☆第二十章 春が終わって夏がくる。
爽やかな風が吹き抜ける。ベビーカーに座っている杏はご機嫌で、「あー」とか「ばー」とか時々声を出す。
「杏ちゃん、ほらチョウチョ!」
麗奈が指差す方向に一匹のアゲハ蝶。
星弥くんは、向かい側から来た柴犬に釘付けだ。
「わんわん」
「ねー、わんわん可愛いね」
河川敷のタンポポは白い綿毛になっていて、少し暑いくらいだ。
5月も終わろうとする日曜日、麗奈と一緒に散歩していた。
麗奈は何も言わなかった。離婚についても、仕事についても、何も。
わたしは取り残された部屋から引っ越すことにした。杏と二人きりで暮らすとなれば、家賃が高すぎる。
そして不思議なことがあった。
離婚した日くらいから、なぜか、会社からのメールが急に途絶えた。
こちらがずっと返信をしていなかったから、ついに諦めたのか。
「ばいばーい」
柴犬をなでなでしていた星弥くんだが、ずっと触らして頂くわけにもいかないので、飼い主にお礼を言った。星弥くんは去っていく柴犬の姿が気になるのかチラチラと振り返る。
「麗奈」
「ん、なあに?」
「わたし、会社辞めようかな」
風が吹いて、タンポポの綿毛が一斉に舞い上がった。
「琴ちゃんがそう決めたなら」
「でも、収入がなくなって、杏と二人で大丈夫かな?」
「何か別の仕事を探すの?」
「……どうしよう」
考えなくてはいけないことは山のようにある。まずは引っ越すなら引っ越すで、新しい
「保育園か……」
「とりあえずはあき婆でいいんじゃない?」
「えっ……?」
「あき婆保育園じゃご不満?」
「いや、そんな……」
迷惑ではないのだろうか。
「星弥と同じ保育園に入れるのが一番いいんだろうけど。でも5月も終わりのこの時期には厳しいだろうね」
それはわたしもそう思う。
「来年の四月から入園させるなら、それまでとりあえずパートタイムで週二回とかちょっと働く感じで、あき婆を頼るのは全然アリだと思うよ」
「週二回か……」
「あ、ごめんなんか勝手に決めて」
「ううん、ありがとう。まずは仕事辞めなくちゃね」
仕事を辞める。となれば電話をするか直接会社に赴くか。
大学を卒業してからずっと働いていた会社だから愛着がないわけではない。
でも、産休に入ってからのメールラッシュは正直怖かったし、黒ウサギにも、ウソをついていた汐留葉月にも逢いたくない。
やはり電話で済まそう。スマホを手にするが、手が震えてしまう。
不安に襲われるのはやはりまだ鬱だからなのか。
家事は少しできるようになってきたけれど、学と一緒に暮らした部屋にいるのは辛いので、麗奈の家に泊めてもらっているが、いつまでも甘えているわけにはいかない。
マンションの家具をどうするか考えて、部屋を引き払わないと。
やることは山のようにある。
その日、夜ご飯は麗奈が買ってきた半額シールの貼られたお惣菜だった。
コロッケとナスの味噌ダレ、あとはインスタント味噌汁。
「あのさ、琴ちゃん」
コロッケを口に放り込んだわたしに麗奈がなにか差し出した。
「鍵?」
「うん、鍵」
「なんの鍵?」
「魔法の国への扉を開ける鍵」
「えっ……」
「ウソ。とある洞窟にある宝箱の鍵」
「……」
「そこは是非、ツッコんでよ。わたしの秘密基地の鍵」
「秘密基地?」
「うん、実はさぁ空き家があるんだよね」
「空き家?」
「うん、昨日まで人が住んでいたんだけど、急に引っ越すことになったらしくて」
話が見えない。どこまでが本当でどこまでがデタラメなのか。
「ごめんごめん。えっとね。わたしの母が管理している家があって、そこの住人がたまたま引っ越して、いま空き家なんだ」
「麗奈のお母さん?」
「そう、すっごく天真爛漫でとても五十九歳には見えない変な人」
さりげなく年齢を知ってしまった。
「お母さんってどこにお住まいなの?」
「大阪の端っこ。南の端っこだから割と遠いっちゃ遠いんだけど」
そうなんだ。そういえば麗奈にはいつも話を聞いてもらってばかりで彼女のことをあまり聞いていなかった。
「いま新しい家探しているでしょ? ここで一緒に住んでもいいなぁと思ったけど、四人で住むにはちょい狭いから」
あれ、麗奈も一緒に住むの?
