その巨獣の到来は、誰の目に見ても明らかで。
その日より、世界は異界の存在を考慮しなくてはならなくなる。
『――ジジッ――放送内容切り替わりまして速報をお伝え致します。宮城県北東部に位置する
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その日は、やけに肌寒い一日だった。
昼の二時過ぎ。終業式を終え、祖父の猟に同行する俺は、安全のために普段着の上から蛍光色の赤いベストを羽織る。祖父は肩に発砲時の音が小さく軽いエア・ライフルを背負い、俺は折り畳みシャベルやタモ、餌代わりの米ぬか、その他細々としたメモ帳や工具を押し込んだ大型のショルダーバッグを担いでいた。
猟師の生業は罠を仕掛けた場所の見回りで始まり、人里から離れた土地を主に散策する。
「お前ぇとこうして見て回るのも今年が最後んなるなぁ」
「じっちゃんそれ毎日言う気か?」
しみじみと口にする祖父に俺は呆れ返る。高校三年、最後の冬。来年度にはこの町を出、俺は東京で一人暮らしを始めるのだ――……。
両親を幼い頃に事故で亡くし、老齢でありながらエネルギッシュな祖父に引き取られた俺は子どもの頃から猟師の生き方というものを教えられてきたが、このまま地元を出ずに根を張って生きていくのは気が引けたため、一念発起して上京を決意。
祖父も俺の選択に理解を示してくれており、若いうちは若いもんが多くいる場所で若いからこそできることをやれと背中を押され、地元を離れていろんな経験を積もうと考えた。どうしても祖父との二人暮らしだからか、自分の世界が狭い自覚はある。こうして背中を押してくれたのも、祖父なりに俺の将来を気にかけてくれていたのかもしれない。
ともかく、幸いにも学力は問題なかったし、どうも東京にはルーツがあるようだ。何かと縁を感じた俺は独り立ちに向けての準備を進める一方、猟師はいつでもなれるものだからと祖父に勧められ、網・わな猟免許の取得も十八歳を迎えた頃に受講した。
とはいえ、狩猟免許があればすぐに狩りが出来るというわけでもなく、自治体に対して狩猟者登録をする必要があったり、猟友会への所属が勧められたり、煩雑な手続きは多い。
ところがその全てを俺は祖父の力で突破。俺だって驚く。
今年分の会費がもったいなくなると言う俺の意見すら押し退け、この冬のためだけに猟友会に入会することになり、俺は自力での猟を体験させてもらえることになった。
結局のところ、祖父は寂しかったみたいだ。言葉にはしてくれないけども。
そのことに悪い気はしなかったし、俺も猟は一度経験しておきたかったから、この冬は祖父との時間を大切にしようと思っている。
と、意気込んだはいいものの……。
結果としては、著しくない状況が続いている。
「思うんだけど、狙い目の場所はすでに歴戦の猟師が罠を張っていて、新米に狩れるような場所は残されていないんじゃないだろうか。例えばじっちゃんとか、じっちゃんとかに」
「おめ、馬鹿んごと言うな。この町にどんだけのシカがおる思ってんだ」
しゃがみ込んで足場の罠を調整していると、すぺんっと頭を引っ叩かれる。痛い。
ちなみに、わな猟にはいくつかの種類があるが、俺が使用しているのはくくり罠というものだ。
比較的安価で設置がしやすく、初心者にも手を出しやすいのが特徴。その性質は踏み板を押すことで留め具が外れ、撥ねたワイヤーが動物の足を括る仕組み。
しかし設置場所の選定が意外と難しく、ワイヤーを掛けておく根付け木が近くに必要だったり、きちんと動物が利用している痕跡のある獣道じゃないと掛かりようがなかったり、掘り返した土の匂いを気取られないように丁寧な隠蔽工作が必要となる。
手は出しやすいが実際に獲物を取るのは難しい。
まさしく初心者向きで、奥が深い狩猟方法だ。
俺はそのあたりうまくやっているつもりなのだが、こうも掛からないと何かが間違っているような気がしてきて自信を失う。じっちゃんは見ているだけで力を貸してはくれないし、俺が猟果を挙げられる日は果たしてくるだろうか、不安だ。
