都・小明を出てすぐの村・登安は、農業で栄えていた天明国最西端の村だ。
天明国は小明を都として、東と南に延びている国。
西は登安と山しかなく、北は
だがこの高くそびえる山々が、北と西の防衛を担っているとも言われている。
とはいえ、山のことがなくともこの大国である天明国に攻め入ろうなんて国は、100年前の皇帝が周辺の国を統一して一つの天明国にして以来、一度もなかったのだけれども。
「景天様、そのお荷物は荷馬車の方に乗せなくて良かったんですか?」
愛馬である黒い馬に跨る景天様のそのすぐ後ろには、小包が一つ括り付けられているのを見て尋ねると、景天様はニヤリと笑った。
「あぁ。これは何通りか考えた対賊の作戦のうちの、作戦その2で使うからな。使わないようなら荷馬車に移すし、もし使うようなら荷物に紛らわせていたら準備が遅れてしまう。まずは状況を把握してからどうするか考えようかと思ってな」
何通りか考えた、って……突然決まった登安行きなのに、そんなにいろいろ考えることができるのか。さすが、腐っても頭の切れる景天様だ。
でもいったいどんな作戦なのかしら?
「それよりも……蘭」
「はい?」
「お前、荷馬車の方に乗らなくて良かったのか?」
そう言って馬上から後方の食料を詰んだ荷馬車にちらりと視線を送る景天様。
荷馬車は景天様の屋敷の下男が操り、景天様と私はその前を、そして永寿様は私たちの前を先導して、それぞれ馬に乗って砂利道を進む。
ガタガタとした砂利道で身体に負担がかかるし、普通の女性は荷馬車の方を選ぶだろうが、私はこっちのほうが良い。
「私は香々に乗ってる方が落ち着くので、大丈夫です」
香々は私が老師に助けられてから曽蓉江に行ってすぐ老師にもらった馬だ。
あの時はまだ仔馬だったけれど、すっかり大人になって凛々しく頼もしくなった。
少し硬い香々の毛をそっと撫でると、気持ちよさそうに細められるつぶらな瞳。
うん、可愛い。
「そうか……。あと少しで登安だが、身体が辛くなったら言いなさい。お前を荷馬車に移して、私が香々を引いていくから」
「はーい」
「軽いな」
私のふわふわとした返事に、景天様が不服そうに目を細める。
昨日今日で景天様という方の性格はなんとなく把握した。
この人は飄々としているがとんでもなく策士だ。
聖人君子だと思っていたが裏がある。
何かをするには必ず理由があるし、見返りが発生する。
100%の善意なんてありえない。
顔が良い分絆されそうにならないこともないが、優しくされてときめいたり見直したりするだけ損というものだ。
「お前、何か失礼なこと考えただろ……」
「いいえ? 別に何も。さ、張り切っていきましょうっ!!」
私は声を張り上げて言うと、少し距離が開いた前方の永寿様の方へと香々を走らせた。
***
「っ……これは……」
「ひどい有り様だな……」
登安についた私たちは、その目の前の光景に言葉を無くした。
村のいたる所に散乱した農機具や割れた食器、衣類などの日用品の数々。
家はところどころ戸板がはがされ破壊されて、なんとも無残な状態で建ち並んでいる。
その中から隠れてこちらの様子をうかがっているであろう人の気配がちらほら……。
「……ここまでひどいとは……」
眉を顰める永寿様に、景天様も険しい表情を浮かべ、鋭い光をその瞳に映し出す。
「……とりあえず、
「はいっ」
私たちはその凄惨な光景を横目に、登安の村長の家へと馬を進めた。
──村長の家は村の北側の山際に位置していた。
元は美しい朱色の門だったであろうそれは破壊され、色は砂ぼこりでかすんでしまっている。
私たちは家のすぐ隣に馬と荷馬車を留めると、景天様がその所々穴の開いた扉を勢いよく引き開けた。
「たのもう!! 村長はいるか!!」
「ちょ、景天様!?」
ここにきてまでも扉を叩くことはなく、とりあえず勢い良く開けてみる景天様。ブレないお方だ……。
その背後では右手で顔を覆って項垂れる永寿様。心労、お察しします。
「は……はい……」
か細い声と共におびえたように物陰から顔をのぞかせたのは、つるりとした綺麗な形の頭が特徴的な老人。
恐らくこの人がこの村の村長なのだろう。
やつれ切って目も虚ろだ。
「っ……。要請を受け、小明から来た。李景天だ。貴殿が登安の村長で間違いないか?」
景天様が名乗ったその瞬間、老人の目が大きく見開かれた。
「!! けい……てん……様……? 皇帝陛下の……皇弟殿下の……? っ……あぁ──っ、ようやく……っ!! ありがとうございます……ありがとうございますっ……!! はい、私が、私がこの登安の村長、
村長はそう言うと私達をその荒れ果てた家の中へと迎え入れた。
「──まさか、景天様に来ていただけるとは……。もう、見限られたのだとばかり……」
奥の部屋に通され椅子に座ると、すぐに村長夫人がお茶を淹れてくださった。
少し欠けた茶器に「ごめんなさい、これが一番使える茶器なんです」と申し訳なさそうに言う夫人に、私は「おかまいなく」と微笑んでその茶を頂いた。
うん、喉が潤う。
──あれ?
