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第九十二章 ハヤシライスと琴。

☆第九十二章 ハヤシライスと琴。


 秋の心地よい風が吹いている。杏を保育園に迎えにいった帰り道、街路樹の葉は少しずつ色づきはじめるこの季節。日は短いが、暑くも寒くもなくて過ごしやすい……はずなのに、わたしの心にはぽっかり穴が空いていた。


 あき婆を亡くしたこと、そして、波琉ちゃんを里子にしようなんて甘い考えだった自分が愚かに思える。奈良の片田舎で平凡に育ったわたしなんかには計り知れない。

 虐待を受けて育った子ども、親を亡くした子ども、いったいどんな気持ちで日々を過ごしているのだろうか。


 家に帰るとみんなが集合していた。みんなとは、麗奈、星弥くん、環名ちゃん、藪内さんだ。今日は金曜日。


そういえば……、そういえばで片付けるのも失礼だが、あのあと、環名ちゃんと前澤さんは定期的にご飯を食べに行ったりしているそうだ。


「あ、そ……そのー。恋人関係は?」


 こそっと聞いてみると、「うーん向こうには告白されているんですけど」と平然と言う環名ちゃん。さすが、肝がすわってるというか。


「返事は?」

「現在、考え中です」


 わたしが接している限りだが、前澤さんはとても誠実で紳士的な人だと思う。環名ちゃんとの仲がうまくいけばいいなぁ……なんて密かに思っているが、すべては当人同士の問題である。


