「姉様が……亡くなった……?」
狭くガランとした薄暗い部屋に、震える声が小さく響いた。
人口も少なく顔見知りばかりのその村で、私──柳蘭は、今日もいつもと同じように愛用の暗器を研いで次の訓練に備えていた。
そして師匠である老師に今日も訓練をしてもらう予定だったのだ。──暗殺術の。
私は元々は都の裕福な商家の娘で、父と母、それに優しい5つ上の
だけど8年前……。
私が10歳の時に、父母は信じていた商談相手に裏切られ、商談相手に雇われた殺し屋に追われるように都を出た後、彼らに捕まって殺された。
通りすがりの老師によって助けられて運良く生き延びた後、姉様とともに老師の住むこの村で厄介になることになり、今に至る。
「何で? どうして……嘘でしょう?」
ついこの間だ。
私の姉、蓉雪から文が届いたのは。
そこには後宮の庭に皇帝と木の苗を植え、育つのが楽しみだということ、そして
特筆身体の調子が悪いのだとか、皇帝との仲が悪いのだとか、曽蓉江に帰りたいとか、そういう負の感情は書かれていなかった。
だからこそ、今こうして姉様の死を知らせる文が届くこと自体が信じられない。
後宮からの手紙は厳しく検閲される。
それゆえに当たり障りのないことしか書くことができなかったであろうことは推察できるけれど、それにしても突然すぎる。
なんたって、死因すらも明記されていないのだ。
元は商家の娘で平民となった女。
だけど姉様は皇后だ。
それも唯一の。
この国の皇帝の唯一の妻である姉様が亡くなったのであれば、それこそ国葬をすることになるはず。
にもかかわらず、それもない。
『蓉雪死す。葬儀は滞りなく行えり』
ただそれだけの文章で、はいそうですかと理解することなど到底不可能なことだわ。
たった一人の妹である私をも葬儀に立ち会うことなく、事後報告などと。
私のことを馬鹿にしているのか。
それとも、その死には何かあるのか。
(あぁ、だめだ……)
頭が。
頭が回らない。
胸が痛くて、苦しくて。
なのに涙の一粒も流れやしない。
「姉様……いったい何があったの……?」
小さくつぶやいた言葉が誰もいない部屋に溶けていく。
私がその文をくしゃりと握り、そのままテーブルに突っ伏した。その時だった。
「蘭、準備はできたか──ん? 何かあったかの?」
誰もいなかったはずの部屋に自分以外の声が響いて、のっそりと身体を起き上がらせ声のした扉の方へと視線を向けると、そこには白く長いひげを蓄えた全身黒装束の老人がこちらを見ていた。
私と姉様の育ての親である老師だ。
「老師……。……今朝、朝廷からの文が届いて……これ……」
そう震える手で持っていた文を老師に渡す。
老師はそれを受け取り、その短い文章を目に入れた刹那、眉間に皺を寄せ、小さく唸った。
「蓉雪が……死んだとな?」
「……はい。……ですが私、納得できません……!!」
顔を歪めて訴える私に、老師が息を呑んだ。
悲しみに満ちて尚、私は現実を見ていないわけではなかった。
ただ知りたいと思ったのだ。
最愛の姉がなぜ死ななければならなかったのか。
なぜ密葬にするならするで、実の妹ですら最後の別れをさせてもらえなかったのか。
後宮での姉の姿。
あの何を考えているのかいまいちわからない皇帝の頭の中。
全て。
それらを知らないまま、この村でいつも通りに暮らしていけるほど、私は器用ではないし、物分かりの良い大人でもないし強くもない。
「うむ……確かに、蓉雪は平民からの召し上げとはいえ仮にも皇妃。国葬はおろか密葬し、唯一の肉親であるお前にすら知らせぬまま事後報告など、不可解じゃ。それに、死因すら明記されておらんとなれば…………何か、隠す理由があるのやもしれん」
あの老師ですらその違和感に憤るかのように表情を硬くした。
齢80歳にして剣技、体術、暗殺術を極め切った元暗殺者である老師は、永い人生の中でこの類の誤魔化しや策略は嫌というほど経験してきたといつか話していた。
人の死を誤魔化す理由のそのどれもが、自分にとっての不都合があったり、組織ぐるみでの大きな秘密を隠そうとしているというものばかりだと言っていたし、今回の姉様も何かあると、そう感じたのだろう。
「はい。私、今から都に行って皇帝を問い詰め──」
「これ待たんか脳筋」
「ぐえっ」
つい先ほどまで手入れしていた研ぎたての暗記を懐に納め出ていこうとする私の首根っこを掴んで老師が言う。
思わず変な声が出てしまったじゃないか。
「そう
「全部」
目的に立ちはだかる者は排除すればいい。
私は知りたいだけなのだ。
姉様になにがあったのかを。
それを邪魔するものは誰だろうと排除する。それが一番手っ取り早い。
私の答えに、
「この単純娘が……」
と呆れたようにため息を一つついて、老師は再び口を開いた。
「よいか蘭よ。感情のままに剣をふるってはならぬ。いくらわしが直々に技を教え、剣技でお前の右に出る者はそうおらんとはいえ、真正面から突っ切って全兵を動員されれば、目的の前につかまって刑に処されるのがオチじゃ」
「うぐっ……」
あまりの正論にぐうの音も出ないとはこのことだ。
唇をかみしめうつむく私の肩に、老師の皺が深く刻まれた手が添えられた。
「将を取るには、周りから。わしに伝手がある。そやつにお前を頼んでみよう」
「伝手、ですか?」
「あぁ。そやつの元で世話になれば、皇帝にはぐっと近くなる。機を狙うのじゃ。息をひそめて、時を待て。その時は必ずやってくる」
「息をひそめて……」
つぶやく私に、老師が頷き頬を緩めた。
「蘭よ。蓉雪の最期を、その真実を、どうかわしの代わりに見てきておくれ」
先ほど渡した文をその手に返され、顔を上げた私は、老師の目もとに浮かんだ涙に、目を大きく見開いた。
(そうだ……)
悲しくないはずがなかった。
暗殺者としてたくさんの命を奪ってきたという老師が、大切に守り育ててくれた私達。
子のように、孫のように大切にしてくれているというのは、私も、そして姉様もよく理解していた。
おっとりとして芸術を愛する姉様には古琴を教え、運動神経の良い私には、自分の持てる全ての武術をたたき込んでくれた。
家を与え、家事のイロハを教え、自分たちだけで生活できる能力も身に付けさせた。
まぁ、私は料理の腕は上達しなかったけれど……、それでもちゃんと生活能力は持てるくらいには成長したはずだ。
老師が私たちを愛してくれたように、私達も老師を愛していた。
私たちは、いつからかという明確なものはわからないけれど、家族と思える存在になっていたのだ。
「老師……。っ、はい……!! 必ず……!!」
私は力強く頷くと、手の中の少しばかりくしゃくしゃになった文に視線を向けた。
(姉様……。私が必ず、真相を明らかにしてみせるからね……!!)