「今宵も人間達はくだらなくて、壊れやすい、でもとても大事な人生を歩んでる」
真っ白な空間に、月の子が一人ソファーに座って紅茶を飲んでいた。
「僕にはわからないけれど」
意識をアリス達が居た街に向けると、そこには疑心暗鬼になった人達が悪意の花を咲かせている。
「哀れだなぁ。魔女はもう居ないのに。ありもしない噂を信じて、人を疑って、どこが美しいんだろう」
月の子はつい先程まで居たアリスとフィオラが座っていたソファーを見た。
何故だか寂しさを感じて、その気持ちを紛らわせるように冷えた紅茶を胃に流し込んだ。
「この街ももう終わりかな。魔女の薬がないから、流行り病でほとんどの人間が死んじゃうだろうから」
月の子はふと意識を生き残った魔女に向けた。
「プティって子と、マーシャ率いる幼い魔女達が生き残ってるんだね。フィオラは何にも反応しないかもしれないけど、アリスなら喜んだかも。言ってあげればよかったかな。……でも、死んだ後のことなんて、知らない方が良いか。本人達のためには」
月の子の過ごす空間は、時間という概念がほとんどない。一秒が一年だったり、十年だったり、一日だったりと、ばらばらの時間だ。
だから、過去の人物が現れるのも稀にある。
しかし今回は、どうやら順番にやって来る人がいるようだ。
「……まあ、真っ白なんですね。ここはどこかしら」
月の子は来訪者に嫌な顔一つせず、むしろうきうきと喜びの色を見せた。
「やあ、迷える旅人よ。長くて短い人生はいかがだったかな? 聖川ルナ」
「あなたは、神様ですか?」
ルナはきょとんとしてそう聞いた。
「まさか、確かに僕は神に等しい存在だけれど神そのものではないよ。現に、この体は入れ物が必要でね。人の命を奪っているのさ」
「あらあら、そうなんですね。よくわかりませんが、お名前を教えていただけますか?」
「ふふ。なんだかふんわりした人なんだね。僕は月の子。君達が夜、空を見上げた時にある月そのものと思ってくれて構わないよ」
「まあ、お月様なんですの? 不思議。お月様とお話出来るなんて思いもしませんでしたわ」
アリス達よりも長く生きた聖女は、真っ白な衣装に身を包んでいた。
そして嬉しそうに口元に手を添えて、上品に笑った。
「私、死んだんですね」
「おや、わかるの?」
「ええ。記憶は鮮明ですわ。聖職者だったはずの魔女、そう呼ばれて処刑されたんですよね。……今の私はいくつくらいに見えるのかしら。とても身体が軽いわ」
「鏡、見る?」
「はい。お願いします」
月の子はルナに鏡を手渡した。
ルナが鏡を覗き込むと、そこには夢と希望に満ち溢れながら、深い後悔を残してしまった少女の姿があった。
「魔女さん達と出会った頃かしら。きっとそうね。ありがとう。月の子さん」
鏡を返し、ルナは地べたに座った。
ふわりと白いドレスが品良く広がる。
「旅人ルナ、君は謙虚に生きてきたね。とは言え、地面に座らず、ソファーに座りなよ」
月の子が手を翳すとソファーが現れる。
「魔法みたい! 月の子さんも魔女か何かだったんですか?」
そう言ってソファーに座り直したルナ。
月の子は答えに困っていた。
魔女と言われればそうかもしれないし、そもそも人間という生き物ではないのだから違うのではないか。そう思うと安易に答えを出せず、黙っていた。
「……もしかして、神様と人間の半分こですか?」
「半分こ?なあに、それ」
「ハーフってやつです。異なる種別同士が愛し合って出来た、愛の形です」
その言葉は、月の子の複雑な心を少し和らげた。
「そうなんだ。じゃあ、僕は半分こかもしれないね。神様の作った、人間と言う入れ物に入れられた魂。定期的に体は入れ替えてるけどね」
「体の入れ替え? そういえば先程も入れ物って言ってましたよね。差し支えなければ教えていただけますか?」
