☆第二十三章 保健師、高田麗奈とスズキさん。
その日はなかなか眠れなかった。新居だからとかではなくて、これからのことを考えていた。仕事を辞めるということは当然、収入がなくなるということだ。
いくら、養育費をもらっていても、いくら家賃一万円でも、これから、のらりくらりと生きていくわけにもいかない。もちろん麗奈の収入に頼り続けるわけにもいかない。
これといった特技がない。絵はそんなにうまくないし、一流の大学を卒業したけれど、文学部ってのはビジネスに役に立つ勉強をあまりしない。
学は経営学部だったが、わたしは文学部だった。
文学部に入ったのは、特に理由がなくて、消去法でそうなった。
理学部、うーん、特に理数系ではない。工学部、同じく。
経営学部、何を経営する気なのか。農学部、さほど興味がなかった。情報コミュニケーション学部、新設された学部だが、あまり惹かれなかった。
将来の夢が決まっていたわけでもない。本当に自分って何もないんだな。幼いころ、家には祖母と祖父がいたが、祖父は琴が七歳の時に亡くなり、祖母は十三歳の頃に亡くなった。
そうだ。思い出したことがある。
わたしの名前は琴。この名は祖母がつけたんだった。おばあちゃんはお琴が好きだったので幼いころに教わった。
でも、そこまで考えて、お琴がちょっと弾ける(しかも年月が経っているから殆ど忘れている)くらいでビジネスにはならないであろう。
無難に、そのへんでパートタイムで働こうかな……。
「おっはよー」
時計を見ると六時四十分。麗奈は早起きだ。
「おはよ……」
「琴ちゃんって朝ニガテ?」
「うん……」
「そうなんだ、コーヒーいれるね」
麗奈が持っていたコーヒーメーカーからいい香りがする。
ついうっかりコーヒーを出してもらったけれど、自分でやらなくちゃ。
「ごめん、明日からは自分でやるね」
すると麗奈がキョトンとした顔をする。
「別にコーヒーいれるくらい、問題ナシ」
寝ぼけ
「こらっ、星弥! 早く食べないと保育園遅れるよ!」
星弥くんは相変わらず目が半分しか開いていない状態でヨーグルトを混ぜ混ぜし始める。
「混ぜるんじゃなくて食べるの!」
二歳児といえば、魔の二歳児とか怪獣とかなんとか言う。星弥くんはわたしが見る限り大人しい方だと思うが、そもそも他の二歳児とあまり触れ合った経験がない。
「ほら、星弥くん、あーん」
わたしがヨーグルトをすくって、口に運ぶと食べてくれた。
「あっ、こら星弥。もー甘えて」
「おいしいですか?」
「おいちー」
か、かわいい……。二歳児かわいいではないか。
「じゃあ、これも食べる?」
わたしが野菜スープをスプーンですくって口に持っていくと、プイッ。
「好き嫌いしないの!」
麗奈がパンをかじりながら怒る。
朝はドタバタしている。誰だってそうだろう。
「あの、わたしが星弥くんを保育園に送り届けたらどうかな?」
コーヒーを飲み終えた麗奈がまたキョトンとする。
「いいよ、全然気にしないで!」
随分、気をつかわせているような気がする。わたしにもできること、何かないだろうか。
「琴ちゃん、今日診察の日でしょ? 今日は自分のこと考えて、じゃあいってきまーす!」
麗奈は星弥くんを連れて疾風のごとく去っていった。
☆★☆★
「焦ることはないですよ」
女医の
「できることから少しずつやっていけばいいです」
「できること……」
薬を飲み始めて三ヶ月。まだ体が重い時もあるが、一時期に比べたら随分マシになったように思う。
受付で会計を済ませて外へ出ようとしたら、この間のスズキさんとすれ違った。
「あっ……」
「あ……」
向こうも気づいた。
杏は最近、情緒が安定してきたのか新生児の頃に比べるとあまり泣かなくなっていた。笑顔もたくさん見せてくれるし、ずりばいのスピードが少しずつアップしてきている。
「かわいい」
スズキさんが杏の顔を覗きこんでそう言ってくれる。
わたしは少しの間、クリニックに残って、スズキさんから名前を聞いた。
徒歩二十分くらいか。意外と近いみたいだ。
「へぇ、家わりと近いんですね」
クリニックであまり世間話をするのもどうかと思って、思い切って連絡先を聞こうかと思ったのだが、わたしは元々、引っ込み思案だ。
聞けないままサヨナラしてしまった。情けないな自分。
麗奈が帰ってくるまでに栄養満点の夕飯を作ろう。そう思ってスーパーへ向かう。
「やだーやだーやだー‼️」
お菓子売り場の床で寝転がっている女の子がいた。ああ、杏も今はまだ赤ちゃんだから抱っこ紐に大人しく入っていてくれているが、二、三歳になったらこうなるのだろうか。
「もー、
「おかし、かってかってかってーーーー‼️」
ん? この声は?
