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第九十一章 実技試験の日に。

☆第九十一章 実技試験の日に。


 今日は、藪内さんの保育士実技試験の日だ。ピアノと読み聞かせ。両方何度も練習を重ねてきた。ピアノは上手とまでは言えないけれど、伴奏を弾きながら歌えるようになっていた。


 その日は土曜日で、杏と一緒に家にいると突然前澤さんから電話がかかってきた。


「例の女の子は保護されました」


 保護……つまり親戚の家でも結局虐待を受けて保護された。どうして誰も彼女を可愛がろうとしないのか理解に苦しむ。


「波琉ちゃんはどうなるのですか?」

「施設に入所するでしょうね。里親の申請なのですが……」


 前澤さんは苦い顔をした。


「通常の里親制度なら、基本その……資格が必要とかはないので。ただし、法的に養子縁組やそういった家族関係は結ばれない。つまり一時的な預かりという形になります。誤解されている方が多いですが、里親になるだけなら戸籍などは関係ないんです。だけどその認識はなかなか広まりません。里親になるイコール養子縁組をすると考えていらっしゃる方がとても多くて」


 そのあたりのことはネットで調べた。養育費も自治体から支給される。


「ただし、今回は養育里親ではなくて専門里親となります」

「え……」

「波琉さんは虐待を受けています。虐待、非行、精神的なケアなどが必要な子は専門里親になるので、養育里親としての経験が三年以上あるという条件がついてきます」

「では、今のわたしが里親になるのは……」

「残念ながら無理です」


 そうだったのか……。虐待を受けた子どもの心のケアは容易いことではない。わたしはまだまだ勉強不足だ。波琉ちゃんがどうか幸せな人生を送れるように願うことしかできない。

 それにしても、よりによって藪内さんの試験の日に。偶然だなぁ。


 藪内さんは、基本いつも穏やかで、温かい、ふんわりと優しい人だ。それがわたしが知っているすべてで、もしかしたら、わたしの知らない顔なんてのはあるのだろうか。


 人間、誰だって、長所も短所もあって当然だ。だけど今のところ藪内さんに短所らしきところが見当たらない。それは恋というフィルターを通して見ているからなのだろうか。

 よくあるパターンだ。付き合いはじめた頃の彼はとても優しくて堅実で真面目だったのに、付き合う年数が経つにつれて、だんだんだらしなくなる。相手のことを大切にしなくなるなどのケースは多い。特に結婚したら、なんか結婚前はこんな人だと思わなかったとか、一緒に生活するってなると、意外な一面が見えるようになったりする。


 若い頃は、結婚というものに憧れを抱いていた。


 ほんと単細胞というか、少女マンガの読みすぎというか……。純白のウエディングドレスを着て、大好きな人とバージンロードを歩く。好きな人との甘い新婚生活なんて夢を見ていた。学のことは好きだったけれど、冷静に考えてみればどこか冷めた人だったと思う。

 一緒に映画を見に行った時、わたしは感動して泣いていたけれど、学はふーんって感じで飄々としていたし、プロポーズも真顔で言われた。


 第三者の視点から見たら、顔はかっこいいけれど、無機質な男だったのだろう。でもわたしは恋のフィルターがかかっていたから、そんな無機質なんてどうでもいいって思っていた。


 藪内さんは……? 今わたしが知っているすべてが彼なのか。他の顔を持っているのか……。


 午後三時、スマホが鳴った。

「終わったよ」

「お疲れ様」

「どうだったか全然わからないけど、全力でやった」


 彼は彼の人生を進めようとしている。


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