「ま、明日だな」
「冬休み中には一匹くらい猟果を挙げたい……」
項垂れてから立ち上がる。
そう、今日から冬休みに入るのだ。地元・宮城県において狩猟期間とされている十一月十五日から二月十五日までの三ヶ月間が、俺が自主的に狩りを行える期限となる。猟期に入ってから罠の設置は始めていたが、休日しか時間が使えないのと罠を放置することもできないので手間の掛かるやり方をしていた。
つまり、今日からが本番だ。たっぷりと時間を使い、猟果を挙げる。終業式後に猟に出ている学生など俺くらいなものだろう。
友達にももし鹿肉が獲れたら送ると約束をしたばかりなので、気合いが入る。地元のニホンジカ被害は年々深刻化するばかりなので、微力だが俺も活躍できたら嬉しい。
「次のポイントさ行っぞ」
「じっちゃんの猟果に期待だな」
基本、猟師は朝に活動するが、じっちゃんの今朝は猟友会の方と団体になって行うグループ猟に当てがわれたようだった。
午後からは俺が猟をしたいと言っていたのもあって、じっちゃんは自分の仕掛けた罠の見回りを後回しにしてくれていたみたいだ。
山道を走り、目的地前で車を停める。じっちゃんは箱罠を利用していて、こちらはイノシシを獲るのによく用いられる。
典型的な動物用の罠をイメージすればいいと思う。
なかに動物が入ると入り口の扉が下りる仕組みの鉄格子で、獣道の動線に仕掛けて自然に踏むことを待つくくり罠よりも餌で誘き出せるのが最大のメリット。
このときに使うのが米ぬかで、俺はようやく鞄を軽くすることができた。
「っかしぃなぁ」
じっちゃんが恥ずかしそうに後頭部を掻く。期待に反して箱の中身は空っぽだ。しょっぱい。
まあ、猟とはこういうものである。
その後、一通りの罠の見回りをしたあとは人里から離れた池、あるいは河川に移動してカモを狙うことにした。カモは射撃か網猟が一般的で、網猟は地元でやっている人が少ないのと難易度が高いので俺は手を出していない。射撃に関しては二十歳を迎えるまで猟銃に触れることができないため、論外。
つまり、ここからはじっちゃんの独壇場だ。
ったーん! と比較的耳に優しい発砲音がして一斉にカモが飛び立つ。
「ナイス!」
「こんなもんか」
双眼鏡で覗きながら喜ぶ俺に対して、じっちゃんはクールに決める。でも知っている、じっちゃんはカモ肉が大好きだ。伏せの姿勢から起き上がり、水面に浮かぶ獲物を回収するため、鞄からタモを取り出そうとして――。
「ん?」
暗い。そう思った。
「こりゃあ……なんだ……?」
「えっ?」
上空を見つめて恐れ慄くような祖父の横顔を見る。世界は陽の光を失ったように暗く落ち込んでおり、頭上には妙な圧迫感を感じる。祖父の目線を追うように俺も面を上げる。
「なッ……」
思わず、言葉を失った。
四肢を広げた毛むくじゃらの何か。上空に出現した、山のような大きさのそれが、俺たちのいる地上に目掛けて墜ちてくる。
――逃げないと。
瞬時にそう悟った。踵を返そうとした頃には、
どしんっっっっっっっっっ
と、とてつもない地鳴りが耳をつんざき、大地のうねりが俺たちの足を掬った。前後左右が不覚になるような三半規管の酩酊。尻もちをつく。一度腰をやっている祖父が心配だ。圧倒的な質量の落下に、山が悲鳴を上げている。一部の地面が捲りあがり、木々が暴風に曝される。肌身を粟立てるような空気の震動。巨獣の咆哮が鼓膜を支配し、目の前の祖父とすらまともにコミュニケーションが取れなくなる。
―――いったい。
いったい、なんなんだこれは。
何が現れたんだ。どうすればいいんだ。マジで、なんなんだよ、これはッ!
どうすればここから生き残れる!?
混乱する俺を見かねていち早く起き上がった祖父が、必死の形相で俺の背中を押す。何を訴えたいのか、口の動きを見れば分かる、じっちゃんは逃げろと言っている。
でも、でも。――言葉が続かない。
有無も言わせてもらえず、俺は麓の車までを目指す。