『蘭よ。まずは都・
文を読んでからすぐに老師は行動に移ってくれた。
その場ですぐ紙と筆を用意すると、サラサラとミミズのような字で書き始めた老師。
横から見ていた私にもよく読み取れないほどミミズ化した字だったけれど、それを書き終えた老師は「万が一他の者に見つかってもこれなら読めまい。これが読めるのは、わしと、わしの最初の弟子と、そやつの雇い主だけじゃ」と満足げに言って、彼の相棒である真っ黒いカラス──猫々《マオマオ》の足にくくり付けた。
猫々は賢い。そして速く飛べる強い翼を持つ鳥だ。
人の言っていることはしっかりと理解するし、文は都までの距離をたった一日で届けてくれる。その分よく食べるから食費が大変だけれど。
カラスでありながら猫という字を使っているのは、とりあえず響きだけで名前を決めてしまう老師の適当さによるものなのだろうとは思う。
翌日には老師の弟子から了承の返事を足に括り付けた猫々が戻って、私は生まれ故郷である都・小明へと馬を走らせた。
***
私の愛馬・香々《コウコウ》は、私によく懐き、よく走ることのできる名馬だ。
これもまた、普通の馬ならば休みなしで走り続けて2日かかる都までの道を、たった一日で夜通し走り通して駆けぬけた。
ただ綺麗に舗装された道ではなく、道なき道を突っ切る形で来たので私の旅服は枝でひっかけたり葉っぱがくっついたりと酷い有り様だけれど……そんなこと気にならないくらい、私の頭の中は教えてもらった合言葉のことでいっぱいだった。
──天明国の都・小明。
朝日が空のてっぺんに昇った都では、中心部に行くほどに人々の活気のある声であふれていた。
たくさんの商人が道行く人に自身の商品をにこやかに勧めている。
ここいらで商いをしているのはきちんとした役人公認の優良商人の店ばかりだ。
私の両親はここで店を出す人々とは少し違って、各地から買い付けて裕福な官吏相手に商品を勧めて暮らしていた。
闇商人に騙されてさえいなければ、私たちは今もこの都にいただろうに。
幼い頃の記憶の中にかすかに見覚えのある広い中央広場を見ないふりをして、私は目印である骨董屋【梅蓮】へと足を進めた。
その目的の場所はすぐに見つかった。
どうにも胡散臭そうな骨董品が店先に並び、胡散臭そうなニタニタとした笑みを浮かべた店主が揉み手で接客をしている。
ここでだけは買い物したくはないな。
多分粗悪品をつかまされるだろう。
まぁ、私は芸術には疎いから一生無縁だろうが。
そんな【梅蓮】を横目にすぐ隣の薄暗い路地裏へと入ると、突き当りに古びた扉──老師の言っていた薬屋へとたどり着いた。
あの合言葉が私の頭の中をめぐる。
いよいよだ。
「ごめんくださーい……」
「……」
店に入ると、扉と同じく古びた──年代物の木の帳場の奥に、店主であろう、身体を丸くしてこちらを見つめるしわしわの老婆と目が合った。
「……」
「……」
「……」
「……」
何?
私の顔に何かついている?
それとも私の顔が何か変だった?
お婆さんは表情を変えないまま、言葉を私をただ見つめるだけ。
まるで合言葉を待っているかのようにも感じるけれど、いかんせんその老師が決めた合言葉というのがまた口にしづらいもので、私はなかなか合言葉を出せずにいる。
(老師め……なんて合言葉を決めるのよ……!!)
恥ずかしい。
ものすごく恥ずかしい。
だけどこの最初の難関を乗り越えねば、姉様の死の真相にたどり着くどころか皇帝に近づくことすらできない。
耐えるのよ、蘭。
姉様のため。姉様の為だわ。
目的の為なら私は羞恥心をも……捨てるっ……!!