「鈴木さん……?」
困り果てている母親に声をかける。振り返ると、午前中会ったばかりの鈴木さんではないか。
「あっ、前田さん……」
若干気まずそうな顔をされた。
「すみません。通れないですよね。こら亜優実! いい加減にしなさい!」
「あ、大丈夫です。鈴木さんの声に似てるなぁと思って声をかけただけなので……」
この子か、母を困らせているという三歳の長女。手には女の子のイラストの書いたお菓子のパッケージ。
「前もそれ買ったでしょう!」
「ほしいーほしいー」
「もう、赤ちゃんじゃないんだから!」
鈴木さんが女の子の手から無理やり商品を取ると、ギャン泣きしはじめた。
「あーもうウルサイっ! わかったわよ、買うから‼️」
☆★☆★☆
公園で亜優実ちゃんが滑り台を滑っている。
「すみません、お見苦しいところを……」
「いえ、全然!」
亜優実ちゃんは幼稚園の制服姿のまま遊んでいるが、床に寝そべっていたのもあって、シャツが汚れている。
「いつになったらイヤイヤしなくなるんでしょうね……」
困り顔の鈴木さんに麗奈を紹介してみたくなった。
「あの、わたしの同居人が保健師なんですが、相談してみますか?」
「えっ?」
麗奈に許可をとって、夕飯に招待してみた。人様の家に住まわせてもらっているのに図々しいと思ったが、きっと麗奈はそんなこと気にしないタイプだと思う。それが甘えってやつだと知っている。
「こんにちはー!」
「こ、こんにちは……」
緊張した様子の鈴木さん。
「よかったら座ってください」
結局、夕飯用に買った材料は明日に置いておくことにして、今日はデリバリーを注文した。……明日はちゃんと作ろう。
「亜優実ちゃんっていうのね」
「あ、こら亜優実!」
亜優実ちゃんは星弥くん用のおもちゃ箱を漁っている。
「あ、うん気にしないで。男の子用のおもちゃばっかりだけど自由に使っていいよ」
さすがは麗奈。心が広い。
「すみません……」
星弥くんは、突然きた女の子に最初は呆然としていたが、すぐに納得したらしい。
「自分のおもちゃ箱を漁られているのに怒らないなんて、なんて素敵な息子さん」
「ああ、星弥はあんまり固執しないタイプ。ただ、宝物のこの消防車のおもちゃだけは他の誰にも触らせたくないみたい」
麗奈がそう言って、キッチン側に隠してあった消防車を見せると、星弥くんが喜んで受け取る。
「それより、鈴木さん。亜優実ちゃんの育児に悩んでいるとお聞きしました」
「ええ、もう強情でワガママで勝手でやることめちゃくちゃ……」
その時
「ギャー‼️」という声が。星弥くんだ。
見ると、亜優実ちゃんが星弥くんの宝物の消防車を持っている。
「こらっ、亜優実! それはお友達のたからものなの!」
「あ、鈴木さん」
麗奈は立ち上がって、まず星弥くんの元へ行く。
「星弥、おともだちが消防車、すてきだから気になるみたい。貸してあげてもいい?」
頬をふくらませた星弥くんが首を横にふる。
「ほんの少しの間だからね」
でもやっぱり首を横にふる。
今度は亜優実ちゃんの方を向く。
「亜優実ちゃん。星弥は他のおもちゃはいいけれど、この消防車さんはとってもとっても大事なんだって。返してもらうことはできる?」
「やだー‼️‼️‼️」
「こら、亜優実」
「と、まぁ子ども同士だとこういうことって多々とありますよね?」
麗奈が鈴木さんの方に視線をやる。
「本当にすみません、融通が効かない子で」
「それが当たり前ですよ。鈴木さん、隼くんはわたしが抱っこしたら泣きますか?」
「え?」
