二人がそう言い合っている間に、教師から離れた位置にいた一人のエルフ族の少女が白い球体に向かって杖を掲げた。俺は、彼女と少し距離があったので、何を言ったかまでは聞き取れなかったが、何か魔法を展開しようと呪文を唱えているらしかった。恐らく、彼女は白い球体に対して何かしら攻撃するつもりなのだろう。
「……っ!」
『――!』
リミナが制止の声を上げたが、それは少女のひときわ大きな声に掻き消され、彼女に届いた様子はなかった。少女が張り上げた声はエルフ族の言葉だったのか、俺には上手く聞き取れない。そのため俺は、これから少女が何をしようとしているのか、全く分からなかった。
少女の周囲に突如として冷気が立ち込め、次第にそれが氷柱として形を成していく。数本の氷柱を生成した少女は、白い球体に向けて杖を一度強く振り下ろした。
瞬間、氷柱が凄まじい速度で白い球体に殺到する。恐らく、氷柱を生成し、相手にぶつける攻撃魔法の一種なのだろう。
凄まじい速度で白い球体に殺到した氷柱はしかし、白い球体の表面に触れた途端、砕けた様子もなく溶けるように消えてしまった。俺はまじまじと白い球体を見つめるも、球体の表面には何の傷も見受けられない。先程の攻撃は、白い球体に何の損傷も与えられなかったようだ。
氷柱が何の損傷も与えずに消えたことに戸惑っている様子のエルフ族の少女だったが、彼女はそれでも負けじと再度魔法を展開しようと杖を掲げる。彼女が次に展開しようとしている魔法は火を扱うのか、周囲が俄かに熱くなってきた。
杖の先端付近に火花が散り、次第にそれが一つの火球として纏まっていく。今にも火球が発射されるかのように見えた、その瞬間のことだった。
不意に、杖を握っていた彼女の腕の肘から先が、何の前触れもなく消滅した。
失われた両腕の断面から、噴き出す血液が地面を赤々と濡らしていく。何が起きたのか分からないと言った様子で彼女が硬直していたのも一瞬のことで、少女は腕を失ったことを認識した途端、大きく目を見開いて耳を劈くような声で絶叫した。
助けを求めるように、少女が白い球体に背を向けてよたよたと歩き出す。周囲の生徒達はその様子に硬直したまま、助けようと駆け寄る様子はない。と、そうしている間に今度は彼女の頭部までもが消滅し、少女の体は首から鮮血を勢い良く噴き上げ、数歩たたらを踏んだ後に、どっと地面に倒れた。
目の前で起こった出来事が全く理解できず、ただ呆然と少女の首無し死体を見つめる。流れ出した血液がみるみる広がっていく様が、やけに鮮烈に網膜に焼き付いて離れない。首無しになった少女の指先が、何かを伝えようとするかのように小刻みに痙攣しているのが、ぼんやりと見えた。
数秒が経過した頃だろうか、誰が上げたのか分からない甲高い悲鳴で、俺ははっと我に返った。見れば、少女の首無し死体に、彼女の友人と思しきエルフ族の少女が駆け寄っているところだった。白髪が特徴的な彼女は、厭う様子もなく死体を抱き起こすと、俺には理解できない言葉で何かをまくし立てている。白髪の少女は白い球体を鋭く睨みつけると、首無しの死体を丁寧に地面に横たえて立ち上がり、杖を強く握り締めて早口に詠唱を始めた。
彼女の赤い瞳には、復讐の炎が激しく燃え盛っているようだった。少女は、首無しになってしまったエルフ族の少女と親しかったのかもしれない。敵意を超えて殺意を宿す少女の瞳が、魔力を帯びているのか淡く発光する。膨大な魔力が込められているのだろうか、ぎしぎしと音を立てて杖に亀裂が走っていく。早口の詠唱が終わると、少女は目を見開いて、エルフ族の言葉で甲高く叫んだ。
『――ッ!』
杖の先端から雷のような電撃が迸ると同時に、杖が粉々に砕け散った。彼女の渾身の一撃はしかし、先程の氷柱のように白い球体に何の損傷も与えられず、吸い込まれるように消えていくだけだった。