私はごくりと息を呑み、一度大きく深呼吸をすると、小さくか細い声で言った。
「き………………『キャー…………老師様、最っっっ高ぉー』…………」
「……」
「……」
「……」
羞恥に耐えた。
耐え抜いたぞ。
だから早く何か言ってぇぇぇっ!!
『老師様最高』
この一言のみであればここまで恥ずかしくはなかっただろう。
『キャー』からが合言葉であり、最高の間には溜めがいる。
老師曰く、合言葉は簡単であってはならないのだとか。
だがそれにしても他にどうとでもなっただろうと思うのだけれど、この合言葉を聞いた時には老師はすでに合言葉を書いた文を弟子に送った後。
おかげで道中脳内でぐるぐるとこの言葉を唱え続け、合言葉に慣れる訓練をする羽目になった。
私がすべての力を振り絞ってその合言葉を口にすると、無表情のままその様子を見ていたお婆さんが、その目尻の皺を深くしてにっこりとほほ笑んだ。
「ようこそ。しばし、お待ちを」
そう言ってお婆さんは、カウンター裏の古びた階段から上の階へと上がっていった。
(老師のお弟子さんか……いったいどんな人なんだろう? 綺麗な顔をしているってこと以外なにも聞いていないんだけど……。そんな綺麗な女の人に稽古つけてたのか、老師)
老師の稽古は容赦がない。
剣の修業は真剣での打ち合いだし、体術も限界まで戦わせられる。
一度大熊の住む穴に放り込まれて出入り口をふさがれた時には、さすがの私もあやうく死ぬところだった。
幸い冬眠中で動きが眠かったことと、子熊もおらず大熊一体だったこともあって、なんとか素手で倒すことができたけれど。
ただ、そのことを後から知った姉様がこれ以上ないほどに怒りに怒って、老師もそれ以来そんなむちゃはしなかったが。
あの時の姉様は鬼のようだった。
今思い出しても実の妹である私でも鳥肌が立つほどに静かな怒りを爆発させて、老師だけでなく私をも震え上がらせた。
「それにしても……不気味な店ね……」
先ほどまでは合言葉のことで頭がいっぱいになっていたあまり気にしていなかったけれど、あらためて店内を見回すととても不気味だ。
至る所につるしてある薬草。
瓶に詰められたたくさんの何かの植物の茎。
それだけではない。瓶の中にはおそらく動物の一部が入っているものまである。
子どもが間違えて入ってきたら一瞬で逃げ帰ってしばらく夢に出てくるであろう程の不気味さだ。
「これ全部、薬の材料になるのかしら?」
私は脳筋とよく言われるほどに基本直情型で頭より先に行動してしまうタイプだと自分でも自分を理解している。
だけど身体を動かすだけではない。本を読み、学ぶことが好きだ。
たくさんの知識を小さな頭いっぱいに放り込むのが好きだし、何より、知的好奇心にあふれている。
解せぬことに脳筋扱いされてはいるけれど、あれだ。ちょっぴり残念な性格なだけだ。
この不気味なものたちも例にもれず私の知的好奇心を刺激させられる。
が、触れない方が良いものも世の中にはある、と思うので敢えて近づきはしない。
「でも、いずれは薬草の実験もしてみたいのよねぇ」
薬草というものは使い方によっては薬にも毒にもなる面白い植物だ。
色々なものを組み合わせて、私も市井の人々の役に立つものを作ることが出来たら……。
そんなことも考えるのだけれど、姉様には「危ないからダメ!!」と反対されていた。
過保護で、融通が利かなくて。
だけどとても愛してくれていたのだ。私のことを。
一人不気味な店内で思わぬ感傷に浸っていると、トン、トン、と階段から音が近づいてくることに気づいて、私は顔を上げた。。
「ほう。老師がとった女弟子というからどのような屈強な女かと思えば……。線の細い
がらんと静かな薬屋に、深く低く、涼しげな声が通った。