「いいよ。この空間はね、生と死の間。僕も生きてるけど、死んでる身。そして神様が選んだ人間の体に魂を移動させて、姿形を僕のものに上書きしてるんだよ」
「よく、わかりません……」
「つまり、一つの魂を維持するのに何人もの人間の体が必要ってこと。おっと、聖女のルナにはちょっときつい話だったかな?」
「いえ、大変興味深いです。ああ、そうだ。お聞きしたいことがあるのですが」
「なあに?」
「魔女の方々は、ちゃんと天の国に行けましたか?」
「ああ、アリスとリディアとフィオラのことかな。あとその他大勢。君にとってはそんな認識だよね。あの街のほとんどの魔女はやって来たよ。でも、魂のまま現世を彷徨ってる魔女も多いね」
「……救う方法はないのでしょうか」
「ないね。本人たちの意思によるところが大きいから」
ルナは黙り込んでしまった。
月の子はテーブルに紅茶を出し、ルナの前にティーカップを置いた。
「まあ、これでも飲んでよ。君が悩んだところで答えは出ないから、お茶でも飲んで落ち着いて」
「はい」
ルナは紅茶をゆっくりと一口飲んだ。
「あら、美味しい。アールグレイね。私、アールグレイが大好きですの」
「それは良かった。ミルクと砂糖、使う?」
「いえ、ストレートで頂きます」
紅茶が反射したルナの顔は、どこか懐かしんでいるような表情だった。
「君の前にね、リディアとアリスとフィオラがここに来ていたんだよ」
「魔女さん達が? あらあら、私も混ざりたかったわ。そうすれば、思い出話に花が咲いたでしょうね」
「……また、いつか会えるよ。さあ、気分は落ち着いた? あの扉の先に、天国と呼ばれるところがあるよ。行っておいで」
月の子が指差した扉は、隙間から光を漏らして、ゆっくりと開いた。
「月の子さんとも、また会えますよね?」
「言ったでしょ。僕は月そのもの。だから、いつでも会えるよ。君が覚えていなくてもね」
「ありがとう」
ルナは扉のその先に足を進める。
それを月の子は扉が閉まるまでずっと見つめていた。
月の子は思う。
また退屈な日々がやって来ると。
でも、案外嫌いではない。
いろんな人に出会って、いろんな考え、想いを知ることが出来る。
神によって創られた偽物の月だとしても、自分にも感情や人を思いやる気持ちがあるんだと、信じて。
「寂しいな……」
ぽつりと呟いた言葉は真っ白な空間によく響いて、でも、誰にも聞かれずに消えた。
何人もの人間の声があったはずの、生と死の間。
月の子は、これからも人が生まれ、死んでいく過程を見守り続けるだろう。
それが、決められた運命なのだから。
「アリス、フィオラ、リディア、ルナ……。君達は、幸せだった?」
扉の先に、問いかける。
答えは、勿論ない。
月の子はふと背後を見ると、新たな死人がやって来た。
「ようこそ、旅人さん。君は魔女狩りから逃げられたのに、仕事でヘマしてうっかり死んでしまったんだね。ここは生と死の間。まあ、ゆっくりしていってよ」
深くお辞儀をし、月の子はにこりと笑う。
「……私、死んだの? 妹達は? ねえ、どうなったの」
魔女は取り乱した様子で、とても月の子の言うことなど聞きそうもない。
「落ち着いて。まずはソファーに座って。紅茶、アッサムでいい? それともハーブティーが良いかなあ」
月の子の手慣れた言葉に、素直に魔女は応じた。
「ハーブティーが飲みたい。カモミールティー。死ぬ直前まで、妹達と飲んでたの……」
魔女は手で顔を覆って涙を流した。
それはどんな宝石よりも綺麗で、月の子は切ない表情を浮かべた。
そして気がつく、人間らしい気持ちが芽生え始めていることに。
声に出して言うことはないけれど、月の子は今まで会った人達と、これから来る人達に心で「ありがとう」と言った。
気がつけば、白い空間に月の子が一人で立っていた。
それが切なくて、孤独で、虚しくて……。
すっかり人間のようになってしまったと、自分を嘲笑った。