そんなわたしの心を読んだのか麗奈は慌てて
「あ、わたしはここに残るよ! んで、この鍵の家だけどね。ここから近いんだ」
そんな偶然があるのか。
「どんな家なの?」
「あ、見にいってみる?」
そうして、週末に麗奈と一緒に洞窟の宝箱を探しに……、じゃなくて空き家を見学することになった。
当日、麗奈のお母さんもやってくるそうで、ちょっと緊張。
爽やかな風は吹いているが、だんだん気温は高くなってきた。紫陽花の花が少しだけ咲き始めている。
「ここだよ」
麗奈の車から降りて、びっくりする。三階建ての大きな建物で、民家というより事務所という方がしっくりくる。
「大きいね……!」
「そう、ここは私の父が税理士なんだけど事務所として使っていたから、上が住居スペースになっているの」
「えっ、それじゃお父様が?」
「ああ、ごめん。過去形ね。何年くらい前かなぁ。わたしが二十歳くらいの時までここを使用していて、わたしも住んでいたんだよ」
そうだったのか。なんでいまは使っていないのか気になったが、一台の車がこちらへ向かってきた。
「母だ」
「麗奈、やっほー」
ちょっと予想外の赤いスポーツカーに乗ったサングラスをかけたおば……お姉さんが手をふる。
この人が麗奈の母親⁉️ なんかイメージが違う。
「久しぶりねぇ」
車から降りてきたお姉さんは、光沢のあるスーツを見にまとい、褐色の髪をきっちり結っている。会社役員といった風貌だ。
「あなたが……前田さん?」
「あ、はい!」
そう、離婚したから早乙女ではなくなった。前田という旧姓に戻っている。
「奇遇ねぇ。ちょうどここを借りていた人が引っ越したばかりなのよ」
笑うと目尻が麗奈に似ている。
麗奈は、黒縁メガネをかけており、化粧も濃くない。わりと地味なタイプだと思う。
「わたしは、高田みずほよ。よろしくね」
「よろしくお願いします」
麗奈のお母さんが鍵を取り出して、扉を開けた。
一階は、ガランと広い。確かに事務所スペースといった感じ。
右奥に階段があり、上ったところが玄関となる。靴を脱いであがると普通の住居だ。
リビングだろうか、広い部屋にキッチン、隣に和室があってトイレ、洗面所、浴室がある。
「広いね」
「懐かしいなぁ」
「麗奈がここに住むべきなんじゃ……?」
わたしがそう言うと、麗奈は「じゃあ、一緒に住んでもいい?」とはにかむ。断る権利はゼロすぎる。というか一緒だと心強い。
「わたしこそ、住んでいいのかな?」
「三階もあるよ」
星弥くんは広い部屋を行ったりきたりしている。抱っこ紐の中の杏は何がなんだかまだわからないであろう。
三階には洋室が三部屋あった。十分な広さである。
「琴ちゃん杏ちゃんと一緒に住めたらサイコー!」
いいのかな? こんな大きな一軒家に住まわせてもらっていいのかな?
「あの、家賃とか……」
「持ち家だから家賃なんてないに決まってるじゃん」
あまりにも好都合すぎる。
「懐かしいわねぇ」
麗奈のお母さんはリビングの屋根についたシーリングファンを見上げている。おしゃれすぎる。
「主人がねぇ、ぜんそく持ちで都会の空気が合わないから引っ越したのよぉ」
そうだったのか。大阪の南の方……大阪といっても都会ばかりではない。村だってある。
「それで、売っちゃうのなんか勿体ないし人に貸していたんだけれど、その家族が先月引っ越したの」
「それなら、やっぱり家賃をお支払いした方が……」
「そうねぇ……。じゃ、一ヶ月一万円でどうかしら?」
安すぎる。そんなので本当にいいのか?
