しぐまが作ってくれたんです」
……いやいや、そんな晴れやかな顔で言うことではないぞ、絶対。
ホルンがそんなことを言ったから、妙子さんのニマっと弧を描いた瞳が俺のほうにギュンと勢いよく向いてくる。
は、はは、と乾いた薄ら笑いで誤魔化しながら。
「できたぞ」
と、おもむろにのれん奥のキッチンからやけに渋い声が響いて助けられた。
それが旦那さんのものだと察するのも束の間、妙子さんはこちらに一声掛けると料理を受け取りに向かっていってしまう。
一時解放された安堵感もさることながら、あとに残された俺たちは前後の会話が会話だっただけに、少しだけ次の話題を切り出しにくい。
これは俺だけが感じていることなのかもしれないが。
それから、ほどなくして。
「――お待たせしました」
「おおぉ」
「わぁ……!」
妙子さんの手によって、二品の料理が運ばれてきた。
木製の木皿に敷き詰められた彩り豊かなサラダボウルと、メニューでも確認した猪肉のロースカツサンド。それが思ったよりも豪華で、しかも見た目が華やかすぎて思わず声が上擦ってしまう。
隣のホルンも楽しげにしながら。
「若いからロースカツ嬉しいんじゃないかと思ってねー。サラダボウルは、ホルンちゃんが好きかなーと」
鼻の頭を掻くように妙子さんがそう語る。さすがの慧眼だ。素直に嬉しい。テンションが上がる。
「どうぞ、分け合って食べてね」
「いただきます!」
サラダボウルは、薄切りにされた鹿肉のロティ(低温調理された肉)が上に乗せられ、更に自家製のシーザードレッシングがたっぷりと掛けられた代物だった。
カツサンドはしみしみのソースが衣の色を存分に染め上げていて、食パンからはみ出た揚げたてのキラキラとした輝きが大変美味しそうな芳醇な香りを放っていた。
カウンター越しに見守ってもらいながら半分に取り分け、俺とホルンは各々口にする。
まずはカツサンド。一口噛んでみると、じゅわっと溢れ出てくる肉汁。確かに感じる猪肉の風味もさることながら――強い臭みはなく、かなり歯が通りやすくて食べやすい。
「カツサンドは調理の段階でお肉をよく叩いてるから、薄く感じる分猪肉にしてはすごく食べやすく感じると思うんだ。紙カツって言われるやつだね」
「めちゃくちゃ美味いですよこれ」
「でしょ」
視覚的に大きく感じるし満足感としてはかなりのものだ。俺が豪快に食いついた一方、ホルンは、はむっと勢いよくかぶりついたものの、やっぱり口が小さくて全然噛み付けていないみたいだった。
それにはさすがの妙子さんも「ちっちゃ……」とホルンには聞こえないくらいの小さな声で、小動物のかわいい瞬間でも見たみたいに呟く。
思わず目を合わせた。
意見の一致についはにかみ、こそこそと笑い合ってしまいながら。
お次はサラダボウル。
これはローストビーフサラダみたいに、薄切りにされた鹿肉と野菜と一緒に召し上がるのが一番美味しい食べ方なのかもしれない。自家製のシーザードレッシングはベーコンのような香ばしい香りとツンと鼻腔を刺す胡椒の香りがほどよいアクセントになっていて、すごく食が進む。ヘルシー志向ながら、サラダも新鮮かつふんだんに盛ってくれているから、これだけでお腹いっぱいになることもできそうだ。
「ホルンちゃん、美味しい?」
「とっても美味しいです……!」
目をキラキラとさせたホルンに見上げられ、妙子さんはすごく嬉しそうに微笑む。
俺はどうしても表情筋が硬いというか、リアクションが簡素になってしまいがちなので、普段は大人しいけどここぞというときに見えるホルンの素のリアクションは人を幸せにするなぁと思った。
「……コーヒーでも飲むか?」
美味しく食べ進めていると、それまで静かにしていた旦那さんが俺に突然そんなことを勧めてくれる。
「え。い、いいんですか?」
その返答は首肯のみ。困惑して、思わず助けを求めるように妙子さんのほうを振り向くと、「サービスサービス♡」と勧めるように小声で囁かれた。
「あ、ありがとうございます……!」
こんなに受け取ってしまっていいものなのか。気の迷いを感じながらも素直に感謝すると、寡黙な旦那さんはまたも力強い首肯だけを返してキッチンの奥に引っ込む。
その風貌と口数のせいで妙に緊張するやり取りだった。
ほっと息を吐いていると。
「旦那、食べっぷりに嬉しくなったみたいね」
「本当に、よかったんですかね」
「いいよいいよ、あの人がサービスしたがるなんて珍しいから。喜んで受け取って。私も嬉しくなっちゃったし」
妙子さんがそんなことを言ってくれるから、どこか釈然としない思いもありながら、きちんと改めてお礼をする。
人の優しさに触れる感覚だ。胸がじんわりと熱を持つ感じ。俺だけじゃなく、それはホルンも体験したことと思う。
「ゆっくり食べてね」
「はい」
慈愛の込もる妙子さんの眼差しに、ホルンは笑顔で答えて食事を進める。
ここ二日間は外食もせず、簡単なものだけで食事を済ませていたから、温もりのある『ジビエカフェ むらくも』の料理がやけに胃に落ち着いた。