「────永寿様が、ですか?」
「あぁ。しばらく留守にすることになった」
よっしゃぁああああっ!!
しばらく地獄の作法教室から逃れられるーーーーっ!!
後宮連続殺人事件が解決してから再開された永寿様による作法教室。
私は毎日鬼教官によって山猿矯正を施されていた。
『できるまで繰り返し』
『できないままにはしておかない』
を基本理念とした鬼教官は、彼が定めた最低基準に達していない場合、夜遅くなってでも特訓を続ける。
普段は人畜無害な癖に、なかなかの鬼畜具合だ。
「安心するのはまだ早いぞ。『作法の勉強は怠らないように。帰ってきたら試験をします』と、永寿から言付かっている」
「のぉぉおおおおおおおおお!?」
ちなみに今しているのは食事作法だ。
とりわけ茶席に呼ばれた際の作法を徹底的に詰め込まれている。
「曽蓉江だと、一週間ほどで帰ってくるだろう」
「──へ? ……曽蓉江?」
第二の故郷であるその名に反応を示すと、景天様は懐から文を取り出し、私へと差し出した。
「定期連絡を送ってすぐの昨夜、猫々《マオマオ》が運んできた文だ」
「老師の字……」
文には確かに老師の字で、永寿様一人ですぐに曽蓉江に来るよう書かれている。
このミミズが這った後のような字は老師のもので間違いはない。
「何かあったんですか?」
「さぁな。それ以外は何も書かれていなかった。だがまぁ、師匠の頼みだ。永寿もすぐに支度して、今朝早くに発った」
「そう、ですか……」
どうしたんだろう、老師。
何だか、胸騒ぎがする。
後宮の事件が片付いたら一度曽蓉江に戻って老師に会いたいと思っていたけれど、結局はバタバタとしてしまって忘れてしまっていた。
永寿様が帰ってきたら、私も曽蓉江に一度帰ろう。
「あぁそれと……、一緒に君宛ての文も入っていた」
「私に?」
気を急がせながら私は手渡された文を開くと、同じくミミズが這った後のような字に目を通す。
「なになに……? 『蘭よ。後宮の一件、ご苦労だったな。わしも鼻が高い。蓉雪の様子についても、ありがとう。あの子が少しでも笑っていたというのならば、わしの心も軽くなるというものだ。ところで──』……っ!?」
そこまで呼んで、私は次の一文に思わず読むのをぴたりと止めた。
「どうした? 蘭」
顔をこわばらせ途中で読むことを放棄した私を、訝し気に景天様がのぞき込む。
「あ、いや、べつに……な、何も……」
こんなの読めるわけがない。
特に景天様には、聞かせられない……!!
「……? どれ、見せてみろ」
「あ、ちょ、景天様!?」
私の手に収まっていた文は、一瞬の隙をつかれてすんなりと景天様に奪い取られてしまった。
「ふむ……。『ところで、景天様との祝言はまだかの? わしの目の黒いうちにはお前の晴れ姿を見せてもらいたいものじゃ』って……」
「……」
「……」
顔から火が出てきそうなそのない湯鬼、私は思わず景天様から視線を逸らした。
気まずい。気まずすぎる。
「私は君と祝言を上げるのか?」
「なっ……ち、ちがいますっ!! 老師が勝手に言っているだけなのでっ!!」
婚約しているわけではない、いや、それ以前に恋人でもない私達に、一体何を期待しているのか、あのジジイは。
「多分、私がこの歳でも結婚していないどころか、姉の死の真相を探ることに夢中になっているのが心配なんでしょう」
この国では14,5歳で結婚する女性が多く、18歳ともなれば行き遅れともいわれる。
親代わりとして、心配をしてくれているということなのだろうが……だからって何で景天様……。
「ふむ……。……君は、結婚はしたくはないのか?」
「え? あー……まぁ……、したくない、わけではない、ですが……」
愛や恋もよくわかっていないながらも、誰かを信じ、愛し、家族を作り、人生を共に歩む問うものは悪くないとも思う。
願わくば、父と母のように仲の良い夫婦でありたいし、子どもだってほしい。
だがそれ以上に、今は大切なことが出来てしまったのだから仕方がない。
「いつかは、笑顔いっぱいの家庭を作りたいとか思うこともありますけど……、今は姉という家族のことが最優先、ですね。だからもう結婚はほぼ諦めてます」
私の中にまだ見えていない家族よりも、確かに私の中に存在する家族。
そのためなら、婚期を逃してしまったとしても仕方がないとあきらめがつく。
「ほぉ……。君に結婚願望があったことに驚きだな」
心底驚いたように声を上げる景天様。
失敬な。
私だって一応乙女ぞ。
ちょっと行き遅れた乙女だけれど。
だがそんな景天様の次の日と琴で、私の時は止まることになる。
「……なら蘭。私と結婚してみるか?」
「────────────は?」
表情に特に変わりなく、いつもの会話の延長線上のようにさらりとはなって来たけれど、それ求婚よね!?
何普通の顔して爆弾投下してるのこの人!?
「えっと……あ、え、その……それは──」
トントントン。
私が言葉を絞り出そうとしたその時、広間の扉を叩く音が響いた。
「ん? 入れ」
景天様が入室の許可を出してすぐに「失礼します」と一言断って入ってきたのは、皇帝陛下の護衛である双子の一人、凛さんだった。
あ、ちゃんと戸を叩いて入室する派なんだ。
護衛として暗部として常に影に控えている彼らは、呼べばシュタッとどこからともなく現れるので、正攻法で尋ねてきたことに驚きを隠せない。
「どうした。君が来るなんて珍しいな。皇帝陛下関連か?」
「はい。皇帝陛下より、蘭様へ召集令です。『本日正午より謁見の間へ』とのこと」
「召集令? 今日は何とも急なことだな」
いつもは遅くとも前日には召集の文が届くというのに、どうしたことか。
「文を書く暇もない程、早急に片づけたいことができたのでしょう。それでは、私はこれにて」
「あぁ。わざわざすまないな」
ただそれだけを伝えると、凛さんは一礼してから再び入って来たばかりの扉へと足を進めた。
そしてゆっくりと振り返り、扉を閉めるのと同時に無表情で言った。
「…………それでは、お戯れ中、失礼いたしました。どうぞ、お続けください」
「~~~~~~~~~っ!?」
残された私たちがしばらく無言で固まっていたのは、言うまでもない。