☆第八十八章 実技試験が近づいてきたが、わたしは葛藤している。
夏が終わりを迎えるころ、環名ちゃんのピアノレッスンの成果か、藪内さんは簡単な曲が弾けるようになっていた。実技試験では、ピアノを弾きながら歌も歌う。
「ちょうちょ~、ちょうちょ~、菜の花にとまれ」
藪内さんの歌声が事務所にこだまする。かわいい……。
「もうひとつの実技試験は紙芝居の朗読にしました」
町の図書館で借りてきた子ども用の紙芝居を一生懸命読む。
「もうちょっとそこ抑揚を!」
環名ちゃんとわたしがコーチみたいな感じで、アドバイスをする。
「すると狼は……ぶー! と息を吹き出しました!」
せっかくなので、休みの日に星弥くんと杏を前に披露してもらう。
星弥くんは二歳の頃、おとなしいなと思っていたが、随分やんちゃになってきていた。
「ぶあはははは! おじさん、おもしろーい!」
おじさん……。確かに星弥くんからすると藪内さんはおじさんだけど……。
麗奈が「こら、おじさんでなくてお兄さんでしょ!」とツッコミを入れる。
「本番で緊張しないかなぁ」
皆が帰ったあとの日曜日、いつも通り、わたしと杏と藪内さん。
「アガリ性?」
「うーん、あんまり人前でしゃべったことないから」
三人でいるのが当たり前になった日曜日の午後。杏はすっかり藪内さんに慣れた様子だ。まるで休日の親子のようだが、親子ではない。
藪内さんが杏をたかいたかーいすると、杏は大喜びだ。
「もっかい」
「え、もうちょっと腰が……」
杏のもっかいコールで何度もたかいたかいをする羽目になる。平和な日々の中でわたしは、前澤さんとの会話を思い出していた。
「それはつまり彼女を里子にとるってことですか?」
「それで彼女が幸せになれるのであれば、そうしたいです」
言ったことは嘘ではない。だけど、わたしは今、藪内さんと付き合っていて、この先どうなるのだろうか。結婚するのかしないのか。ずっと恋人関係のまま? もし、結婚するなら、杏を受け入れてくれるのだろうか? 有馬さんは星弥くんを養子として迎え入れた。
杏一人ならまだ可能性はあるけれど、それでさらに里子なんて、そんな話に了承してくれるとは思わない。いくら優しい藪内さんでも、どこの子かわからない子と一緒に暮らすなんてとんでもないだろう。
日本は里子の制度が受け入れられていない。血縁関係を重視する傾向にあるからだ。
ついこの間まで、わたしと麗奈は一緒に暮らしていた。当然血縁関係はない。そんな家庭がたくさんあってもいいんじゃないか。
一緒の家に暮らすのは、親子、夫婦、兄弟などじゃないとおかしい。なんてそんなことはない。同じ釜の飯を食っていればみんな家族……なんてわたしがそう思っても世間はそうじゃない。
前澤さんに助け出すなんて……何を大きいことを言っているんだ。自分はバカなんじゃないのか。やっぱりやめよう。人の人生を受け入れられるほど自分は大きくない。
わたしの不穏な表情に気づいたのか、藪内さんがどうしたの? と聞いてきた。
「あ、いえ何でもない」
そう答えると藪内さんがじっとわたしを見つめる。
「琴さんのこと、なんとなくわかってきました。そういう表情の時は何か考えてる時だって」
見破られている。わたしは藪内さんにすべてを告げた。
すると、藪内さんがわたしの手を握る。
「琴さんはきっと、どうしようもないお人好しなんですね」
そう言って、藪内さんが笑った。
「立派ですよ。考えているだけでも立派です」
「そうかな……」
「自分にもっと自信を持ってください」
さすがに、藪内さんがわたしと結婚するかもしれないから、みたいな話はできなかった。
「僕も、血の繋がらないメンバーと一緒に暮らしていたからわかりますよ。児童養護施設は、施設員が親のようなものです。正直、この人は信頼できるけどこの人はいまいちだなぁって、子どもと施設員にも相性がありますから。あとは兄弟がたくさんいるみたいだったかな。子どもたちがたくさんいて、みんなで遊んでいたからそんなに寂しくはなかったけれど、ただ、授業参観とかの時にああ、自分は施設の子なんだって思い知らされましたね」
「……親がほしいとは思わなかった」
「そうだね。ほしいと思ったことは何度かあるけれど」
藪内さんの手はいつも温かい。ぬくもりが伝わってくる。
「イベントの時とかは親がいてくれたらいいなって思ったよ。クリスマス、誕生日とか、小学校の運動会とか」
幼いころの藪内さんを思い浮かべる。
「でも一番大変なのは高校卒業の時かな。施設を出ていかなきゃならないから急に一人ぼちになるし、生活環境がガラリと変わってしまうから。要は、高校卒業するまでは代理の親と仲間たちに囲まれているけれど、卒業した途端、家族ゼロの状態になるからね」
「そうだよね……」
急に一人になったら寂しいに決まっている。
「その女の子を引き取りたいって気持ち、僕は反対はしないです」
意外にも藪内さんは反対しなかった。でもそれはわたしと一緒になる未来がないからなのか。そう思うと急に悲しくなってしまった。