「ねえ。アリスお姉ちゃんさ、人のこと、信じられる?」
どんよりとした雨模様の下、ホームになっているバーで、カウンターにアリスと並んで座っているフィオラが、突然そんなことを言い出した。アリスは「急にどうしたの」と不思議に思ってフィオラの横顔を見た。
フィオラは煙草の煙をふーっと吐き出して、横目でアリスをちらりと見る。
「あたしさ、人を信じられないんだよね」
そう言って、吸い終わった煙草の吸殻を灰皿に押し付け火を消した。
「アリスお姉ちゃんなら、知ってるでしょ。あの施設でママ様を信じるなんて、馬鹿みたいだってこと。……あたしは、一度信じて、裏切られて、もう一回信じて。そうやって何度も信じようとして、ある日気づいたんだ。もう、人を信じるのはやめようって」
アリスは何と答えればいいのかわからなくて、じっとフィオラを見る。
「勿論、アリスお姉ちゃんに拾われたことは感謝してる。でもさ、どこか、人を疑ってるんだよ。あたし。リディアお姉ちゃんのことも、マーシャさんのことも。あたし、もしかしたら一生誰かを信じるなんて出来ないかもしれない。イヒヒ。だから、あたしはあたしのことを信じてくれる人がいなくても平気」
「そんな、そんな悲しいことって」
「アリスお姉ちゃんが羨ましい。何で人を信じられるの。ただの他人だよ? なのに、まるで自分のことのように人を信じられるアリスお姉ちゃんが、あたしは、正直少し怖い」
「……」
目を伏せたフィオラは、低い声でくつくつと笑った。
「もしさ、あたしのこと信じられるなら、今、約束して。あたしを裏切らないって」
「そんな」
ああ、やっぱり。フィオラはそう思った。やはりアリスも他の人と同じなんだと。人間らしいところがあって、当然だと、少し安心した。だが、アリスは続けてこう言う。
「そんなの、当たり前じゃない。私はフィオラを信じる。絶対裏切らない。だって、あなたは私の大事な妹なんだもの」
「……綺麗事だね、アリスお姉ちゃんの言っていることは」
しばらく、間を置いてからフィオラは「はあ」と溜め息を吐いて、口を開いた。
「ありがとう。アリスお姉ちゃん。あたしもアリスお姉ちゃんを、裏切らない」
それに続く言葉を、フィオラは飲み込んだ。
「……ということがあったのだけれど、リディア姉さん、どう思う?」
「あー、難しいなあ。私にもフィオラの気持ちがさっぱりわからないよ」
リディアは座っているアリスの髪を結いながらそう答えた。
「だよねぇ。もしかして寂しいのかな……。ほら、フィオラって四年も魔女になれなかったって、未だに言うじゃない? 仲間外れにされたって、裏切られたように思ってるのかも」
「うーん、それもあるかもしれないけれど、なんだか、フィオラってアリスのことを特別視してるように思えるんだよね。私にはさ」
「確かに、私と一緒に居ることも多いし、そうかもしれないけれど……」
「いや、私が言いたいのはね、悪い意味でってこと」
「悪い意味?」
「はい、お団子頭の出来上がりっと。……悪い意味って言うのはね、たまに、アリスに対して凄く冷たい視線を送ってることがあるんだよ」
「え。そんなことあるの?」
アリスには信じられなかった。まさか、フィオラが自分のことをそんな目で見ていたなんて、思いもしなかったのだ。
「特に仕事の前後。私でも近づくのが怖いくらいの顔をしていたこともあるよ。まるで人形みたいな顔してね。笑いも泣きもしない、生き物としての温度がない顔をしてた」
「……」
リディアは頬杖をついて「フィオラとアリスのためを思うなら、離した方が良いのかもしれないねぇ」と言葉を零した。
「それはダメだよ!」
アリスは勢いよく立ち上がり、そう叫んだ。
「私の妹はフィオラだけ。それに、フィオラと約束したもの。裏切らないって。離れるってことは、姉妹として助けることが出来なくなっちゃうじゃない!」
「お、落ち着こう。ね、アリス。まずは座ろう。ほら、今お茶持ってきてあげるから」
「……うん」
アリスは椅子に座って手元を見た。
何を考えようとしても、フィオラの顔が過る。
嫌な想像をしては頭を横に振って別のことを考えるが、それでもフィオラがずっと思い浮かぶ。フィオラの笑顔が、ぼーっとした時の顔が、寝顔が。