杖を失った白髪の少女は、怒りに満ちていた瞳に初めて恐怖の色を浮かべた。刹那、彼女の腹部に人の腕程の大きさの穴がぽっかりと空き、そこから溢れ出した血液が彼女の制服を赤黒く染める。少女は呆然と自分の腹部に空いた穴を見つめながら、体を小さく震わせて赤黒い血を吐いた。
少女が縋るように、首無し死体となったエルフ族の少女を振り返り、彼女に向かって手を伸ばす。その直後、少女の頭部も消滅し、彼女は赤々とした鮮血を噴き上げて、あのエルフ族の少女と同じように地面に崩れ落ちた。
しん、と時が止まったかのような静寂が辺りに訪れる。リミナは口元を両手で覆い、眼前の惨状を悲痛な表情で眺めている。俺は呆然としたまま、二人の首無し死体を見つめることしかできない。心臓がばくばくと嫌な跳ね方をして、背中に伝う冷や汗が止まらなかった。
目の前で二人も凄惨な死を遂げたことによる衝撃で、全員数秒は硬直していた。しかし、これではっきりしたことがある。あの白い球体に傷を付けられる方法は、現状誰も持ち得ない、ということが。
やがて、止まっていた時が動き出すかのように、女子生徒の甲高い悲鳴が辺りにこだまする。
その悲鳴に含まれていた恐怖が伝染していくように、生徒達が次々と悲鳴を上げ、同時にパニックに陥っていく。こんなに近くで、同じ学校に通う生徒が突然の謎の死を遂げたのだ、パニックにならない方がおかしいだろう。俺はというと、眼前の光景があまりに現実離れしていて、パニック以前にこの状況を飲み込めてすらいなかった。そのおかげか否か、俺は比較的落ち着いて周囲を見渡すことができている。とはいえそれは、落ち着いているというより、単なる放心と同義なのかもしれないが。
俺の目に、様々な行動を取る生徒や教師たちが映る。
恐怖に顔を引き攣らせ、慌てて逃げようとする男子生徒。
恐怖で脚が竦んで動けない様子の女子生徒。
躓いて転ぶ男子生徒。
他の生徒を盾にする男子生徒。
逃げ惑う生徒達に声を掛け、必死に誘導しようとする教師達。
大半の生徒が逃げるかその場に留まるか、それを自ら選択して行動しているというよりは、己の本能に従って動いているように見えた。非常事態で上手く動ける者は多くないと思うものの、その様子はあまりに統制が取れていない。これでは、教師たちの避難誘導が全く意味を成していない。
そしてその行動を静観して看過する程、白い球体は慈悲深くはないようだ。
一番先頭を走って逃げていた男子生徒の頭部が、何かに触れた訳でもなく不意に消滅する。血を噴き上げながら倒れる男子生徒の首無し死体から、悲鳴を上げて距離を取った女子生徒の下半身が消滅し、臓物を零しながら彼女の上半身が鈍い音と共に地面に激突する。辺りは悲鳴の大合唱で、俺は頭を直接揺さぶられているかのような感覚を抱いた。
このままでは、この場にいる全員が死ぬ。
そう直感的に理解したものの、俺にできることといえば、ただこの状況を静観することだけだった。逃げ出した生徒ばかりが狙われているように見えるので、今逃げ出したところで死ぬだけだろう。俺にはあの白い球体に抗う力など何も持っていないのだから。
そう思って、白い球体が次に何をするのか、じっと観察するように見つめる。すると、白い球体の周囲に、俄かに冷気が漂い始めた。離れていても伝わってくる凄まじい冷気に、無意識に体が小刻みに震えてくる。その様子はまるで、先程死んだエルフ族の少女が魔法を行使する前の状態のようだった。
もしそうだとすれば、何故白い球体が魔法を使えるのだろう。浮かんだ疑問に答えてくれる者は誰もいない。現時点で分かるのはただ、このままだと何人か氷柱に貫かれて死ぬだろう、ということだけだった。
白い球体を囲むように、徐々に氷柱が生成されていく。その数は、ざっと見ただけでも二十本を軽く超えていた。白い球体はそれを、学校の敷地内から逃げ出そうとしている生徒に向かって、容赦なく放った。』