☆第二十五章 ああ、わたしは無知なり。
その日の夜、また久しぶりにカイトの夢を見た。しばらく忘れていたのに。
会社からメールが殺到して、恐怖を感じていたパソコンはまだ段ボールの中にしまっていた。
「杏、思い切ってパソコンを買い替えよう!」
杏は何言っているの? という顔だ。
お金に余裕はないけれど、色々なことをリセットしたかった。
麗奈にその話をしたら、じゃあ杏ちゃんみとくし、次の土日にでも行ってきなよと言ってくれた。
電車に乗って、二駅。『セール開催中‼️』の真っ赤な旗がところ狭しと並ぶ、電器屋さん。
スーパーとドラッグストア以外の店に入るのは久しぶりだ。
土日なのに閑散としているのは気のせいか。このところ何でも物価が上がっているから気軽に家電を買い替えることもできない。
マッサージチェアのコーナーに数人が座っていた。体験オッケーなの? それとも勝手に座っているだけ? 現代人は皆おつかれのご様子。
パソコンコーナーで物色する。そもそもパソコンを買い替えて何をするのか。
大正琴、パソコン、なにかを配信しようかな。SNSかそれとも動画配信。
動画配信サイトで有名になって大儲けしている人は世の中にたくさんいるが、それはほんの僅かな確率だろうし、有名になれるほどのスキルは持ち合わせていない。
SNSでも副業紹介とか月収○万円とか怪しいのも色々送られてきたりするけれど、なんとなく、今住んでいる家の一階を利用したい。と考えていた。
事務所として誰かに貸すのもアリかな。と思ったが、子どもが泣くこともあるし、二階がリビングだと足音もドタドタうるさいのかもしれない。
それに、どこの職場に就職してもまた人間関係がつきまとうので、一般企業では働きたくないなぁ。と浮ついたことを考えたりもする。
もちろんいい人もいるだろう、困った人もいるだろう。ウサギや葉月のように二重人格で表ではニコニコしていても裏で陰口をたたくような輩もいるだろう。
今、麗奈と一緒に暮らしている環境が正直よすぎて、ちょっとぬるめの、三十八度くらいの温泉につかっているかのような、環境におぼれていたい気もする。甘いかな。世の中そんなに甘くない。
わたしがパソコン売り場で長時間ウロウロしていると店員さんが声をかけてきた。
「パソコンをお探しですか?」
かわいらしい、若い女の店員さんだった。
「あ、はい。すみません」
なぜか謝ってしまう。
「ノート型かデスクトップ型か、どのようなものをご希望で?」
「えっと……」
ノート型かデスクトップ型か、もはやそれすら決めていない。
「これなんてオススメですよ」
若い店員さんがさしたのは、デスクトップ型の大型モニターのパソコン。
お値段十八万円、高すぎる。
「持ち運びたい場合はノート型の軽量のものもございます」
どうしよう。安すぎるのもダメ、高すぎるのもダメ。持ち運ぶ……?
「ごめんなさい、一旦家族と話し合って検討します」と言ってそそくさと帰ってしまった。
ああ、小心者。
一番安くて五万円ほど、一番高くて二十二万円。
どうする、何する。優柔不断な自分が嫌になる。
商店街を歩いて、チラチラと店の入口付近を観察する。
『バイト募集 急募!』
『土日入れる方、大歓迎!』
『未経験者OK!』
かわいい喫茶店に定食屋、寿司屋、パン屋、コンビニ、クリーニング屋さん。
結局、何の収穫もないまま帰宅。
「おかえりー」
いい匂いがする。あれ……?
