俺は立ち上がって、ぐるりと教室を見回した。このクラスには、真の他にも数名陸上部の生徒がいる。いくら彼が人当りよく接しても、人気者とは常々妬みの対象になるものだ。
俺は陸上部の生徒の机を順に見て回った。とはいえ、証拠品をわざわざ自分の机に隠す訳がない。そうなると、真が見つけにくい場所に隠すのが妥当だろう。
俺は、掃除用具入れになっているロッカーの上を見遣った。箒などが収納できるように、掃除用具入れは縦長く、俺の身長よりも少し大きい。その上に、使い込まれている様子の靴が無造作に置いてあるのが見えた。
「その靴ってのは、これか?」
俺は少し背伸びをして掃除用具入れの上から靴を取ると、真に見せる。彼は安心したようにへにゃりと笑った。
「そう、これだよ! ありがとう!」
真に靴を渡すと、彼は大事そうにそれを抱え込む。それを見て俺は、つられたように安堵を覚えた。
「見つかってよかったな。んじゃ、俺はこれで」
「待って!」
自分の机から無事ノートを回収した俺は早々に教室を後にしようとしたが、真に呼び止められて振り返った。
「何だ?」
「いや、何でそこにあるって分かったのかなって思って」
不思議そうな表情を浮かべる真に、俺は目を瞬いた。
「その靴、誰かに隠されたんだと思うぜ。汚してないってことは、その靴が値打ちあるって分かってる奴だろうな。別に変な意味じゃねぇけど、お前って小柄だろ? だから見つけにくい場所ってなると、この教室内なら掃除用具入れの上くらいかなって。高い所に置いとけば、もし見つけたとしても、お前じゃ椅子とか使わねぇと届かないと思うし、結構な嫌がらせだと思う。何か心当たりねぇか?」
そう聞きながらも、俺は犯人に既に心当たりがあった。特に会話に参加せず、普段からぼんやりと教室内を眺めているせいか、人の表情や仕草が自然と見えるのである。
真は目を伏せて、悲しそうに笑った。
「ないよ。みんな優しいし」
「そうか」
真は、誰かが自分の靴を隠したとは思いたくないのだろう。誰だって、他人から悪意を向けられていると――それが親しい間柄なら尚更――思いたくないものだ。
「まあ、気を付けとけよ。部活、頑張って」
とはいえ、これを放置しておくと彼は更に何かしらの被害に遭うかもしれない。別に助けてやる義理などないと言ってしまえばそれまでだが、これも何かの縁だ。俺は、らしくもなく少し怒りを覚えていたのかもしれない。
今日の部活は少し遅れて行くか、と考えながら、俺はグラウンドに出て、運動部の水分補給場所になっている木陰で、彼を待つことにした。
彼は、俺の予想よりも早く木陰に訪れた。俺と同じくらいの背丈の男子生徒の首筋には、まだ春先だというのに大量の汗が流れている。眼鏡を外し、額の汗を袖口で拭った彼は、眼鏡を掛け直すと、ようやく俺の存在に気が付いたらしい。何故こんな所にいるんだ、とでも言いたげな訝しげな表情に、俺はじっと彼・
「藍沢、だったか。お前のこと待ってたんだよ。ちょっと聞きたいことがあってさ」
へらっと精一杯笑みを浮かべる。しかしそれは逆効果だったようで、藍沢の表情が更に険しくなった。
「何の用かな。僕、今部活中なんだけど」
「いや、すぐ済むからさ」
俺は笑みを浮かべたまま、言葉を続けた。
「お前、神薙の靴隠したろ」
瞬間、藍沢の顔に様々な色が浮かぶ。驚き、疑問、一瞬の焦り。それを飲み込んで、彼は澄ました表情を繕った。
「何のことかな。意味がさっぱり分からないんだけど」
「とぼけるならそれでもいいよ。俺、見たんだよな。お前が神薙の鞄漁ってるの。その時は何してんのか分かんなかったから気に留めなかったけどさ」
「そんなの、証拠にならないな。僕は神薙君に頼まれて、教科書を取ってあげただけだし」
確かに、俺が挙げた状況だけでは証拠にならない。俺は頷いて話を続ける。
「まあ、それならいいんだけど。俺にはスポーツのこととか何にも分からねぇし、頑張ってる奴は純粋にすげぇと思うだけだけどさ」
小さく息を吸う。俺は藍沢を見遣った。
「けどさ、そういうやり方は違うと思うんだよな。神薙に勝ちたいなら、陸上で勝てばいいだろ?」
「だから、僕はやってな……」
