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1-狭間

 白い。

 目が覚めて最初に知覚したのは、異様なまでに白に彩られた光景だった。

しかしすぐに、それは正確ではないことが分かる。

この世界では、存在する全てのものから、色という概念すら剥奪されているらしい。

 その光景が俺の視界では、白という色として認識されているだけに過ぎなかった。

 ――ここは、一体何処なのだろう。

 浮かんだ当然の疑問に答えてくれる者は、残念ながら存在しないようだ。

俺と世界、その二つしか存在しないような錯覚にすら陥る。

 とはいえここで何かを待っていても、何も変わらない。

 そう思ったから、というよりは、純粋にどうなっているのか把握したいという好奇心から、俺は体を起こして立ち上がった。

 足音すら掻き消える、否、その存在を許されないのか、はたまた俺の鼓膜に何らかの異常があるのか、音らしい音は何も聞こえない。静寂なんて生温い、聴覚そのものを奪われたかのような静謐。

現状、五感で正常に機能しているのは、視覚だけなのかもしれない。確かに立っているはずなのに、足が地面を踏みしめている感覚はしない。歩いていても、空気の揺らぎやにおいも何も感じない。何かの映像をずっと見せられているだけのような、不思議な感覚だった。

それを、不思議と不安には感じなかった。ここはそういう場所なのだと、俺は知らず理解していたのかもしれない。ここが何処なのかすら自分で分かっていないのに、おかしな話ではあるのだが。

どのくらい歩いたのかすら、俺は正確に把握することはできなかった。時間という概念すら、この場所では剥奪されているようだ。というより、時間そのものが、この場所では重要ではないのだろう。――例えば、時が止まっているかのように。

歩いていくうちに、俺と世界しか存在しないのかもしれない、という思考は、どうやら間違いであったらしいということが分かった。

 前方に、何処か見覚えのある白い球体が現れる。距離というものまで曖昧なのか、次の瞬間には、それはもう俺の眼前に存在していた。

 白い球体だと思っていたものの中から、すり抜けて出てきたように一人の少女が姿を現わす。

 膝の辺りまで長く伸びた、絹のような美しい銀色の髪。金色の双眸の中で、縦長の鏡のような瞳孔がひときわ強く輝いて見える。白いワンピースのような服を纏った彼女は、何の表情もなく、真っ直ぐに俺を見据えていた。

 彼女は、何者なのだろう。

 俺自身が、その問いを声として発したのかは、音が聞こえないこの世界では確認のしようがない。しかし、それを問いと受け取ったのか、彼女の〝声〟ははっきりと返ってきた。恐らくそれは思念の類で、俺の脳内に直接流し込まれたものなのだろう。

『わからない』

 鼓膜で音として認識せずに、それを〝声〟だと認識する行為は、慣れていないことだからだろう、酷く違和を感じた。そのため俺は、その単純な言葉の意味を理解するのでさえ、少し時間を要した。

『それを、私は知りたい』

 この環境下で会話は成り立つのだろうか、という問いすら浮かばなかった。俺は、彼女の言葉を聞くためだけにここにいる。そんな錯覚が、ここでは真実のような気がした。

 彼女は淡々と、俺に語り続ける。

 彼女は、一体何を求めているのだろう。

『私は、全てを理解したい』

 それは、どうして?

『知ることが、全てだから』

 彼女の名は、何というのだろう。

『名、というものは、私に存在しない』

 それなら、名前を付けることから始めないか。

『そんな行為に、意味はあるのか?』

 それは、分からないけど。クレア。そう呼んでも、いいか?

 少しずつ、思念での会話にも慣れてきたようで、俺は彼女と会話らしい言葉を交わせるようになってきたようだ。

 クレア、と名前を付けた時、少しだけ彼女の表情に何か変化が現れたような気がしたのは、流石に俺の思い込みかもしれない。

『好きに呼べばいい。私には、必要がない』

 相変わらず仮面のような無表情で、彼女改めクレアがそう返す。そう言った彼女の言葉の中に嫌悪は感じなかったので、俺は彼女を勝手にクレアと呼ぶことにした。

『あなたは、何故ここに? あなたのような生命体をこの空間で見掛けるのは、初めてだ』

 彼女の問いに、俺はただ、分からない、と答えた。

『そうか』

 彼女はそう、短く言うと目を伏せる。目元を縁取る長い睫毛が小さく揺れる。彼女は再び俺を見つめた。

『あなたには、名があるのか?』

 あるよ。俺は、朔月夜絃。

『さくづき、やいと』

 言葉を一つずつ転がすように、彼女がそう俺を呼ぶ。俺は、朔月が苗字で、夜絃が名前だと彼女に教えやった。

『やいと、というのか』

 少したどたどしく、彼女がそう口にする。見た目は俺と同じくらいの年に見えるが、俺には何だか彼女が少し幼く見えた。

『これも、知るということか。不思議だな』

 彼女の表情は、少し緩んだような気がした。それも、気のせいだったのかもしれない。

 今までどうやっていたのか、と尋ねると、彼女は目を瞬いた。

『ずっと、〝手〟を伸ばしていた。内部に取り込めば、全ての情報が得られた。対話という行為には意味がないと思っていたが、成る程、新たな発見だ』

 〝手〟と聞いて、脳内に何かぼんやりとした映像が浮かんだが、それはすぐに消えてしまい、上手く思い出せなくなってしまう。思い出せないということは、今は必要のないものなのだろう。そう思い、俺はクレアを見遣った。

 誰かと話すってのも、案外いいものだぜ?

『そう、かもしれないな。やいと、私と話してくれるか?』

 もちろん。つか、もう話してるし、今更だよ。

『そうだったな』

 それからオレは、クレアと他愛ない話をしていた。彼女と話していた時間は、そう長くはなかったような気がするし、随分長く話していたような気もする。

俺は話しながら、彼女が学校を襲った白い球体の正体なのだと、少しずつ気付き始めていた。それでも俺は、彼女が学校を襲ったことも、彼女が人を殺したことも、責めるつもりは一切なかった。その理由は、自分でもよく分からない。それは、彼女があまりに無垢で、敵意や殺意を抱いて行った訳ではないと理解したからかもしれない。

 クレアの〝声〟には、感情は殆ど含まれていないように感じた。それは、単に感情を押し殺しているのではなく、彼女にその概念がないかのような、そういう欠落の仕方だと思った。まるで感情というものを知らないような、そんな欠落の仕方。

その上俺は、彼女が嘘を吐いているようにも思えなかった。何故なら彼女の言葉は、今まで聞いてきた誰の言葉よりも重く、それでいて透き通っているかのようだったからだ。

 不意に、鮮明だった視界に白く靄がかかり始める。俺はまだ、彼女と言葉を交わしていたかったが、それはどうやら抗えるものではないらしい。

やがて、はっきりと聞こえていたはずの彼女の〝声〟すら、聞こえなくなっていく。閉ざされていく視界の中で、俺はただずっと、彼女の名を呼び続けていた。


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