「蘭、騙していて悪かったな。私が──李景天だ」
……………………はい?
「永寿様が……景天様……って…………っ!?」
このさっきから人を小馬鹿にしたようにニヤニヤしている男が────あの景天様ですってぇぇぇええええええ!?
私の頭の中の景天様像がガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
うそだ。
信じたくない。
これはきっと夢だ。
景天様っていったら……人々のことを思う優しさであふれて、頼もしくて、市井のために常に尽くしてくれて……。
いや、それよりも何よりも、景天様ご本人を前に景天様への思いをつらつらと語っていただなんて────無理!! 恥ずかしすぎる!!
もしも時間を移動できたならば、あの時の自分を羽交い絞めにして
混乱に混乱を重ねて頭を抱える私を見て、景天様──本物の景天様が、まるでいたずらが成功した子どものような顔をして笑った。
「はっはっは!! だまして悪かったな。あらためて、私が現皇帝・景辰の弟、景天だ。よろしく頼む、柳蘭」
悪かったなどとは到底思っていなさそうな笑みを浮かべ挨拶をする景天様に、全身の力が抜けていく。
「え…………えっ……と……、では、永寿様だと思っていたこちらの方が本物の景天様で? こちらの景天様だと思っていた方が……本物の永寿様、と?」
「はい。騙すようなことをしてすみませんでした。あらためまして、老師の初代弟子であり、景天様の護衛をしております。永寿と申します」
景天様として座っていた椅子から立ち上がり、丁寧にあいさつをする本物の栄典様は、限りなく私の中の景天様像そのものだ。
でも現実はこっちが本物…………はぁ……。
心の中でため息をつくも、現実はすり替わってはくれない。
「とりあえずこの短時間でお前の中の私の印象が最悪だといいうことだけはわかった。わかったから────そのとてつもなく嫌そうな顔はやめなさい。さすがの私も傷つく」
「シツレイシマシタ」
これまでずっと一緒にいたのならば今更猫をかぶる必要はない。
さっきまでの皇帝への不敬発言を考えても、今更取り繕ったところで印象が変わるわけではあるまい。
「ふむ。まぁいい。で、先程の話だが──」
気持ち的には全然よくないのだけれど、これ以上考えたところで永寿様が景天様になるわけでもない。
切り替えよう、うん。
「蘭。お前は────合格だ」
「────────へ?」
合格、とな?
一体何のことだろうか。
「えっと……それはどういう……」
「ん? だから、姉の死の真相を確かめるため、兄上に接触を図るのが目的で後宮に近づきたいのだろう? それに協力してやろう、と言っているんだ」
「協力……してくださるんですか?」
私、皇帝に対してどろぼうだとか盗人だとか、不敬なことしか言ってないんだけれども……。
不敬だと剣を向けられるならともかく、それでなぜ合格になるのか、意味が分からない。
こっちは応戦する気満々だっただけに、頭が付いていかない。
「景天様。それでは余計混乱してしまうだけです。しっかりと、丁寧に、ご自分の思いからきちんとお伝えしたほうが、蘭も理解しやすいかと」
永寿様が呆れたようにため息をつくと、景天様は目を丸くしてぱちぱちとその目を瞬かせた後、「ふぅむ……」と唸った。
「あぁ、そうか……そうだな。一般的には不敬な発言だったな」
何なんだこの人は。
一人で納得しているようだけれど、私は未だ置いてけぼり状態だ。
永寿様の言う通り、わかるように説明してほしい。
じっとりと見詰める私の視線に気づいた景天様が、苦笑いをしてゆっくりと口を開いた。
「すまんな。私の中ではそれが不敬だという感覚はなかったんだ。私の機嫌を損ねないよう、不敬を犯さぬよう、皇帝を褒めちぎって敬意を示すかと思っていたんだがな……。お前が馬鹿正直に不敬発言をしたんだ。私も、馬鹿正直に、誠実に向き合おう。…………蘭」
「はい」
「……私も、皇帝のことが────大嫌いだ」
「!?」
空耳だろうか?
聞いてはいけない、いや、聞くはずのない言葉を聞いた。
そんな気がした。
大嫌い?
まさか!! 実の兄よ?