麗奈がわたしの肩をぽんと叩く。
「いいのいいの、運がよかったってこと」
甘えてばかりだ。
今のマンションを引き払う手続きをして、引っ越しの日を決めた。いらない家具家電はリサイクルショップに売りにいって、麗奈がレンタカーを借りてくれた。
「はーい、今日はトラック運ちゃんの麗奈です!」
中型のトラックを運転する麗奈。すごい、看護師の資格も持っているしなんでもできる。
「男手がほしいよね」
ここにいるのは、麗奈とわたしだけ。麗奈のお母さんは自分の住む家へと帰っていった。
星弥くんと杏は相変わらずあき婆に預けている。
女二人でどこまで何を運べるのか。洗濯機、重い。食器棚、重すぎる。冷蔵庫、いや無理っしょ。
軽いものは全部トラックに積んだが、上記三点はどうしても女二人では厳しい。
「呼ぶか」
麗奈がスマホを取り出した。
「もしもしー、今引っ越し中なんだけどさぁ。え、ゴルフ? 三分できてよ」
誰にかけているのだろうか。三分ってカップラーメンじゃあるまいし。
「誰?」
電話を切った彼女に問うと、「元夫」と答える。
「え、連絡とりあっているの?」
麗奈が離婚した経緯は、確か旦那さんがお酒好きで飲み歩いて―。
「そう、たまーにね」
麗奈は口角を上げたが目が笑っていない。
「浮気」
「え?」
「したんだよね、あのひと」
「あ……」
何と答えればよい。
「職場の若い女の子とデキてて、相手が妊娠しちゃったの」
「ひど……」
「そ、ひどいでしょ!? だから慰謝料がっぽり取って、今も時々なんかあったら働いてもらっている」
この間話していた、旦那が産後、家になかなか帰ってこないって話はまだ続きがあったのか……。人生いろいろだな。
三分ではなかったが、わずか十分くらいで白い車が一台到着した。降りてきたのは長身美形な男の人だった。
「んで、何を運んだらいいんだ?」
「冷蔵庫、洗濯機、食器棚」
「オレ一人で?」
「がんばれー」
「あり得ねぇ……」
わたしはまだまだ麗奈のことを知らない。たくさんお世話になっているけれど本当の彼女を把握していない。そんな気がした。
「さぁて、一人でどうするかなぁ」
冷笑を浮かべながら家の前で立っている彼女はわたしの知っている麗奈ではない。
十五分くらい経って、さらに一台の車がやってきた。男の人が四人。誰かはわからないけれど一人では無理と判断した元夫さんが助っ人を呼んだらしく、あっというまにトラックに運び終えた。
「ご苦労様」
「人使いが荒いなぁ……」
「ゴルフなんてして奥さんと子ども、ほったらかしにしているとまた逃げちゃうよ」
「大きなお世話だよ」
そう言いながら、元夫さんが帰っていこうとしたら、麗奈が首元を掴んだ。
「帰るの?」
「えっ、だって搬入は終わった……」
「トラックに積んだんだから、おろすっていう作業があるでしょう」
意外すぎる。麗奈の意外な一面を見たところで、新居に冷蔵庫、洗濯機、食器棚が運びこまれた。
「はーやっと、家具が移動できたね!」
どっぷり夕方だ。
「麗奈、わたしになんか隠してない?」
「え?」
「例えば元スパイだったとか」
麗奈はキョトンとしたあと、爆笑する。
「うれしいなー」
「えっ?」
「琴ちゃん、冗談が言えるくらい元気になったんだなって」
ああ、そうか。もう悩まなくていい。
「ふふっ」
こうして、引っ越しを終えた。新しい暮らしが始まる。