玄関ホールには大きな流木のようなものが飾られている。
それ以外の調度品は何もない。
ほんのりと良い香りが漂っているということは、この木は香木なんだろう。
ごちゃごちゃ飾り付けた賑やかな屋敷よりずっと品が良いわ。
さすが景天様。
絵画や調度品のほとんどない長い廊下の突き当たり。
永寿様がこげ茶色の扉を叩くと、「入りなさい」となんと中性的で穏やかな声が返って来た。
「失礼します」
永寿様が一礼して入室するその後に続いて私もまた頭を下げて、それから顔を上げて中の主に視線を移す──。
「……へ? 女の……人……?」
思わず口から漏れ出てしまった戸惑いの声が、しんとした執務室に響いた。
永寿様と同じ艶やかな漆黒の髪は肩まででそろえられ、髪と同じ色の切れ長の瞳が鋭くこちらを見つめる。
永寿様も美しい方だけれど、また別の、女性的な美しさが……って……。
「っ!!」
すぐに自分の失言に気づいた私は、両手で口を覆うも時すでに遅し。
その言葉はすぐ前にいる永寿様はもちろん、執務机で椅子に腰かけた景天様にもしっかりと届いているようだった。
(ど、どどど、どうしようっ!? 私、いくら女性のように線が細くてお綺麗な方だとはいえ、景天様は男の方なのになんてこと……!!)
混乱で視線を彷徨わせ次の言葉を探す。と──。
「っぷふっ……」
静まり返った室内で永寿様が小さく噴き出す声が響いた。
(んなっ!? こ、こいつ……!!)
人が真剣にどうすべきか考えているっていうのに……!!
心の中で悪態をつくと、それがまるで聞こえているかのようにニヤリと笑う永寿様。
(うすうすわかってはいたけれど、この人、私のことをアホだと思ってるんじゃない!?)
「ふふ。すまないが私は男なんだ」
「うぐっ……すみません」
私の不敬に対しても苦笑いで優しく訂正してくれる景天様。優しい……!!
永寿様とは大違いだわっ!!
「私は李景天。皇帝陛下の弟で、陛下の下、
「り、柳蘭です。お。おお、お目にかかり恐悦至極に存じます……!!」
あぁ、声が震える。
あの景天様が目の前にいて、そんな方に自己紹介をする日が来るだなんて……!!
そ、粗相のないように……、丁寧に、大人しく……!!
そう、姉様のように大人な美女として振舞うのよ!!
緊張しきった私に、景天様が微笑んだ。
「そんなに硬くならずとも良い。老師殿の弟子、曽蓉江の柳蘭で間違いないな?」
「は、はいっ!!」
私の肯定の声にこくりと頷いた景天様が、鋭く目の前の獲物を射抜くような目でこちらを見た。
気づけば永寿様も、先程のふざけた表情から一変、鋭い眼光を宿してこちらを見ていた。
「蘭。本題に入る前に質問がある」
「はい。なんなりと」
「よし。……君は景辰さ……────ゴホンッ、兄上を慕っているかい?」
「──────へ?」
慕う?
景辰様……仮にも姉の夫を?
ぽかんと間の抜けた顔で言葉の意味を探る私に、景天様が苦笑いした。
「あぁ、言い方が悪かったね。兄上のことを敬い、従う意思のある者であるのかどうか、気になってね」
「あ、あぁ、そういう……」
恐らく老師はある程度の事情を文に書いている。
だから私が皇帝に近づきたいその理由も承知しているはず。
忠誠無き者を後宮や皇帝に近づかせるわけにはいかない、ということか……。
だけど私は、皇帝のことは敬うどころか嫌っている。
最愛の、たった一人の肉親である姉を奪われ、挙句死なせたのだ。
しかも葬儀も呼ばれぬまま、死因すら明かされることなく、たった一言の文一枚で。
それをどう敬えって言うんだろう。
嘘でも──────私にはできない。
「私は……。……私は、皇帝陛下のことは……っ、申し訳ありません、景天様。──大嫌いです」
「!!」
「!?」
こんなことを言ってのけるのは不敬に値するだろう。
しかも皇帝は景天様のお兄様だ。
気分を害されたかもしれない。
でも、私にはどうしても、これだけは絶対に嘘をつくことができなかった。
私の不敬極まりない言葉に、景天様、そして永寿様は目を見開いた。
「そ……」
「──それは何故だ?」
驚いたことに主である景天様の言葉を遮って、永寿様がなぜか面白そうなものを見るかのような笑みを浮かべて私に尋ねた。
笑みは浮かべていても、その瞳の奥の光は尖った刃のようだ。
嘘なんて通じない。
「………………私にとって皇帝陛下は────泥棒だからです」
「泥棒……?」
「はい」
もうここまで不敬を並べてしまったら、全て吐いてしまおう。
元々嘘はつけない性分なのだ。
それで不敬だと剣を向けられれば、それを交えてでも────逃げる!!
「姉は、古琴の名手でした。容姿は美しく、古琴の奏に優れた姉は、ある日、都の茶会に招かれ、そこで古琴を披露することになりました。それから数日後、朝廷から手紙が届き、宮中に招かれ、後宮入りが決まり、あれよあれよという間に村から嫁ぎ、皇帝の妻になってしまいました」
あの時のことは忘れない。
二年前。私はその突然の結婚話に猛反対した。
皇帝からの直々の申し出を断ることは難しい。
断れば不敬となる可能性だってある。
現に、色狂いだった前皇帝は、自分の気に入った女性を皆後宮に入れ、結婚の約束をした恋人がいると丁重に断った女性をも、彼は恋人を人質にとって無理矢理後宮入りさせたと聞く。
それでも断って一緒に別の村に逃げようと言った私に、姉様は苦笑いしてただ一言「私は大丈夫だから」と、それだけ言って、後宮入りをしてしまった。
好きでもない男のもとへ、私を置いて、嫁いでしまった。
「突然姉を奪われ、そしてまた突然、今度は死を知らされた。死因も伝えられず、葬儀もなく。私から永遠に……たった一人の肉親を奪った。私にとって皇帝陛下は、盗人です」
静かな怒りにこぶしを強く握りこむ。
さぁ。いつでもかかってこい。
暗器は忍ばせてある。
ここを乗り切って、最初の考え通り後宮を突っ切る。
そして皇帝の首元に刃を突きつけ、真実をすべて吐かせてやる。
私がまっすぐに景天様に視線を向けると、なぜか景天様は冷や汗をだらだら流しながら頭を抱えているではないか。
(え、何ぞ? この反応は)
予想だにしていなかったタイプの反応に、言葉が出ないでいると、やがて景天様は「はぁぁ~……」と大きくため息をついてから、永寿様に向かって言った。
「もう、限界です。────────景天様」
………………へ?
「けい……てん……様?」
私は自分の瞳に目の前の男を映し込むと、彼は心底面白そうにニヤリと笑って言った。
「はっはっは。音を上げるのが早かったな、永寿」
「えい……じゅ……?」
紫紺の瞳が三日月を描き、こちらを見る。
「蘭、騙していて悪かったな。私が──李景天だ」
……………………はい?