「うんうん、なかなか様になってきましたよ、蘭。よくがんばりましたね。合格です」
永寿様の鬼指導が始まってから2週が過ぎ、ようやく立ち居振る舞いぐらいは合格点を得ることができた。……立ち居振る舞いだけ。
分厚い辞典を毎日頭に載せながら、首と頭のてっぺんを痛めながらようやくもらえた合格点に、私はふっと息をついた。
「これなら謁見は問題なくやり過ごせるでしょう」
「いいんですか? 私まだ立ち方歩き方とかしかできてませんけど……」
食事作法や何かしらの作法はてんで駄目だ。
「ふふ。謁見で食事を共にすることはありませんし、大丈夫ですよ。陛下の御前で、陛下にお言葉を頂戴して終わるだけだと思います。後宮入りして暮らすわけでもないですし、とりあえず女性らしい立ち居振る舞いができれば良いのです」
つまり、今までは女性らしい立ち居振る舞いすらできておらず、こんなにも時間を要するほど山猿だったというわけだな? 永寿様。
解せぬ。
「まぁゆくゆくは食事作法やしきたり等などをしっかりと叩き込まねば嫁には出せませんけどね」
「嫁!?」
どこに!?
いやそもそもあなたは私の母ですか!?
「私が嫁に行く日なんて、多分来ませんよ。どうせ山猿ですし」
「おや、根に持ってらっしゃる」
当たり前だ。
こっちはうら若き乙女ぞ。
「ですが私は、あなたはきっと嫁に行くと思っていますよ」
「へ?」
私がその穏やかな眼差しを見上げると、永寿様は笑みを深くして続けた。
「きっと蘭は、素敵な方に愛され、幸せな人生を送りますよ。私が保証します」
「永寿様……? 根拠ないですけど、でも、ありがとうございます」
その日がいつになるのかもわからないし、来るのかどうかすらわからないけれど、私が幸せであることは間違いないと、私も思う。
私は幸せにならなきゃいけない。
父母や姉のためにも。
そして、育ててくれた老師の為にも。
「──あぁ、ここに居たか」
「景天様」
若干疲れた顔の景天様が広間に現れて、私も永寿様もそのよぼよぼとした主へと目を向ける。
何だろう、一気に老け込んだ?
確か朝から外宮へ行かれていたと思うのだけれど、一体そこで何が……?
「おや景天様。これまた今日は一段と老けましたねぇ」
ド直球!!
そんないつもどおりの永寿様に、景天様が力なく笑った。
「はは……。あの野郎……、また大量に甘味を大量に差し出してきてな……」
野郎はおそらく皇帝陛下のことなのだろう。
さすがに義弟とはいえ不敬すぎるけれど、それだけ腹に据えかねたということか。
「いつものことでしょうに。何を今更」
いつもなんだ……。
甘いものの苦手な景天様的には拷問に近いのだろうけれど、私からしたら毎回甘味を食べることができるだなんて羨ましい限りだ。
「はぁ……ったく、人ごとだと思って……。まぁいい。蘭。謁見の日程が決まった。──明日の朝だ」
「!!」
明日の、朝……。
「それはまた、急ですねぇ」
「あぁ。永寿、蘭の進捗は?」
「立ち居振る舞いについては合格を出したところですよ。会食ではなく謁見ですし、このくらいまでできれば問題はないでしょう」
永寿様の言葉に、景天様はほっと胸をなでおろすと「なら大丈夫だな」と口角を上げた。
「良いか蘭。聞かれたことだけに端的に答えろ。あとは姿勢を正し、大人しくひかえるようにすること。そうすれば平和に乗り切れるはずだ。ひとまずは兄上に君を紹介することができれば、君の目的遂行のためになるのだから、急いてはいけない」
念を押すように力説する景天様に、私はこくこくと首を上下に動かして承知した。
何があっても、何を言われても、感情的になってはならない。
先日の賊討伐の時のように、一人で感情任せに突っ走って力で解決しようとするな。
そ う言いたいのは痛いほど伝わった。
「永寿。お前もその場の功労者として呼ばれている。準備をしておくように」
「わかりました」
「蘭。君はこれから一日かけてやってもらうことがある」
「…………へ?」
私がぽかんとして景天様を見ると、景天様は部屋にかかっていた鈴を鳴らし、女官たちを呼び寄せた。
景天様の背後にずらりと並ぶ女官たち。
良い笑顔だ。
「身体磨きだ」
「えぇー……」
***
「もう……だめだ……っ」
ふかふかの寝具に顔を埋め、四肢を投げ出す。
あれから全身くまなく風呂場で磨き上げられ、身体をもみほぐされ、なんか色々良い匂いの液体を塗りたくられた私は、自分では何もしていないにもかかわらず疲れ果てて動けないでいる。
明日は朝からまた軽くもみほぐし、磨き上げてから支度をすることになるという。
正直気が重い。
「明日、かぁ……」
なんだか急に緊張してきた。
「……干からびてるな」
「ふぁっ!?」
突然私以外の声がすぐ近くで聞こえて飛び起きると、景天様がじっとりとした目で私を見下ろしているではないか。
何これこの既視感。
「ちょ、何また入ってきてるんですかっ!!」
「戸は叩いたぞ」
「聞こえてないし返事もしてないんですから入ってこないでくださいっ!!」
「まぁ細かいことは気にするな」
「細かくないし、少しは気にしてくださいっ!!」
乙女を何だと思ってるんだこの人は……。
「ほれ」
「へ?」
目の前に差し出されたのは、長方形の桐の箱。
「開けてみなさい」
「は、はいっ」
私は言われるがままにそれを開けると、中には朱と金であつらえられた、桃の花の飾りの綺麗なかんざしが収められていた。
「綺麗……」
角度を変えるとしゃらりしゃらりと揺れて色を放つそれに、思わず目が離せなくなる。
「これは?」
「母の形見だ。唯一の。君にやる」
……やる?
形見……って……!?
「ちょ、そ、そんな大事なもの……!! しかもこんな豪華そうな……っ、私がいただいていいものじゃ──」
「私が持っていても使わないからな」
「いやまぁそうでしょうけれど……」
だけどこんな……お母様の形見を頂けるような人間ではない。
ただの居候なのに。
「もらってやってくれ。母も喜ぶ。それに……あそこは魔窟だ。きっとそれが、君を守ってくれるだろう」
──魔窟……。
その言葉の意味を知るのは、恐らくそれに近しい者のみだろう。
普通の人間はあそこに入ることは許されないのだから。
「……わかりました。ありがたく、頂戴します」
「ん。どうぞ」
私の返事に景天様は表情を緩めて頷くと、私に背を向け扉の方へと歩き出す。
「しっかり寝ろよ? あぁそうだ、明日はくれぐれも、大人しくするように」
それだけ言うと、景天様は私の部屋を後にした。
「大人しくって……」
わかっているんだろうか。
それが一番、難しいのだということを。
「無理―……」
そして私は、重たい瞼をゆっくりと下ろした。