☆第三十三章 大変だ!
それは昼下がりのことだった。仕事中のはずの麗奈から電話がかかってきた。
「はい」
「琴ちゃん‼️ 星弥そっちに行ってない⁉️」
いつものんびりニコニコの麗奈の焦った声にわたしも焦る。
「ど、どうしたの? 帰ってきてないけど」
「保育園の園庭から抜け出して行方不明らしいの!」
「ええっ⁉️」
そんなことあるのか。星弥くんが通っているのは至って普通の公立保育園で『まきば保育園』という。園庭は都会にしては広々としていて、園舎は二階建てだ。
「いま、保育園の方から電話があって、園の人たちが必死で探しているそうなんだけど……」
星弥くんはまだ三歳と四ヶ月だ。一人で歩いていたら、不審に思って周りの人が通報などするかもしれない。
「麗奈、落ち着いて。交番や警察署には連絡した?」
いつも麗奈に助けてもらってばかりいるので、今度は自分がしっかりしなくちゃ。
「あ、そうだ。交番!」
「麗奈、今どこにいるの?」
電話の向こうから車の音など環境音が聞こえるから外にいるみたいだ。
「保健所から出たところ。まだ数分前に連絡あったところだから」
「保育士さんはなんて言ってた?」
「午前の外あそびで、みんなで砂遊びや鬼ごっこをしていたそうなんだけれど、先生が二人体調不良で休んでいて、保育がいつもより手薄だったみたい。気付いた時にはいなくなっていたって……」
いなくなってからどれくらい時間が経っているのであろうか。今日は快晴だが当然冬なので寒い。風はないけれど気温は六度くらいだろうか。
わたしはまず、一番近い警察署に電話をかける。
「もしもし、前田と申します。高田星弥くんという三歳の男の子を―――」
わからない。とのことだ。
警察が各派出所、つまり交番に問い合わせている。
黄色のトレーナーに黒のズボンをはいている。身長は九十五センチほど。靴は青色で保育園の帽子をかぶっているなら、赤の帽子をかぶっているそうだ。
まきば保育園の近隣は住宅街だ。特に何の変哲もない住宅が列をなしている。近くに児童公園がある。あとは……病院、クリーニング店、薬局、それに……。
わたしはまず、あき婆に電話をして呼び出した。
「ここにいりゃいいんだね」
「はい、もしかしたら星弥くんが帰ってくるかもしれないので」
「わかった。杏ちゃんはみておくから、琴さんも気をつけて」
スニーカーを履いて、防寒用に手袋をはめて外に出る。
保育園から抜け出した。どうやって? 園庭はフェンスで囲まれていたような気がする。
三歳児の足ならどの程度のところまで行けるだろか。児童公園をくまなく探す。……いない。クリーニング店で聞き込み、通行人で男の子を見かけたかどうか尋ねる。
ほんのりとした太陽が、頭の上に光っている。お昼だ。いくら晴れていてもずっと外にいたら身体が冷えてしまうであろう。
一人の警官が突然わたしに声をかけてきた。
「すみません。いま、迷子の子を探しておりまして。三歳の男の子なんですが―」
「あ、わたしはその子の……保護者みたいなもので、ちょうど探しています」
「あ、そうでしたか。あなたが高田さん?」
「えっと……高田じゃないですが」
星弥くんにとってわたしは何の関係になるのかわからないが、大切な家族だ。
「一緒に暮らしている家族です」
お腹すいてないかな。泣いてないかな。震えていないかな。
星弥くん、どこにいるの? みんな心配しているよ……。
わたしは元麗奈が住んでいたアパートに向かった。もしかしたら昔の家が恋しくなったとか……いや、三歳の子だったら一週間前の出来事すら忘れているかもしれない。でも一縷の望みをかけて―――。
麗奈が元住んでいた部屋のベランダに洗濯物が干されていたので、新たな住人が住んでいるようだ。
麗奈から電話がかかってきた。
「どうしよう、見つからないって……」
麗奈の声が震えている。
必死で頭を使う。スマホで地図を開いた。子どもの足だからそんなに遠くへ行っていないであろうというのは単なる憶測でしかない。もしかしたらもっともっと遠くまで行ってしまったのかもしれない。