「わたしが抱っこしているので、その間、亜優実ちゃんとたくさん遊んであげてください」
麗奈が隼くんを抱っこする。鈴木さんは亜優実ちゃんの方へ向かう。
「亜優実ちゃん、今からママ独占ターイム!」
今度は星弥くんがうらやましそうな顔をして麗奈を見ている。
「ママー」
亜優実ちゃんは消防車のことを忘れてママにしがみつく。と同時に星弥くんも麗奈のエプロンの裾を引っ張る。
「あ、こちらのことは気にしないで、どうぞ」
一連の流れを見ていて、麗奈はすごいなって思う。
まず、子どもに話しかける時はしゃがみこんで、必ず同じ高さの目線でしっかり目を見て話している。声をたてて怒らない。
ママを独占できた亜優実ちゃんの表情はイキイキしている。
彼女は消防車に興味がなくなったのか後方にぽいと置かれていた。麗奈が黙ってそれを拾う。
「よく我慢できたね。えらい」
消防車を星弥くんに渡した麗奈は、星弥くんの頭をなでなでしている。
ご飯どころじゃないけれど、でもわたしは親の様子も子の様子もじっと見つめていた。
なるほど……。
「鈴木さん、亜優実ちゃん。そろそろご飯食べようか」
「ママー、これすごいね」
「ね、すごいね。さあ亜優実、ご飯の時間だって」
「今日は唐揚げだよ。亜優実ちゃんは何が好き?」
ダイニングテーブルにご機嫌で座る亜優実ちゃん。隣にママが座る。
「いちご!」
「いちご美味しいよね~。おばちゃんも好き♥」
「でもからあげもすき」
麗奈はすごい。亜優実ちゃんはご機嫌だ。
星弥くんが、麗奈のエプロンの裾を引っ張り続けている。
「星弥も唐揚げ好きだよね」
星弥くんは、悲しそうな顔をした。
よし、今度はわたしが……。
「あの、隼くん、わたしが抱っこしてもいいですか?」
「ええ、なんか任せっきりですみません」
麗奈から隼くんをパスしてもらい、抱っこすると杏より若干軽い。杏はというと、ずりばいが気に入ったのか、部屋を右往左往している。ナイスだ杏。
「ママ、からあげ食べさせて」
甘えた顔で、星弥くんが麗奈に訴える。
「いいよー♪」
みんなそうなんだ。子どもたちはママが大好きで、ママがほかの子にとられちゃうと悲しいんだね。兄弟姉妹がいる場合、当然ママは一人だからママの取り合い合戦が始まってしまうんだな。
「ありがとうございます」
鈴木さんが頭を下げた。
「いえいえ、亜優実ちゃん、ママのこと好き?」
「だいすきー♥」
唐揚げを口に頬張ったまま笑顔で答える亜優実ちゃん。
「下の子が産まれるとどうしても、上の子がヤキモチやくからね。当たり前のこと」
「そうですよね……」
「たまには下の子放っておくとか誰かに預けるとかして、お姉ちゃんとの時間もとってあげると、情緒が安定するかと」
「……私、怒ってばかりいました」
「怒りたくなる気持ちもわかるけどね」
杏もいつかそうなるのかな。わたしはもう離婚してしまったから今後、弟や妹が産まれることはないけれど、杏にも魔のイヤイヤ期や反抗期がやってくるんだろうな。覚悟しておこう。
鈴木さんと連絡先を交換して、その日は別れた。
「麗奈、尊敬するよ」
「え、そう? 私より星弥が偉いよ」
「そうだよね。星弥くん偉い!」
お風呂に入った星弥くんはウトウトしている。かわいい。
「表情が明るくなったね」
突然、麗奈にそう言われた。
「え?」
「最初に会った頃よりずいぶんと明るい顔になった」
麗奈が歯を見せて笑った。
「そうかな?」
「そうだよー」
病気がよくなってきているのかな。
「よし、今日は、寝よう!」
「そうだね、ありがとう麗奈」
「なんかしたっけ?」
いい友達に巡り会えた自分は幸せものだ。