遠くから、いや、そんなに遠くはない。だが、近くもないところから魔女達を処刑しようとする聖職者達の声が聞こえた。
アリスとリディアは家で身を潜めていたが、徐々に近づいてくる足音に、仲間の悲痛な叫び声に、もうここもダメなのだと悟った。
「アリス、行くよ」
リディアはアリスの手を引いて、森へと飛び出し、赤くなっていく森を背に走り出した。
灯りなんて点けられない。自分の今までの経験、勘だけが頼りだった。
「居たか?」
「いや、こっちには居なかった」
「魔女は皆根絶やしにしろ」
ばたばたと忙しなく足音がする。
アリスとリディアは、いつも通っていた教会に隠れていた。
震える手を、足を、小さく縮ませて。
不意に、聞いたことのある声が聞こえてきた。
間違いない。この声は……。
「お願いします! こんなことやめてください!」
――ルナだ。
「しっかりなさい。シスタールナ。魔女が存在していたら、私達が困るんです。魔女は悪魔の手先なんですよ!」
「そんなことありません! 心優しい魔女だって存在します! 私達と同じ、人間なんですよ」
乾いた音が響いた。
それは恐らく、ルナが叩かれた音だろう。
二人は耳を澄ます。
「その考えが変わらないというのなら、あなたはシスター失格です。あなたも、魔女に魅せられた魔物です!」
「待って、シスター。シスター! ああ、女神様……っ!」
シスターは教会の外に出て行った。
ルナは女神像を前に十字を切り、膝を折った。
「ダメだよ、アリス。絶対に気づかれてはいけない」
小声でリディアがアリスにそう言った。
「大丈夫だよ。リディア姉さん」
アリスはルナの前に姿を現した。
「アリス、さん……」
アリスがルナに一歩近づくと、ルナは一歩下がる。
「ルナさん。大丈夫だよ」
「私、最低なことを。まさか、こんなことになるなんて、思ってなくて」
ルナはぽろぽろと涙を流した。
赤くなった左頬が痛々しい。
「ルナさん、私達、行くところがないんだ。しばらく、ここに居させてくれるかな。そして、どうしてこうなったのか、教えてほしいな」
「……はい。勿論。ここに居てくださって構いません。多分、追手は来ないでしょうし。何があったのかも、お教えします」
二人は頷き合った。
隠れていたリディアも、この二人を見て、仕方ないかと溜め息をひとつ吐いて二人の前に出た。
「やあ」
それは敵意のない証拠だった。
女神像を前に、三人は床に座り込んで話していた。
「つまり、ルナさんは魔女は悪くないから差別しないでって、本部に連絡を入れちゃったんだね」
「……そうです。本当に浅はかでした」
ルナが本部に電話をしていたのは、魔女を異端視する差別的な聖職者の考えを変えようとしたからだった。
まだ十四歳のルナの言葉は、他の聖職者達には全く届かなかった。
ただ、それだけならよかったのだが、魔女が潜伏している街、教会が特定されてしまったのだ。
そして、聖職者達は魔女達が集まる日に魔女狩りを決行した。
「あれ、待って。ルナさん、魔女の集会の日なんて知ってるの?」
「いえ、私ではなく、言い辛いですが……その、魔女の方が内通を」
ルナはゆっくりと目を伏せた。
そこへリディアがこう口を挟む。
「その魔女って、フィオラって名前じゃない? 髪と目が銀色で、黒いパーカーを着た魔女」
「記憶の限りでは、確かそのような姿だった気も……。でも、はっきりとは申し上げられません」
「リディア姉さん! フィオラが内通者だなんて、なんでそんな悲しいことを言うの」
「はあ……。こんなこと言ったら、アリスが悲しむだろうと思って言わなかったけど、確かなものだったんだよ。――プティって子、いただろ」
「え」
プティ。忘れるはずもない。
悪魔憑きだと思われていた心の読める少年の魔女だ。
「この前、別の街のホームでプティがやって来て、私にこっそり教えてくれたんだよ。フィオラは、裏切るつもりだよって」
アリスには信じられなかった。