まさか……誰かに連れ去られた。そうだ、ストーカー……。
てっきり女を狙っていると勘違いしていたが、もしかしたら子どもを狙っていたのかもしれない。幼児虐待、痴女暴行。嫌な言葉が頭に思い浮かんで血の気がひいた。
星弥くんは男の子だけれど、男も女も関係なく好きな人は好きだ。
どうしようどうしよう。
その時、ある記憶が蘇った。
麗奈と星弥くんとわたしと杏で初夏のある日、散歩をしていた。
キャッチボールをしている少年たちがいて、暴投で、ボールが遥か彼方に飛んでいった。
星弥くんが、そのボールが気になったのか追いかける。
川べりの
「星弥、そんなところ入ったらダメ」
そう言って麗奈が葦の中へと入ってボールを取り出した。
その時に星弥くんが
「なんかある」
と言った。わたしと麗奈が星弥くんの指差す方を見ると小さなバッタが跳ねていた。
「バッタ、ああ、そろそろ夏も近づいてきたから虫さんたちもたくさん出てくるよねー」
なんて麗奈は言っていたけれど、しばらく星弥くんがその葦の生えたところをじっと見つめていた。あれは何を思って見つめていたのであろうか。わたしと麗奈はてっきりバッタが気になったと思っていたが、星弥くんの言うなんかある。は全然別のものなのかもしれない。
わたしは再びスマホを手にとって麗奈に電話をかけ、初夏の時の話をした。
「ああ、確かに……。何か後ろ髪をひかれるような感じだったね」
「行ってみよう」
走る。普段大した運動もしていないから息がきれるが、とにかく走った。
少しずつ天気が変わり、雲が空を覆い始めていた。
河川敷にやってきた。平日の昼間だということもあって、誰もいない。
そこへ
「琴ちゃん!」という声が聞こえた。
「麗奈!」
麗奈も息をきらしている。
大きく息を吸い込んだ。
「星弥――――――っ‼️‼️」
「星弥くーん‼️‼️」
声の限り呼ぶ。
かすかに葦が動いた気がした。ここだ……ボールが転がったところ。
「星弥の帽子‼️」
葦林の根本に赤色の帽子を見つけた。麗奈が縫い付けた消防車のワッペンがついている。星弥くんのものだ!
「星弥っ!」
「ママ……?」
微かな声が聞こえた。どこだ、どこから聞こえる⁉️
「ママぁ」
葦林の中をかき分ける。すると予想外のものがあった。
「なにこれ⁉️」
穴だ。マンホールの蓋をあけたような円柱状の穴が空いている。
「たすけて……」
星弥くんが中にいる!
「麗奈、わたし、消防に連絡する!」
慌ててスマホを取り出したら、勢い余ってスマホが転がる。
「どうしましたか?」
スマホを男の人が拾ってくれた。
「ありがとうございます。あとで説明します!」
悪いけれど男の人にかまっている場合ではない。119番通報で三歳の子が
穴にはまっているという旨を話す。
電話を切って我に返ると、そこには背の高い男の人がいた。
「す、すみません。緊急事態で……」
「事情はわかりました。どこの穴ですか?」
よくわからないけれど協力してくれるらしい。
「こちらです」
葦の中で麗奈は必死に星弥くんの名を呼びかけている。
「星弥っ! たすけるからね! 待ってて!」
「ママ、いたい」
痛いとはどこか怪我でもしているのだろうか⁉️ 穴の中が暗くてよく見えない。
「いたい、どこが痛い⁉️」
「あし……」
骨折でもしているのだろうか。とにかくわたしも星弥くんを励ます。
「星弥くん、かっこいい消防車が到着するから、待ってて!」
「星弥、動けないの?」
「うん……」
挟まっているのか底に落ちたのか。
男の人が背負っていたリュックから懐中電灯を取り出した。
「これ、使ってください!」
なぜ昼間に懐中電灯を持っているのか、そんなことは、いまはどうでもいい。
「お借りします!」
穴の中を照らすと、意外と深いようだ。チラリと何かが見える。
「かなり奥までいっているな」
男の人も覗き込んでいる。
レスキュー隊のサイレンの音が聞こえてきた。