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第九十章 赤とんぼ。

☆第九十章 赤とんぼ。


 いつもと変わらない朝だった。目が覚めると時計は六時五十分をさしていて、となりでは、杏がお腹を出して眠っていた。


 窓の外は晴れ。雲も少しあるけれど、お天気はいいはず。何の変哲もない平日の朝だけど、わたしは何か不思議な感覚がした。なんだろう……。閑静な住宅地だから日々やかましいことはないのだが、それにしても静かだ。静寂が秋の朝を包みこんでいる。静かだから不思議なのだろうか。


 電話がかかってきたのは八時過ぎだった。杏と一緒に朝ご飯を食べようとしていたところ。わたしはスマホを落としてしまった。かけてきたのは麗奈だった。



 目に浮かぶのは色とりどりの料理たち。サラダ、スープ、味噌汁、揚げ物、和物、中華料理にハンバーグ、フライドポテト。


 わたしはその日、杏を保育園に預けたあと、仕事を休んだ。麗奈も休んだ。環名ちゃんも藪内さんもみんな休み。


 あき婆は信じられないくらい安らかな顔をしていた。まるで眠っているとしか思えない。

昨日の夜、麗奈が何度電話をかけてもあき婆が出なくて、不審に思って朝、あき婆の様子を見に行ったそうだ。あき婆は自宅の布団の中で冷たくなっていた。


 警察を呼んで、あき婆は死亡が確定した。


 つい一週間前の披露宴での見事な料理、そして心に残るスピーチ。涙が溢れて止まらない。警察は就寝中に心臓が止まったのだろうと話す。


 何度救われただろうか。

 何度元気をもらっただろうか。


 どれだけたくさんの人に幸せを提供してきたのだろうか。


 葬儀は家族葬にした。あき婆が遺言書を残していたからだ。自分のエンディングノートを綴っていた。


『葬儀は最小限に、お花なんてたくさんいらない』


 あき婆の希望通り、葬儀は最小限で行うし、お花もたくさんは供えないことにした。しかし、その代わり、今まで作ってくれた料理の写真を現像したものをたくさん会場に貼った。棺桶の中にも山のように写真を入れた。この間の披露宴の料理やウェディングケーキの写真は大きく印刷した。


「ばーば、寝てるの?」

 杏が不思議そうにあき婆を見ていた。

「うん……寝てるのよ。もう起きないんだ」

「えー、あき婆、なんで起きないの?」


 星弥くんの不満そうな顔。ああ、みんなあき婆の作った料理、美味しかったよね。また食べたかったよね。


 あき婆はエンディングノートにあれこれ記載していた。自分が住んでいたアパートの部屋をどうするのか。遺骨をどうするのか、葬儀の資金をどこから出すのか。


 身寄りのない自分が突然亡くなった場合に、周りの者が困らないようにすべて書いているあたりがあき婆らしい。しかもエンディングノートの最後の方のページはすべてレシピ集になっていた。

 いつかあき婆のような美味しい料理が作れるだろうか。秘伝のレシピを見てそのとおりにやってみたところで、きっと彼女のような美しい料理は作れないのであろう。


 葬儀のあと、レシピ集に載っていたハヤシライスを作ってみた。コクがあって爽やかでまろやかなあき婆のハヤシライスはこんなレシピで作っていたのか……。当然市販のルーなどは使用していない。


 コトコト煮込む。ああ、お腹がすいてきた。

「師匠、何点ですか?」

 あき婆の遺影に向かって思わずそう尋ねた。


 七瀬 秋はその名の通り、秋生まれで、誕生日の僅か五日前に亡くなった。あと五日で八十歳だった。


 窓の外は夕焼け小焼け。都会には珍しい、赤とんぼが一匹空を舞っていた。


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