まさか自分の妹が、そんなことをするなんて。
何度言われても、何を言われても、信じられる気がしなかった。
フィオラを信じたいアリスは、壊れそうになる自分の心を必死に抑えつけた。
これは嘘だ。皆が私を騙してる。そう、思い込もうとした。
しかし、そこへよく聞き慣れた声が聞こえる。
「お姉ちゃん達、見ぃつけた」
月の光と炎を背に、銀色の髪と目を持った裏切り者の魔女の姿がそこにはあった。
アリスは目を見開く。
ああ、なんということだ。現実ではないと誰か言ってほしい。
その日、街のほとんどの魔女が捕まった。
アリスとリディア、そしてルナも魔女として捕らえられた。
魔女は一人ずつ、狭くて冷たい牢屋に入れられる。
牢屋の奥からは、魔女の苦痛の声が聞こえる。
あ、拷問されるんだ。アリスはどこか他人事のように思えた。
「アリスお姉ちゃーん」
アリスの入っている牢屋の前で、フィオラがアリスを見下ろす。
「……フィオラ」
水も与えられず、乾いた咽喉から掠れた声がした。
「どうどう? どんな気分?」
フィオラは嬉々としてそう言う。
アリスが一瞬睨むとフィオラはびくりと肩を震わせた。しかし、アリスはすぐに睨むのをやめた。
「……。なんで睨むのやめちゃったの?」
「出来るわけないじゃない」
そう言ったアリスは、どこか悲痛な表情を浮かべていた。
「どういう意味?」
フィオラには理解が出来なかった。
「裏切られたとしても、あなたはただ一人の、私の妹なんだよ。本気でなんて恨めない。あの輝かしかった日々が、全て嘘だったなんて思えないの」
精一杯の微笑みを見せるアリスに、フィオラは低く唸るような声を発した。
「……んだよ」
「え?」
「昔から嫌いだったんだよ! あんたのそういうところ! 綺麗なところにいて、綺麗なことしか出来なくて、それが許されていて! あたしの気持ち、考えたことある? 惨めだったよ。辛かった。だって、ホームに行けばあんたもズルしてるんでしょって目で見られて、その度に傷ついて。あたし、頑張ったよ? 人を殺すことだって、平然とやった。でも、あんたは、そんなあたしのことも知らないで、裏切らないなんて綺麗事言っちゃってさ……。どんなに殺意を覚えたか」
「……他にも、ある?」
そんな言葉しか出なかったアリス。
フィオラは荒れた息を整え、牢屋の鍵を開けた。
「出来の悪い姉を持つと、苦労するね。逃げたいなら、勝手に逃げて。あたしは知らない。あんたなんか、勝手に野垂れ死ねばいい」
「……ありがとう」
フィオラは牢屋の前から動かない。
アリスはリディアを探し、ひとつひとつの牢屋を見て回った。
「は……、あぁ。アリスかい?」
一つの牢屋に、リディアが居た。
リディアは手足が自由だったアリスと違い、両手両足を鎖に繋がれ、酷い暴行を受けたと明らかにわかる肌の色をしていた。
「リディア姉さんっ!」
アリスはリディアの牢屋の柵の隙間から腕を伸ばした。
リディアはアリスの手にそっと触れると、アリスの背後を指差して笑った。
「私には、女神様のお迎えが来てるんだ。だから、一緒に行くことは出来ない」
「何を言って」
「これでようやく、やめられる。アリス、頼むよ。アリスだけでも、逃げて。お、願い……」
そしてリディアは気を失った。否、もう、息をしていない。
「リディア姉さん」
アリスは涙を零して、リディアの亡骸をしっかりと目に焼き付けてその場を去った。
再び森に戻り、残された数少ない魔女達を助けて回った。
しかし、アリスが逃げようとした時には全てが遅かった。
森の火の手がアリスを囲んだ。
煙に巻かれ、紅蓮の炎が迫る。
アリスは死にたくなどなかった。でも、もう生きて戻ることは出来ないだろう。
数多く捕まった牢屋にいる魔女達と共に、この世界を旅立つことになるのだ。
息が苦しい。熱い。
アリスは霞む視界で、最期に見たのは丸くて大きな月だった。
それが、逃げ場を失くしたアリスの死の瞬間だ。