聖者の街に唯一存在する、教会が運営する孤児院。
そこでは必ず周りから浮いてしまう子が出てしまう。
鏡アリスという少女は、正にその通りの子供だった。
決められた服装、ロザリオ……。
周りとは違う、黒い髪、黒い瞳。
皆がアリスを避けて通った。
挨拶すら交わさない。
「アリス! あなたはどうしていつもロザリオを手放すの!」
その日は偶々ロザリオをするのを忘れていた。施設のママはそれを知るや否や、アリスの髪を引っ張り、廊下へと引きずり出した。
そしてゴミでも捨てるかのようにアリスの体を放り投げる。
「そこで反省していなさい」
ロザリオを半ば強制的に手に握らされた。
「……はい。ママ様。ありがとうございます」
アリスは心の中で思った。今日は廊下で座っていればいい。痛い目には遭わないで済む、と。
膝を抱えて、凍える寒さの中、廊下で一人座っていた。
いつものことだ。もう慣れている。そう自分に言い聞かせ、流れる涙ももうない瞳に、影を落とした。
そんな毎日が続いたある年の冬のことである。
アリスは理由もなく孤児院の外に裸足で出され、立っているようにママから命令されたのだ。
凍える体。早く、建物の中に入れてほしい。そう願ったが、孤児院への門は固く閉ざされていた。
「はあ……」
凍る息に、赤くなった手。ああ、愛されてないんだな。そう確信した。
そこへ雪を踏みしめる音がして、アリスの目の前に見知らぬ女性がアリスの目線までしゃがんでアリスに話しかけた。
「こんにちは。君、今日はどうしたの? 施設から追い出されちゃった?」
「……言えないよ。言ったらママ様に怒られる」
「大丈夫だよ。見てご覧。ママ様だっていつまでも監視なんてしてないからさ」
教会と孤児院を指差してからその人は、黒い上着から封筒をアリスに差し出した。
「君、魔力持っているから、これ招待状ね」
「招待状?」
その人はにこりと笑った。
「魔女にならない?」
アリスは考えた。魔女になって何の得になるのだろう、と。そして、そんなことをしたらママ様に怒られるのではないかと思ったのだ。
「でも、私、魔女になったらママ様に何されるか……」
「大丈夫大丈夫。むしろ金食い虫が一人減ってラッキーくらいに思うだろうからさ」
その人は上着からジッポライターと煙草を取り出した。
「ちょっと吸うよ」と言って、煙草を吸い始める。アリスはその煙をじっと見つめていた。
「これね、煙草って言うの」
「……ママ様が言ってた。煙草、吸ってるのは魔女みたいな人だって。身体の害になるって」
「私、魔女だし。まあ、確かに害になるけどさ」
アリスはやっぱりと、心で思った。魔女の招待状なんて、魔女以外が持っていたら可笑しな話だ。
「私もね、この施設出身なの。ママ様が怖くて怖くてね。よく君みたいに、施設の門の外で立たされたもんだよ。……もし、この施設を出たいなら、招待状受け取って。施設はこっそり出ればいい。待ってるよ」
その人は目深に被ったフードから僅かに見える紅い瞳でアリスを見て、その場を立ち去った。
アリスは手元にある招待状を開け、中身を見る。そこには「満月の晩二時に、酒場にて赤い薔薇を注文し、ホームへ来られたし」と書いてあった。
不安、嬉しさ。複雑な感情がアリスを襲った。
そしてママに見つからないように、ポケットに入れ、自分の手を見つめる。
「私に、魔力があるんだ……」
施設を出られるだろうか。いや、施設を出て、生きていけるだろうか。
「魔女になれば、答えは出るのかな」
凍える寒さの中、アリスは答えの出ないことを考えてずっと立っていた。
アリスが再び移設の中に入れたのは一時間後だった。
「さあ、女神様に祈りを捧げましょう」
決められた祈りの時間、そして粗末な食事。
パンを一つと、牛乳を一杯。それが毎日の食事内容だ。
おかずなんてない。ただ義務的に与えられる、最低限の食事。
祈りを捧げ終えると、皆、冷たくなったご飯を食べる。
この施設の子供達は温かい食事なんて、ずっと食べていないのだ。
豪華な食事を食べられるのは、女神様の生誕祭の日か、外部から人がやって来る日に限られている。
それでも、食べられないよりはずっとマシだ。
他にも、惨めな想いをしている子供なんてたくさんいる。生きられない子供がいる。そうやって、自分に言い聞かせて施設の子供達は表面上、穏やかに見えるように過ごしていた。
アリス達は教育をまともに受けずに育った。
施設は教育する場所ではない。一時的に預かるだけだと、その姿勢を崩すことなく存在していたのだ。
ただ、聖書を読むための最低限の文字の読み書きだけは出来るように、ママ以外の外部のシスター達が教えている。
こんな施設でも、街の決めた指定子供保護施設なのだ。
アリスは思う。こんな施設、出て行って魔女になった方が良いんじゃないかと。
だが、何度も思うのだ。
本当に、この施設を出て生きていけるのだろうかと。
アリスの世界はとても狭い。この施設の世界しか知らないのだ。街に出たことだって、数少ない。
ポケットから招待状を出して、じっと見つめる。
特別な招待状。私のためだけの……。そう思うと、アリスは嬉しくなって、ふんわりと笑みを浮かべた。
満月まで、あと何日だろう。
そう思ってカレンダーを見てみると、満月になる日は三日後だった。
一度だけ、行ってみるくらいなら、きっと大丈夫。嫌だったら、断ってしまえばいい。
アリスの心臓はどくりと大きく脈を打った。
その日、アリスは夢を見た。
女神像が血の涙を流すという夢を。
夢の中のママはそれを見て、アリスに酷いことをする。
「悪魔の子!」
ママはそう言って、アリスの長い黒髪を引っ張って外に連れ出された。
そして薔薇の花壇に放り投げられ、棘がアリスの体を刺した。
アリスが飛び起きると、朝日が昇っていて、もうすぐ礼拝の時間だった。
「ちょっとあんた! 早く来てよ! また私達まで怒られちゃうでしょ!」
ルームメイトのなんとなく存在していることしかわからない、節点の少ない子がアリスに向かってそう言った。
アリスは「あんた」と呼ばれるのが嫌いだ。だから、今回も少なからず嫌な気分になった。
「あんた」は、アリスにとってアリスを捨てた継母だった人のアリスの呼び方だったからだ。
「……行かなきゃ」
アリスは寝間着を脱いで、施設の指定の服に袖を通す。
まるで手術着のようで、アリスはこの服が好きではない。
そして部屋から出ようとしてアリスは気づく。ロザリオを首から提げるのを忘れていたと。
ロザリオを忘れると、また昨日みたいに外に出される。
それは避けたい。
皮紐に通された十字架のひんやりとした冷たさが、鎖骨を滑る。
そしてポケットに招待状を入れた。
誰にも知られてはいけない秘密だから。
アリスは礼拝堂に走った。
今日は、穏やかに過ごせるようにと願いながら。