「お前の机の中、砂ですげぇ汚れてたぜ。ほら」
俺はポケットから端末を取り出し、一枚の画像を藍沢に見せる。それは藍沢の机の中を撮影したもので、彼の机の中には乾いた砂が散らばっていた。
「教室に人がいなくなるまで、自分の机の中に神薙の靴隠してたんだろ? で、誰もいなくなってから靴を隠した。いつも真っ先に部活に来るお前が、今日は来るのちょっと遅かったって、陸上部の奴に聞いたけど」
藍沢の顔がみるみる蒼白になり、彼が拳を握り締める。と思った途端、彼は真っ赤な顔で俺の胸倉を掴んだ。
「お前に何が分かる! あんな、努力もせずへらへらした奴に賞を全部取られてくんだぞ! 靴を隠したくらいで何だ! 勉強だって、俺はあいつに勝てない、あいつさえいなければ、あんなやつさえいなければ……!」
激昂した藍沢がそうまくし立てるのを、俺は冷めた頭で聞いていた。
「靴を隠せば、あいつが練習できなくて困ると思ったのか?」
「そうだ! 練習なんてしなくても、あいつはどうせ賞をかっさらってくんだ、部活中にあいつの顔を見なくていいと思うだけで清々したよ!」
勝ち誇ったように言う藍沢に、俺は小さく溜息をついた。
「馬鹿だなぁ、お前。気付いてねぇの? 神薙ってめちゃくちゃ努力家だぜ。あの靴、今年買ったばっかりだってのに、もう数年使い込まれたみたいな状態だぞ。あいつ、毎日欠かさず朝走って学校来てんだろ? 確かに神薙は普段努力してるとこ人に見せてねぇけどさ、だからって全く努力してない訳ねぇだろ」
藍沢が目を見開いて硬直する。俺は、胸倉を掴んでいる彼の手を振り払った。
「俺はさ、他人の頑張りを踏み躙る奴が大嫌いなんだよ。それと、言質は取ったからな」
俺は再度端末を彼の眼前に掲げ、先程録音した音声を彼に聞かせてやる。それを聞いて、真っ赤になっていたはずの彼の顔が面白いように蒼白に変わっていった。
「お前が神薙に謝らねぇなら、これを教師に聞かせる。神薙に謝って、今後こんな卑怯なことしないって約束すんなら、これは消す。お前はどうしたい?」
藍沢はその場に崩れ落ち、ごめんなさい、と蚊の鳴くような声で呟いた。
藍沢が真に謝ると約束したので、俺は画像と録音音声をその場に消去した。勿論、もしもの時のためにバックアップは取ってあるが、藍沢は元々真面目な生徒だ、そのもしもはないだろう。
事の顛末を真に直接話したわけではないが、翌日、真は教室に来た俺を見つけるなり思い切り抱き着いてきた。
「朔月くーん!」
「ちょっ、いきなり何だよ離れろって」
ざわめく教室の中で、真を引き剥がす。彼はにこにこと心底嬉しそうに笑っていた。
「ありがとな」
その一言だけで、俺は藍沢がきちんと謝罪をしたのだろうと察した。そして謝罪ついでに、藍沢は俺のことまで話したのだろう。
「別に、礼を言われるようなことはしてねぇよ」
そう、俺は別に真のためにあんな面倒なことをした訳ではない。単純に、腹が立ったからだ。まあ、らしくないことをしたと言う自覚は、あるにはあるのだが。
「いやいや、今度なんか奢るわ。お礼はちゃんとさせて」
真が真剣な表情で俺を見つめる。彼のこういう所が人を惹きつけるのだろうなと思いながら、俺は曖昧に頷いた。
この一件以来、真は俺のぶっきらぼうさをものともせずに話しかけてくるようになった。俺はといえば、そんな彼を振り切るのも申し訳ないので、眠気で回らない頭で、毎朝授業が始まるまでは真とこうして話しているという訳だ。
「お前、ほんと朝弱いよな! もうすぐ授業始まるぜ。しゃきっとしろよー」
がらりと教室の扉が開いて教師が入ってきたのを見計らい、真が軽く俺の背を叩く。ここまで親しく話しかけられておいて何だが、俺は未だに、彼を友達と呼んでいいのか測りかねていた。
真と何を話したのか、眠気に支配された頭では上手く思い出せない。とはいえ、こうして他愛ない話をする時間は、俺にとっても楽しいものだった。
真と藍沢は、今では良きライバルになっていると聞く。それなら俺が焼いたお節介にも、多少の意味はあったのかもしれない。
俺は欠伸を噛み殺しながら、起立ー、という間の抜けた声にのろのろと立ち上がった。