そして気づく。あの子、この家に来てから、一度でも泣いたことがあっただろうか、と。
「ねえ、リディア姉さん。フィオラ、一回も泣いたり怒ったりしたこと、ないよね?」
「ん。そういや、そうだね。正式に魔女になる前も、ずっと泣いたりしたことなかった。ひょっとすると、心を見せまいとして我慢してるんじゃないかい」
「そうなのかな」
「それを言ったらアリスだって私の前で泣いたことないじゃないか」
「そうだっけ? でも、そうかも。リディア姉さんには、強い私を見てほしいから」
「フィオラもそうかもしれないよ。ま、本人に聞いても良いかもしれないけどね」
「うん。あ、お茶ありがとう」
「はいよ」
ハイビスカスティーを飲みながら、リディアとアリスはフィオラの帰りを待った。
フィオラは今、仕事で家を空けている。だから、今、二人はこんな話を出来るのだ。
それから少しして、玄関の扉が開いた。
「ただいま」
フィオラは黒いフードを被っていて、目元が見えない。
「おかえり、フィオラ」
アリスとリディアがそう言ってフィオラを迎える。
「……リディアお姉ちゃんとアリスお姉ちゃんは、今日、仕事あった?」
フィオラは二人に仕事があったのかと聞いた。二人は首を横に振り、否と答えた。
「二人共、ちゃんと仕事しないと、腕鈍るよ」
「そういう憎まれ口叩くな。文句ならマーシャに言いなよ。ホームからの仕事は、基本マーシャが仕切ってるんだから」
むっとしたリディアは、そう言って乱暴にティーカップにハイビスカスティーを入れてフィオラの前に置いた。
「まあまあ、落ち着いて。どうしたの、フィオラ。いつものフィオラらしくないよ」
そう。いつものフィオラなら、喧嘩を売るような言動はしない。下手な喧嘩は自分の価値を下げると、フィオラ自身が以前アリスに言ったことがあるのだ。
「綺麗なところだけ持って行きやがって……」
フィオラは小さく呟いた。だが、その声はアリスとリディアには届かなかった。
「え? なあに?」
フィオラは息を吸うと、フードを脱いでにこりと笑った。
「何でもないよ。アリスお姉ちゃん、リディアお姉ちゃん。ごめんね。あたし、仕事終わりでちょっとピリピリしちゃってたんだ。イヒヒ。申し訳ない」
「なんだ。そうだったの。きっとお仕事が大変だったんだね。お疲れ様」
「お風呂沸いてるよ。入っておいで」
「お茶飲んでから入るよ。ありがとう。アリスお姉ちゃん、リディアお姉ちゃん。あ、そうだアリスお姉ちゃん」
「うん?」
フィオラはアリスの耳元でこう囁いた。
「あたしを裏切らないって約束してくれて、ありがとう」
「うん」
アリスを抱き締めるフィオラ。
その顔は、アリスには見えなかった。
次の日、アリスは久しぶりに教会へ向かっていた。
リディアには止められていたが、どうしても女神に毎日の感謝を伝えに行きたかったのだ。
支度をし、ルナが管理している教会へ行くと、何故かフィオラが道の途中に居た。
「フィオラ! どうしたの? どこかへ遊びに行くの?」
「イヒヒ、そんなところ。アリスお姉ちゃんは?」
「私は……、その……」
アリスは言えなかった。これから教会に行くと言ったら、魔女でいられなくなってしまうかもしれないと思ったからだ。
「イヒヒ。言えないんだ。ま、いいけどね。じゃ、あたしは街に用があるから。今度その秘密の場所にでも連れてって。ね、アリスお姉ちゃん。じゃあね」
大きく腕を振って、フィオラはアリスを通り越していった。
教会に着くと、門が開いていて、中に聖職者が居ることがわかった。
きっとルナだろう。そう思って顔を出すと、やはりルナが居て、アリスは久々に会えた喜びから、笑顔で挨拶をした。
「ルナさん! こんにちは!」
「……アリスさん! お久しぶりです。良かった。魔女狩りにでも遭ってるのかと思って、ちょっと怖かったんです」
「まさか。私、そんなヘマしませんから」
「ふふふ。そうですね。だってリディアさんがいらっしゃいますものね」
アリスはのほほんとしたルナに安心し、話しもそこそこに、女神に祈りを捧げる。
そしてアリスの背中を、ルナはずっと見ていた。
太陽が沈む頃、ルナは教会に備え付けられている電話のダイヤルを回した。
「もしもし。教会本部でしょうか。私、ルナと申します――」