「ぜぇっ……ぜぇっ……」
「くっ……強情な奴め……」
店を出たところで息も絶え絶えに睨みあう私たちを、道行く人たちが遠巻きに眺めている。
結局景天様が選んでくれた布で仕立てをお願いすることになった私は、店主によって早速念入りに採寸をしてもらった。
問題はそれが終わってからだった。
いざ代金を支払うとなった時に、景天様はおもむろに自らの懐から財布を取り出して支払い始めたのだ。
そこから私と景天様両者の「私が払う」合戦が始まった。
結局景天様からの褒賞で買うのだから景天様が払ったようなものだという謎のごり押しによって、私は強引に金を支払うと、景天様の腕を引いて、逃げるように店から出たのだった。
疲れた。
ものすごく疲れた。
何で服を買うだけでこんなに疲れなくちゃならないんだ。
今まで老師お手製だったのもあるけれど、服にこだわったこともなかったから、仕立て屋でこんなに時間がかかったのは初めてだ。
「はぁ……。次は小物を見るぞ」
「小物ぉ!?」
まだ買うの!?
服だけじゃダメなのか!?
宴席でもなく、ただの謁見。
皇帝一人に会うだけぞ!?
「女性の正装には扇がつきものだ」
「えぇー……」
どこで使うのよ……。
暑くもないのに……。
「最低限の小物ぐらいはきちんとそろえておけ。私の恥にもなる。わかったな?」
「うぅー……はい……」
仕方がない。
郷に入っては郷に従えだ。
……すこしばかり面倒だけれど。
「小物はあっちだ。行くぞ」
「はーい……」
賑わう通りを景天様の一歩後ろをついて歩く。
一応これでもこの人は私の主だ。
私だってわきまえている。
と、すぐわきに並んだ露店の店先に、一体のぬいぐるみを目にした私は、思わずその場に足を止めた。
黒い瞳に耳がピンと尖った、モフモフした茶色の柔らかそう毛並みをした──うさぎ。
「……」
胸が、ぐっと締め付けられるように苦しくなるのを感じた。
幼い頃の記憶が脳裏を駆け抜ける。
幸せな、幸せな日々。
このまま続くと信じて疑うことのなかった日々。
もう2度と、戻ることのない……。
「蘭? どうした?」
後ろをついてきていないことに気づいた景天様が立ち止まり、すぐに私のもとへ戻って来ては、立ち止まってじっとうさぎを見つめる私に声をかけた。
いけない。
自分の世界に入ってた……!!
「すみません、止まってしまって。今行きま──」
「……うさぎ、か?」
「うっ……」
バレた。
「……すみません。昔持っていたぬいぐるみによく似ていたので、つい」
いい歳してぬいぐるみかと思われただろうが、趣味とかそういうのではない。
すると景天様は「昔? 都に住んでいた時の、か?」と、意外にも話に食いついてしまった。
「……はい。そうです」
私は再び目の前のうさぎのぬいぐるみに視線を落とした。
「まだ都に住んでいた時。家族で母の誕生日の贈り物を買いにこの市場に来て、その時にうさぎのぬいぐるみを見つけた私は、父母に買ってとわがままを言ったんです。母の誕生日の贈り物を買いに来たのであって、私のものを買いに来たのではないのに。父と姉は困った顔をして、母はくすくすと笑って私に言いました。『蘭が母様との約束をずっと守っていてくれるなら、買ってあげる』と」
あの時のことを思い出して、思わず両手に力がこもる。
「約束?」
「はい。何があっても、生き延びて幸せになるのよ、と。……それがその日の朝母に言われた、約束です。きっとその時にはもう、なんとなく危険が迫っているということはわかっていたんでしょうね。その日の朝に使用人も皆辞めさせましたから」
朝起きると数少ない使用人たちが皆別れを告げに部屋を訪ねた。
泣いている者もいた。
あの頃の私にはそれがなぜなのかわからなかったけれど、今ならすべての理由に合点がいく。
「私は必ず約束を守るという約束と引き換えに、ぬいぐるみを買ってもらいました。でもその三日後。屋敷に火が放たれた……」
「!!」
「家族が逃げるだけで精いっぱいで、ぬいぐるみは屋敷と一緒に……」
今でもあの時のことは覚えている。
何かが燃える臭いに気づいて目が覚めて、姉様と肩を寄せ合って……。
それからすぐに血相を変えた父様と母様が私たちを連れに来て、手を引かれるがまま走った。
そして都から出て逃げる際に、ついには囲まれてしまった。
「あの時、老師が来てくれなかったら、母との最期の約束を早速破ってしまうところでした」
私は母様との約束の分も、老師に命を繋いでもらった分も、ちゃんと生きねばならない。
生きて、幸せにならなくちゃいけない。
全て聞き終えた景天様が眉間に皺を携えて、それからうさぎを片手で鷲掴みにして持ち上げた。
「景天様?」
「店主!! これをもらおう」
「は!?」
「まいどー!!」
「ちょ!?」
私の脳内がついていけていないうちに、うさぎのぬいぐるみは景天様によって購入され、それはすぐに私の顔面へと押し付けられた。
「ぶふぅっ!?」
モフモフとした柔らかな毛が私の顔を包み込む。
「何す──っ」
「私とも約束だ。決して生き急ぐな。死ぬな。何があっても生きろ」
「っ……!!」
それから景天様は、ふわりと優しく微笑んだ。
「生きて、幸せになれ。生家は燃えてしまったかもしれんが、居場所はこれから作ればいい。なんなら、うちはすでに君の家でもある。約束、守ってくれるな?」
「~~~~~っ……約束、多すぎです」
私は押し付けられたうさぎをぎゅっと胸に抱いて再び顔を埋めた。
温かくて、柔らかい。
「……ありがとう、ございます。……景天様」
小さな感謝の言葉は、うさぎの中に吸い込まれてしまったかもしれない。
だけど「ふっ」というかすかな笑い声が、届いていることを教えてくれるようだった。
「大事にしろよ? 私だと思って」
「……」
「……」
「……それは嫌です」