ワルキューレ。それがどういうものかは俺も分かっているつもりだ。
北欧神話において終末の予言に備えるために戦死者の魂を集め、ヴァルハラという館で兵隊を組織する戦乙女の軍勢。楽劇では姉妹としても描かれる。
ゲームや漫画の創作物にもよく登場する比較的メジャーな存在であり、分かりやすいところではヴァルキリーなどと呼ばれることもあるか。
書いて字の如く女騎士のような印象があるから、ホルンはともかく、襲撃者の好戦的で組織人のような言動を思えばその正体にも納得できる。
しかし、だ。
「それは、いったいどういうものなんだ?」
ホルンの言った『異界警備隊』という肩書き。その言葉が指す詳しい意味を知りたい。
頭を悩ませる俺を前に、ホルンは言葉を選びながらも慎重に説明を続けてくれる。
「……それは、世界の均衡を守る組織です。異界の魔物はいずれもスリップと呼ばれる特異な現象を抱えていて、それにより様々な世界に紛れ込むという性質があります。私たちは、異界の魔物がその世界に悪影響を及ぼさないよう、その脅威を未然に退けることで世界を陰ながら守護していました」
それこそが、異界警備隊ワルキューレであるとホルンは語る。
一般に知られるワルキューレとは厳密には異なる実態だが、ドラウプニルの前例を見るにそれも偶然の話ではないのだろう。
スリップ。これも気になるワードだが、ひとまずは順を追って確かめていくことにする。
「それで、ホルンは魔物が現れたかもしれないってときにあれだけ切迫した態度だったんだな」
俺が当時の様子について理解を示すと、ホルンは口を真一文字に結んで頷いた。
「はい。……本来であれば、姉たちの手によって人々に悟られることなく処分されるはずの魔物です。それが表舞台に現れるということは、それだけ、巨獣討伐が難航していることでもあって……」
そうして、ホルンは口籠もる。言わんとしていることは理解できる。
これに関しては、難しい話だ。
というのも、魔物が現れ続けるということは裏を返せば襲撃者たちワルキューレは巨獣の追跡に手一杯であり、ホルンの処罰には全く手が回っていないという事実になる。仮に巨獣を討伐したとしても次点で取り掛かるべきは積み重なった魔物の処理のはずで、内部事情であるホルンの処罰がそれよりも優先されるとは考えにくい。
その一方で、魔物がのさばることは俺ら人間社会側にとって非常に危ういことだし、ホルンだって信念を忘れたわけではないからこうして立ち向かおうとしてくれているのだろう。
要するに、どこまで利己的に振る舞うか。
これはジレンマの話なのだ。
ホルンが対魔物の意識を高めることは俺らからすれば大歓迎なことなのだが、ホルンはそれをすることによって起こりうる自身へのリスクをきちんと理解してくれているのだろうか?
言ってしまえば、俺たちのいまの行動は異界警備隊の業務の手助けにもなることで、実は何も行動を起こさないほうがホルン自身の延命には繋がるんじゃないかと……。
魔物の実被害は度外視にして、俺なんかはそう考えてしまう。
だから、ホルンはそれでいいのかと一度問うてみた。
その真意を探るような気持ちで。
すると、彼女は少しだけ表情を柔らかいものにし、首を振ってからこんなことを告げる。
「はい。私は、いまもワルキューレのつもりです」
………。
あれほどの殺意を身内に向けられてなお、そう言えるホルンの強かさには素直に感服する。逆の立場だったら、俺は何事にも関わりたくない、逃げ続けたいときっと思ってしまうはずだ。
そうか、と呟いてホルンの心意気を買いながら。
「じゃあ、そうだな。異界についてもう少し詳しく知りたい」
「はい。異界は、私たちにとっては、ありとあらゆる世界。しぐまにとっては、ここではない世界を表します。魔物は、スリップによって異界を跨いで移動するのですが、巨獣を除いて、そのほとんどは偶発的に発生するものです。だから私たちがその対処に当たります」
「……とすると、巨獣があそこに現れたのは狙ってのものだったのか?」
「正しくは、私たちを振り払うため。混乱を狙ってだと思います」
少しバツが悪そうにホルンがそう答える。
これってつまり、巨獣にはある程度の知能もあるっていうことだ。
「スリップは、互いを引き寄せ合うんです。だから巨獣はこの世界に現れ、呼び寄せた魔物で時間稼ぎをしようとしたのでは、と……」
ふむ、と顎に手を当てて考え込む。
ホルンの考察を聞いて、俺は顔を顰めた。
巨獣。ワルキューレ。そして俺たち。なんだか嫌な三角関係みたいだ。考えるだけで頭が痛くなってくる。
なんにしても、巨獣が元凶であることは確か。それを討伐できるのは異界警備隊ワルキューレだけであり、俺たちは追われる身でありながら、諸悪の根源である巨獣を倒すためにはどうしても手を貸す必要が出てくる。
「なるほどな……」
とは、呟いたものの。
正直なところ、納得はまだしきれていなかった。
ホルンの正体やその目的、水の森公園の怪物の調査に拘る理由。そのいずれもは理解できたが、あまりにも課題が多すぎる。
選ぶべきこの先の活路が見出せない……。
こちらの様子を伺うような態度で佇むホルンを見かねて。
「どうして、話す気になってくれたんだ?」
間を埋めるように俺は質問した。問いかけられたホルンは、少しだけ顔に陰を落とす。
「……正直、いまも迷っています。ワルキューレには多くの規則があります。だから、こうして打ち明けるのも、本当はダメなことなのかも。と、思いながら……」
ホルンは、俺のことを見上げて言う。
「しぐまには、話しておくべきだと思いました」
「………それは、正解」
ホルンの頭にぽんと手を乗せてやる。打ち明けたことに対し、気の迷いを隠しきれていない彼女が少しでも安心できればと思って。
何はともあれ、彼女が話すことを選んでくれたのはかなりよかった。
図書館に来たことでまさかこんな話を聞かせてもらえるとは思わなかったが、まず間違いなく収穫だ。
時間が惜しいのもあるし、この話についてはもう少し時間を掛けてゆっくりと考えたかったから、一旦ここで話を終わらせて調べ物を再開することにする。
「とりあえず、明日もう一度妙子さんと話す機会があるから、そのときに調査の進展がないか、もう少し公園の奥地に行かせてもらえないかを聞こう」
「はい。そうしたいです」
なんだか考えることが山積みだ。ホルンと一緒に逃げることになってから、まさかこんな魔物が現れ、それをどうにかする話にまで発展するとは思っていなかった。
席に戻り、ぺらり、とページを捲りながら水の森公園の怪物に当てはまりそうな未確認生物を探す。
一時間、二時間、三時間と、次第に閉館間際になり……。
右に山積みにしていた本が、読み終えたものとして左側に積み重なっていく頃。
「硫黄、硫黄……これじゃないか? ホルン」
それらしきものを発見して、思わず身を起こした俺はすぐにホルンに声をかけた。犬のような生物で、硫黄の匂いとともに現れ、硫黄の匂いとともに消えると語られる。地獄の火を吐くという一部噂もあり、現場に残されていた条件とも一致する。
ホルンにもそのページを確認してもらうと、この退屈な作業から解放される喜びも相まってか、彼女はややはずんだ声音で「そうかもしれないです……!」と俺の目を見てそう言った。
もちろん、ただ似ているだけで、その正体を確定付けるものではないけれど……。
「ブラックドッグ」
それが水の森公園の怪物の正体なのではないかと、俺たちは考察する。