 お腹がすっかり大きくなった麗奈は妊娠十ヶ月に入る。


「ふー、おもたいおもたい」

「懐かしいな。十ヶ月とか超重いよね」

「ほんとほんと。早く出てきてほしいなぁ」


 星弥くんは、すっかりお兄ちゃんになってきた。背が伸びて足がスラリ。顔はイケメン。こりゃ小学校に行ったらモテるんじゃなかろうか。弟の誕生を楽しみにしているらしい。


「ねぇ、琴ちゃん、この匂いって……」

「ああ、ハヤシライス」

「だよねぇ。もしかしてあき婆の……?」

「そうだよ」


 今日はあき婆のエンディングノートに載っていたハヤシライスを作った。


「琴ちゃん!」

 突然、麗奈がわたしの両手を掴んだ。

「ど、どうしたの?」

「このハヤシライス、ある人に食べてもらいたいんだ!」


 麗奈の話では行登さんが勤めている病院の小児がんの患者さんがあき婆のことを知っているそうだ。

「その子は今、中学一年生なんだけど、小さい頃に食べたあき婆の料理の味が忘れられないって……」

「わたしはあき婆じゃないから、味がどうかな……」


 保健師の仕事は産休でお休み中だ。


「うん、美味しい」

「あき婆の味だよ」

「嘘」

「本当ですよ」


 麗奈の話では、その子はがんで長いあいだ、入退院を繰り返しているらしい。


「今度の日曜日に一時帰宅するそうだから、持っていってもいいかな?」


 日曜日、タッパーに詰めたハヤシライスを持って電車に乗った。その子は麗奈の住むマンションの近隣に住んでいるらしい。

『古賀』という表札の至ってシンプルな建売住宅のインターホンを押すと、かわいらしい女の子が出てきた。


「わざわざすみません」

 その女の子のお母さんらしき女性もエプロン姿で出てきた。


「麗奈さーーん!」


 帽子を被っているが、かわいいパーカーを着た女の子。

「あ、はじめまして。わたしは前田琴と申します」


 わたしがそう自己紹介をして頭を下げると、女の子が、「琴!」と突然大きな声でわたしの名を呼んだ。

「こら、萌奈。人の名前を呼び捨てで」

 お母さんらしき人が頭を下げる。

「ほら、わたしね、箏曲部に所属しているの!」


 箏曲部とはお琴を弾く部活か。


「素敵な名前ですね! わたしは古賀萌奈こがもなと申します」


 萌奈ちゃんは病人とは思えないほどニコニコ笑顔で明るい。

「かわいい~! こんにちは!」


 わたしが連れてきた杏と麗奈が連れてきた星弥くんを見て、頭をなでなでする萌奈ちゃん。

「子ども大好きなんです~」

「あんたも子どもでしょう!」


 なんだかんだとツッコまれながら、家に上がらせてもらう。

 タッパーに詰めたハヤシライスをレンジでチンしてご飯にかけてもらった。


「おいし~☆そうそう、この味!」

 満面の笑みでハヤシライスを頬張る萌奈ちゃん。

「あんた、本当に味なんて覚えているの?」

「覚えているよ! 格別だったもん!」


 萌奈ちゃんのお母さん曰く、あき婆のレストランでハヤシライスを食べたのは萌奈ちゃんが七歳の時の話だという。


「そっかあ……あのおばあちゃん、亡くなってしまったんだね」


 本当にわたしが作ったハヤシライスであき婆の味を再現できているのかどうかはちょっと不安だ。


「あ、そういえば琴さん!」


 目がキラキラしている彼女は本当に純粋無垢な十二歳の女の子。ただ、わたしの腕を掴んだ彼女の腕は細かった。


「わたしは今入院中でいないけれど、箏曲部の顧問やってもらえないですか?」


 突然の申し出に思わず箸……じゃなくてスプーンが止まる。


「えっ、顧問⁉️」

「はい」

「これっ、萌奈。また無茶を言って」

「顧問って……学校の先生がやるのでは?」

「あ、今はほら、働き方改革で、先生の仕事を減らすために部活の顧問を外部委託するってのも大丈夫なんですよ」


 萌奈ちゃんはハヤシライスを頬張りながら、一生懸命話す。

「琴さん、わたしハマっている動画があって、Sprinting―Mっていうユニットで……」


 わたしは思わず麗奈と顔を合わせた。

「すごい、和楽器とね、ドラムとDJと異色のコラボで……」

「それ琴ちゃんのやつ」


 麗奈が思わず口を塞いだ。


「えっ?」

 萌奈ちゃんがわたしを見る。

「えっ、まさか……」

 どうしようか、言おうか誤魔化そうか。別に誤魔化す必要はないか、視聴者様がこんなところにいらっしゃった。


「あ、実はそれ、作っているのわたしで……」


 わたし、と言ってしまったが、正確には環名ちゃんが約八割な気がする。


「ええっ‼️ もしかして、もしかすると、琴さんってお琴弾けるんですよね?」


 わたしが麗奈の方を向くと、麗奈が「ごめん、話しちゃった」と舌を出す。

「え、あの音楽の琴は生演奏なんですか⁉️」


 萌奈ちゃんの興奮が止まらない。

「生演奏といっても実際はパソコンにとりこんで、なんだろう加工とか色々しているから……」

「あれ、すっごいカッコいいなって! 嘘~」


 こんなに喜んでいただけるとは、動画制作をしていてよかった。


「琴さんのお琴を実際聞いてみたいです!」


 また突然の萌奈ちゃんの申し出に驚く前に

「こら、萌奈!」

 と萌奈ちゃんのお母さん。

「あんたねぇ、ハヤシライスをご馳走になって、さらに部活の顧問をしてほしいだの、琴が聞きたいだの、わがまま言い過ぎですよ!」


 するとお母さんがこちらを向いて。


「すみません、本当に、好き勝手ばかり言って」


 と頭を下げる。


「いえ、とんでもないです。動画を拝見して頂いているみたいで本当に嬉しいです」


 今日、この家に琴を持ってくることはできるだろうか。


「あの……萌奈ちゃんの一時帰宅はいつまでですか?」

「明日の午前中には病院に帰らなければなりません」


「えーやだよ。また病院」


 表情が暗くなった萌奈ちゃんを見て、決心した。


「あの、差し支えがなければ、今から家まで帰って、その……十七弦箏っていう大きな琴は持ち運ぶのが大変なので大正琴だったら持ってこれます」


 わたしがそう言うと、萌奈ちゃんのお母さんが目を丸くして


「いえ、そんなわざわざ取りに行っていただくなんて」

「でも、せっかくの機会なので」


 人に聞かせられるほど、素敵な奏者だろうか。プロでも何でもない。だけど、一時帰宅の今のタイミングを逃したら次、いつになるかわからない。


 麗奈に萌奈ちゃんの家にいてもらう。杏と星弥くんを見てもらっている間に一人で自宅へ帰り、大正琴を持ってきた。


「大正琴って初めて見るんです」

「そう、部活では本物の琴を弾いているんだね?」

「はい」


 右手にピックを持って弦を弾く。緩やかな曲、明るい曲、テンポの早い曲もある。

動画に合わせてかなり無理をして弾いている。本来琴というのはそんなにアップテンポの曲を奏でる楽器ではない。随分とうまくなった。


 弾き終わると萌奈ちゃんが満面の笑みで拍手をしてくれた。


 帰り道、わたしは麗奈に尋ねる。

「萌奈ちゃんの、がんは治るの?」


 麗奈は微妙な顔をしている。

「どうだろう、わたしにはわからない」


 その答えはわたしの望んだ答えとは違う。あんな純粋で明るい子が

がんに負けるなんて信じられない。

「子どものパワーは未知の世界だから。私が看護師やってた時も、子どもってやっぱりすごいの。治らないと思っていた病気を治した子がたくさんいた。大人にはない力を持っているのかなって思ったよ」


 そう言いながら、麗奈は大きくなったお腹をさすった。

 あき婆の料理、そしてわたしの作った動画、お琴、すべてが繋がっている。わたしはただ、萌奈ちゃんが元気になることだけを祈った。


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