☆第二十二章 ちょっといまから仕事やめようと思います。
新しい生活がスタートしたが、とにかく忙しかった。梱包したものを段ボールから引っ張り出して、使える状態にする。
だんだん家らしくなってきた。
十六畳あるリビングルームがとても広くて、ずりばいを始めた杏があちこち探索している。星弥くんは広い家に大興奮で走り回る。
テレビ、パソコン、ダイニングテーブルと椅子は新しいものに新調した。小さな本棚、おもちゃ箱、衣類ケース、食器と鍋とその他もろもろ。
学の荷物は学が後々まとめて運び出すとのことだったので。ベビーベッドもテディベアも置いてきた。
リビングのカーテンは明るい色にしようという麗奈の提案で、黄色のチェック柄にした。
麗奈も今まで住んでいたアパートを引き払ったが、冷蔵庫も洗濯機も二個もいらないので、それらは廃棄した。
とにかくやることはたくさんあった。離婚すれば、名前が旧姓に戻るので、公的手続きもしなければならなかった。
やることがたくさんあるのに、鬱病ってのは朝が辛い。布団から起き上がろうとしても体が重くてなかなか起き上がれない。とにかく朝陽をしっかり浴びる方がいいとの助言で、重たい体をひきずってベランダに出て朝陽を浴びた。
しかし、すぐに梅雨が到来したので、じめじめと曇りの日が続く。
麗奈は保健師の仕事があるので平日は仕事だし、その間わたしは杏と二人でぼーっとしたり、散歩に行ったりしていた。
いい加減、会社を辞めますって言わなくちゃ。
電話をすればいい。だが、ダイヤルする勇気がない。
「最近さぁ、退職代行ってのがあるよね?」
麗奈が夕飯の時にそんなことを言っていた。
「退職代行?」
「知らないの? 自分以外の人が会社を辞める手続きをしてくれるサービス」
世の中、本当にいろんなサービスがあるもんだ。
「いい、自分で言う。ただ……」
「ただ?」
「ごめん、電話だけかけてくれない?」
麗奈にスマホを渡してダイヤルしてもらう。午後六時半なので事務員は帰宅しているはず。
「あ、失礼します。私、そちらの商品開発部、主任、早乙女琴の身内のものです。はい、あ、彼女ですか? あ、実はいま彼女は入院しておりまして」
麗奈が突然そんなことを言い出す。ええ? 入院?
「彼女の病状が重いので代理で電話させて頂きました」
ダメだ。また彼女の世話になってしまう。自分で言おう。わたしは麗奈の背中を指でツンツンする。ジェスチャーで、話す動作をする。
「あ、彼女がいまなら話せるそうなので、代わります」
「早乙女です」
離婚したことを会社の人は知らないので、こちらで名乗る。
「あ、部長の飯田です」
部長か。あのバス停で、育児休暇をとることは迷惑かという問いに、ハッキリ「はい」と答えたことは忘れない。
「すみません、あの……体調不良で、退職したいと願います」
しばらく間があいた。
「退職? ええと休職ではなくて?」
「はい……」
「……。わかりました。差し支えなければ何の病気なのか教えて」
「えっ」
鬱病です。って答えるべきか。
「すみません、精神疾患で……」
「ほう……」
意外だな。と言いたそうな感じだろうか。
「皆、きみの復帰を願っているよ」
部長にそう言われたが、本当だろうか。復帰を願っているのは、例えば汐留葉月が仕事を押し付けるため。ウサギが楽をするため。
「申し訳ありません」
「そうか……」
冷や汗をかく。
「わかりました。残念です。後日、事務の方から書類を送ってもらうのでそれを書いて返却してください」
そう言って電話が切れた。あれ、これだけ? もっと手続きとか何とか……。
ぽんっと肩を叩かれた。
「お疲れ様」
ほっとしたような悲しいような。