それを大嫌い、だなんて言うはず……。
「信じられない、というような顔だな。まぁ、無理もないか。……単刀直入に言おう。私は、兄上が皇帝では市井の民は疲弊し続け、いずれこの天明国は滅びる。そう考えている」
「っ……国が……滅びる……!?」
飛びだしてきたのはもっと聞いてはいけない言葉。
この天明国は、周辺諸国を取りまとめる一番力を持つ大きな国。
それが滅びるだなんて、滅多なことを言うものではない。
愕然として言葉を無くす私に、景天様は頷いて言葉をつづけた。
「そうだ。……兄上は、即位してから今までの5年間、市井の生活にまで目を向けることができていない。自分の目の前のことだけにいっぱいいっぱいになっている。前皇帝──私にとっての実父がどのような人物であったか、お前もある程度は知っているのだろう?」
前皇帝……。
恐らくこの国の大人で知らぬものなどいないだろう。
あの、色欲に溺れた皇帝を────。
次々と見目麗しい女声を後宮に引き入れ、政を放り投げ色に溺れた愚帝。
おかげで市井の生活は荒れ、闇稼業も増えた。
愚帝の陰に隠れて好き放題する役人で朝廷もまた腐りきっていた。
そんな時、前皇帝が突然死されたと公表された時には、喪に服しながらも民は内心両手を上げて喜んだものだ。
それでも現皇帝は、前皇帝時代によって腐りきった朝廷の尻ぬぐいで手いっぱいで、市井の暮らしは良くならないのだけれど。
皇帝は、前皇帝時代の後宮にひしめく
無理矢理後宮に入れられた者は市井に戻ることを希望し解放されたが、それでもまだ次の皇帝の妃嬪となりたいと残る者も多い。
皇帝にその気はなくとも、自分の親のしたことの後始末をすることが多すぎて、この5年後宮関係については姉様を唯一の皇后として娶ったこと以外、何も進まずにいる。
前皇帝の妻で前皇后は、現皇帝が幼い頃に心を病んだ末自身の手で人生に幕を下ろしているし、力を合わせていける家族というものがいなかったことには、多少の同情はする。
「兄弟、助け合ってはいけないんですか? 二人だけのご兄弟なのに」
腹違いとはいえ、半分は血のつながった兄弟だ。
家族は助け合うものだという考えはないのだろうか?
前皇帝はあれだけ多くの女性を後宮に入れておいても子どもは現皇帝と景天様のお二人のみなのだから、なおのこと支え合って国を建て直せば良いのに。
姉様と助け合って生きてきた私には、なぜそうはならないのか疑問でしかない。
すると景天様は先ほどまでの表情とは打って変わって、冷笑した。
「助け合う? あいつは私を嫌っているというのに?」
「嫌う?」
「あぁ。度々届く嫌がらせの贈り物に、大量の見合い相手の勧め、たまに会っても言葉を発することなくただ黙って私を見下しているだけ。きちんとした会話など、私が幼い頃宮中にいた時ぐらいなものだ」
嫌がらせをされるほどに不仲だなんて……。
村の皆がよく話していた。
皇帝が国を治め、景天様が市井の状態を見定め改善し、この兄弟の力で少しずつ豊かになっていくのではないか、と。
それがこんなにも不仲で、片や皇帝になり替わろうともくろんでいるだなんて、誰が想像しただろうか。
「だから私は、現皇帝をその玉座から引きずり落としたいと思っている。どんな手を使っても、な」
「っ……!?」
目が、本気だ。
動けない。
でも不思議と、怖くはない。
その感情に、私も覚えがあるから。
「私は、皇帝に近づきやすくなるようにお前に力を貸してやろう。私の傍で、私の側近として行動を共にしていれば、必ず皇帝に近づくことができる。その代わり私は、お前に皇帝に近づき奴を篭絡し、暗殺することを求める」
「ろ……篭……っ、暗殺!?」
暗殺はともかく、皇帝を篭絡するなんて……なんて冗談!?
「私、皇帝のこと嫌いって言いましたよね?」
「あぁ、言ったな。だが、蓉雪皇后と同じ色を持つお前ならば、もしかしたら皇帝を篭絡できるやもしれん。皇帝に近づき、皇后の死について聞き出した後、暗殺に及べばいい。あの老師の弟子ならば、お手のものだろう?」
そりゃできないことはない。
武術だけでなく暗殺術も叩き込まれた。
だがまさかそれが皇帝とは……。
──でも、やるしかない。
だって私には、絶対的な目的があるんだもの。
「この話を聞いたからには、引き返すことは出来ん。蘭、私の共犯者として、これからよろしく頼むぞ?」
「…………御意」
こうして私は、彼──景天様のもとでお世話になることになったのだ。
彼の思惑を知る、共犯者として。