「じゃーん、今日はシェフを呼びました!」
まさかのあき婆が家にいた。机の上の料理が妙に豪華だ。
「こんにちは」
「おや、琴ちゃん。表情がよくなったね」
「ごめんね、メッセージ送ったんだけど」
わたしはカバンからスマホを出す。スマホも実は数日前に別の会社のものに替えた。
電話番号などを一層して、必要最低限以外のデータを抹消したのだ。
「ごめん、気づいてなかった」
「これから人を呼ぶ時は必ず事前に知らせるね」
麗奈はそう言うが、あき婆なら大歓迎である。
離婚したので色々な手続きが必要だった。苗字の変更に伴い、運転免許証の更新や
公的なものの名前も全部変えなくてはならなかったし、身体は重かったけれど無理やり動いていた。でも意外とそれがよかったのかもしれない。
梅雨でも雨が毎日降るわけでもない。晴れ間が差す日もある。
太陽光に当たるのはとてもいいこと。そして歩きまわっていて気分が少し晴れた。
貯金はそれなりにあるけれど、いつまでもうだうだしてられないのもわかっている。
夕食は、家庭の味を超えたカレーだった。美味しすぎた。夕食後に麗奈が
「そうだ、パソコン買うならわたしの友達が詳しいからさ、何か相談する?」
と尋ねる。
麗奈には何人友達がいるのであろうか。
「あ、でもまず目的を決めないと……」
「目的?」
今の時代、ネットもスマホで見られるし、メールなどのやり取りも動画サイトの閲覧も全部スマホでできる。
「動画の配信とかできるかな……」
自分が大正琴を演奏してそれを配信……いやいや、誰も見ないであろう。
みんなが見るもの、そして、人気がでるもの、興味が湧くもの。
わたしは引き出しからカレンダーの裏紙を出した。六月はもう終わった。
みんなが興味あるものをどんどん書き出していく。
『リカキン、おもちゃ動画、忙しいママのための時短料理法、雑学……』
星弥くんが不思議そうに見ている。
『V tuber、パラパラ漫画、アニメ……』
何ができる。何が。
「Vtuberって確かアニメーションのキャラクターみたいなやつだよね?」
麗奈はなんとなくしか知らないようだ。
「V tuberはもう時代遅れじゃないか?」
声を出したのは皿を洗っていたあき婆だった。
「え、知っているんですか?」
「もちろん」
御年七十七歳、あき婆は本当に何者なのか。
「流行っていたけどだんだん廃れてきたって感じやねぇ」
そうか、わたしは時代についていけていないのか。
「よし、やっぱり友達呼ぼう!」
「えっ、今から⁉️」
時計を見るともう夜の八時前である。
「大丈夫、彼女は一人暮らしだから。ちょうど今くらいに仕事が終わるんじゃないかな」
「まだ、カレー少し残っているよ」
「呼ばない方がいいかな? 迷惑?」
わたしは首をふる。
「じゃあ呼ぼう!」
三十分後、インターホンが鳴って麗奈の友達が現れたと思ったら、まさかの……。
「えっ⁉️ 電器屋さんの⁉️」
「あれ、お客様⁉️」
今日の昼間、電器屋で声をかけてきた若い女性ではないか! 偶然にも程がある。
「こんばんは」
「こんばんは」
とりあえず、挨拶。
「
「あ、前田琴ともうします」
またお辞儀。
「え、電器屋さんって……もしかして昼会ったの? ああ、そうか会う確率充分あるよね!」
「驚きました」
「わたしもです」
「ま、とにかく座ってちょうだい!」
あき婆は十分前くらいに帰った。
島崎さんは、身長は低めだけどつぶらな瞳で、まっすぐストレートな髪をポニーテールにしている。
「改めて紹介、わたしの友達、環名ちゃん。えっと、二十五歳だよね」
「ええ」
「環名ちゃんは音楽に詳しいし、動画配信とかしているよ」
そうか、それで呼んでくれたのか。でもなんだろう、ほんのちょっとだけ心がモヤモヤした。
麗奈はわたしの恩人且つ友人で、同居人でかけがえない存在だ。麗奈への独占欲みたいなものがいつの間にか芽生えていた。わたしだけが大切にされている、みたいな。
自分は何考えているんだ、恋人同士でもあるまい。
「音楽って、何されているんですか?」
「幼いころにピアノとバイオリンを習っていました」
「わ……」
ピアノはともかくバイオリンとはお嬢様なのだろうか。
