☆第十九章 最後の以心伝心。
久しぶりに見る学の顔を見て、驚いた。ヒゲが伸びていたからだ。
「あの……」
学はわたしの姿を見て、少しだけ驚いて、ドアを大きく開けた。
「どうぞ」
おかえり、じゃないんだ。胸が痛い。
ダイニングは想像以上に綺麗だった。机の上には何も乗っていないし、台所のシンクも綺麗だ。
ゆっくりと椅子に座ると、学がお茶を出してくれた。初めてのことだった。
「ありがとう」
「家事ってさ……」
学は目線を合わさずに話しだす。
「洗濯と、洗濯機がやるんだから簡単だって思ってた。でも干すのを忘れて一晩置いていたらくしゃくしゃになってたし……。シワを伸ばして干そうにも、なかなかシワが伸びなくて、ああこんな大変だったんだって、気づかなくてごめん」
涙が出そうだった。そうだよ、家事って実は結構な重労働なんだ。
「一人暮らししてた時はいつも、コインランドリーに洗濯物を持っていって、乾燥までかけていたからさ。ここ近くにコインランドリーないんだね」
ああ、そういえば、学が独身時代に住んでいたアパートの向かい側はコインランドリー店だったな。
「料理もさ、カレー作ってみたんだ」
相変わらず、目は合わせてくれない。
「カレーなんてルー入れたらできるって思ってた。でも、実際作ってみて、ジャガイモがまだ全然固くて、煮る時間が足りていなかったし、ニンジンも固かった。あと、食べ終わったあとの鍋が簡単に綺麗にならない」
学はいま、何を思って話している……?
「ごめんな」
学が頭を下げた。その声がほんの少しかすれている。わたしの目にも涙が溜まる。
「うん……」
学は、わかってくれたんだ。家事の大変さを……。
でも―――
「わたしこそごめんなさい。突然家を出ていって」
「……最初はさ、意味わかんなくてさ。なんでオレ取り残されたんだろうって」
学は下を向いたままだ。
「バカだな……」
ねぇ、学、泣いているの?
言えなくなるじゃん、ちゃんと覚悟してきたのに。
「学、顔をあげて……」
「……」
顔をあげてくれない。
「りこん、しようか」
なんで学が言うの。わたしが言おうと思ったのに。
「琴のこと、好きだったよ」
なんで過去形なの。ずっと好きでいてくれないの。
「学……」
涙が止まらない。
「支えてやれなくてごめん……」
ずるいよ、謝らないでよ。
「学……、あのね……」
涙も鼻水もぐちゃぐちゃだ。
「わたしも学が大好きだった……」
かなしいね。杏。あなたは今眠っているけど何か感じているかな?
出来損ないのお父さんとお母さんでごめんね。
「オレ、ここ出ていくわ……」
突然の学の言葉に驚く。
「え、わたしが出ていくんじゃ……」
「責任はオレにあるだろう。家具とか全部そのままにしておく」
「じゃあ学は……」
「大丈夫だよ、気にするな」
本当に……?
「これ」
学が一枚の紙をダイニングテーブルに置いた。離婚届けだ。すでに学の名前が書かれていて、ハンコまで押されている。
「養育費は出すから」
泣くな。泣いたらわたしの涙が、抱っこ紐の中で眠る杏にどんどん落ちて、彼女がびしょ濡れになってしまうではないか。
泣くな。
ペンを持つ手が震える。はんこも持ってきた。そのつもりで来たから。
最後だけ以心伝心なんてかなしい。
「学……、いままでありがとう」
「こちらこそ、ありがとう」
苦しくて苦しくて、どうしてこうなったのか。どうして生涯一緒にいようって誓ったはずなのに、離れなくてはならないのか。
学は、わたしが書いた離婚届を持って、席を立つ。
「出してくる。服とかだけ持っていくよ」
わたしが帰ってきた時のために準備してあったのか、小さめのボストンバッグを持って、玄関を出ようとする。
何か言わなきゃ……何を? 何を言うの?
こんなあっけない終わりなんだ。涙が杏を濡らしていく。杏、ごめんね。
玄関の扉が閉まる音がした。