よく見ると身体が僅かばかり右に傾いていることに気づいた私が、過ぎに彼女の足元に視線を向けると、左足に固定板と共に包帯が巻き付けられていた。
「あの、足……」
私が思わず口にすると、夫人は苦笑いを浮かべて言った。
「昨日の賊の襲撃で逃げていた際にこけてくじいてしまって……。私のような年寄りには、もう毎度逃げ回る力が残っていないのですよ。次はもしかしたら、逃げられないかもしれません。そうなれば、お荷物である私は置いて逃げるよう、夫にも子どもにも言ってあります」
「そんな……。」
若者たちと違って体力の弱いお年を召した、特に女性にとっては日々のこの搾取がどれだけ負担になっているか。
そして自分を置いて逃げるよう言わざるを得ないところまで追いつめられているという現実に、私は父と母のことを思い出していた。
あの日、殺し屋に襲われた時、父も母も、自分たちのことより私達のことを案じていた。
自分たちを置いて、早く逃げろと。
事切れるその瞬間まで、血まみれの状態で、私たちにそう言っていた。
私たちは殺される前に老師に助けられたけれど、助けることのできなかった父母の分も、私はこの人たちを助けてあげたい。そう思った。
「今のところ賊は暴れて家から木材をはがし、食器や食料を盗っていっても、人を攫ってはいません。ですが、食料に困ることが亡くなり、衣食住に困らなくなり、生活の基盤が出来れば──」
「次に求めるのは『色』だろうな……」
村長の言葉にうなずきながら、景天様が深刻な顔をして腕を組み唸った。
「『色』、ですか?」
「あぁ。女だ。まぁ、人間の三大欲求のうちの一つだな」
「っ……!!」
その意味を理解した私は、顔を熱くさせて俯いた。
つまり、女性のみが危険となるということか……。
むしろ今までそれが無かったことが奇跡のように思える。
「よく今まで無事で……」
「それほど生活の基盤を作るのに苦心していたのだろうな」
何もかもを理解しているように景天様が言って、村長もそれに頷いた。
「はい。一か月前、賊たちは山の向こうから現れました。そしてここを襲い、食料を奪い、食器類や家具を奪い、家を壊し木材を奪い、生活に必要なものを次々に奪っていきました。そして村の西側の山を少し上がったところに、盗んだ木材や道具を使って小屋を作り、拠点にしたようで……。足場の悪い山に小屋を作ることに苦労していたようでした……。ですがそれもついに完成したようで……。おそらく、そろそろ女が狙われることになるかと、皆恐怖しておるのです」
山の向こうから?
ということは、山の向こうの国・
まさかあの高く険しい山を越えて来る者がいるだなんて……。
「村を出て都へ行こうにも、金品を盗られ馬畜をも取られた私達には、都に歩いて行ったとしても生活していく力が無いのです」
家を借りるにも金がかかる。
食べ物だって衣類だって、無償の提供があるわけではない。
他村からの移住民の保護制度というものがあるわけでもない。
見知らぬ土地で難民化して飢え死ぬのが目に見えている。
「……そうか…………」
景天様は眉を顰めてそう声を漏らすと、再び強い瞳で真っすぐに村長を見つめ、
「村長。要請があったにもかかわらず、訪問が遅れて申し訳なかった」
そう言って頭を下げた。
「け、景天様!?」
仮にも工程の弟であるお方が、下々の者に頭を下げて謝罪をする。
そのありえない光景に、誰もが息を呑んだ。
「国は、国内援助よりも国外援助を優先させてしまった。……だが、それは間違っている。私が、もう少し早く立ち上がっていれば……!!」
おぉ、胡散臭いぞ。
しかもしっかりちゃっかり国の瑕疵を組み入れているあたり、やっぱりこの人は策士だ。
抜け目ない。
そんな胡散臭い景天様のお言葉に、村長が目を潤ませた。
「あぁ……!! なんという善良なお方……!! 景天様は我らのことを思いここに来てくださった。それだけで我々はあなたに感謝しかありません……!! 本当に……本当に、ありがとうございます……!!」
騙されないで村長!!
この人はただ自分の評価を上げたいだけよ!!
心の中でそう暴露するも、顔には出さない。絶対に。
「必ず、早急に私たちが賊を一掃してみせましょう……!!」
「あぁなんと……!! あなた様は神が御遣いなされた天子様だ……!!」
あぁ……毒されていく。
純粋な国民が……。
ため息をついた私を、景天様の三日月型に細められた紫紺の瞳がとらえた。
「と、いうことで作戦2だ。蘭。一肌脱いでくれるな?」
「────────はい?」