「親が無理やり始めさせた感じですw でもピアノは今でもたまに弾くかな」
「すごいです」
「全然! 下手くそよ」
笑顔が素敵な子だ。
「今はもっぱらパソコンですけどね」
「だから電器屋さんで?」
「そうです。就職しちゃいました」
「パソコンで音楽つくれるんだよね?」
麗奈は、話しながらお風呂の準備をしている。星弥くんが、ちょっと眠そうだ。
「ごめん、なんか動き回ってて」
「いえ、こんな時間によかった?」
「むしろこっちが」
「土日は昼間、絶対出勤なので、夜くらいしか空いてなくて」
パソコンで音楽を作る。そうか、そういうことが出来るのはなんとなく知っている。
「ボーカロイドとか……」
「そうそう、よくご存知で。ボーカロイド以外でも、作曲が趣味なんです」
わたしは話についていけるだろうか。
「前田さんは、琴を弾けるとお聞きしました。すごい風流ですね」
風流なんてとんでもない。でも、自分の名前が琴なのだ。もっと練習して上手くなりたい。
「全然、あの下手で……」
「動画配信とかに興味があると麗奈に聞いたので」
興味があるというか、ただの視聴者で、動画の作成については無知そのものだ。
「えっと……なんか自宅でできる仕事とかあればいいなって思ったんですが、何も詳しくないのに甘い考えだなぁって。自分でもそう分かっているんですが……」
恥ずかしくなってきた。
「そうですね、仕事としてやるとなると根気がいると思います」
根気。今の自分にあるだろうか。
鬱病ってどういう状態になれば治ったと言えるのであろうか。数ヶ月前に比べて随分身体は軽くなってきたけれど、まだ、落ち込むこともある。
「最初は四苦八苦するかもしれませんが、人の心を掴むような動画が作れたら、徐々に閲覧数が増えて、広告収入が得られます」
人気者は数億円稼いでいると聞いた。
「人の心を掴む……」
「さっきの紙を見てもらったら?」
麗奈に促されて、カレンダーの裏紙を島崎さんに見てもらう。
「あー、なるほど。おもちゃ動画とか確かに今のお子さんはSametube大好きですよね」
Sametubeとは、世界を牛耳っている動画配信サイトである。
「子どもと若い人の心を掴むのが大事ですね」
「環名ちゃんはすごいんだよ。登録者数十万人超え」
「えっ⁉️」
「全然すごくないです。でもここまでなるのに時間はかかりました」
「見せてほしいです……」
「わかりました」
島崎さんが手持ちのカバンからタブレット端末を取り出した。
「こんな感じの動画を作っています」
それは、美しいアニメーションとゾクゾクするような音楽の動画だった。身体が震えるような重低音、流れていく背景、そして……。
「カッコいい……」
「V tuberも作りました。今のアニメーションの中にいたのがそうです」
「ええっ⁉️」
なんかイメージと全然違う。
「前田さんは、夏芽ミオをご存知ですよね?」
夏芽ミオとは世界中、一世風靡したボーカロイドキャラクターだ。
「はい、知ってます」
カイトのことも話してみようか。
「ああ、カイト知ってます。珍しい男性ですよね」
確かに世のV tuberの大半はなぜか知らないけれど女の子だ。
「夏芽ミオはV Tuberなんですか?」
「うーん、まあちょっと違うような気もしなくないけど、でも形にこだわらなくていいと思うんです。さっきのわたしの動画どうでした?」
「すごい音楽が身体全身を震わせるような感じで……、キャラクターもかっこいいなと」
「ありがとうございます。すごく嬉しいです!」
島崎さんが満面の笑みを浮かべる。
「そうですね。かわいい系、かっこいい系のキャラクターと音楽がミックスする。独自の世界観を醸し出す。って何カッコいいこと言っているんでしょうか……。でもその戦略でうまくいったので」
「さっきのアニメーション……背景もすごく綺麗でした。あれは誰が作成したんですか?」
「あ、プロに依頼しました」
「依頼?」
「はい、わたしはパソコンで音楽を作成するのは得意ですが、絵はそこまで上手ではありません。そこで思い切って、絵の部分はすべてプロにお任せしてみました」
「へぇぇ……」
その日は遅かったので、島崎さんは帰っていった。
何だか無知な自分が恥ずかしく思えた。