☆第十八章 わたしよりも悲しむ人、わたしよりも怒る人。
「琴ちゃんを泣かせるなんて許さないだぁ! おら、ちょっくら行ってくる!」
「ちょっと待ちな! あんた関係ないだろう!」
寺田さんが金属バットを手に持って車に乗ろうとするもんだから、まわりの人が止めている。
「あ、あんなかわいい娘がいるのに……ひっく、愛情が持てないなんて……ひっく」
井ノ上さんがわたしの五倍くらい泣いていた。
「ああ、もう井ノ上さんも落ち着いて。お茶入れたから! ほら、飲んで」
麗奈は静かに怒っていた。でも、泣いているわたしの側で、ずっと背中をさすってくれた。
「琴、すきなようにしていいのよ」
母がそう言う。
「一発殴ってやり……」
父が拳を掲げる。
「もー、そういうのはね。やっぱり本人たちの問題だから、周りがあーだこーだと介入しちゃダメなの!」
母にたしなめられた父が拳をおろした。
「殴るのはすべてが終わってからよ!」
殴る予定なのか。
泣いていたらダメだ。母親なんだからしっかりしなくちゃ……。でも悲しい。苦しい。
麗奈はずっと星弥くんを預けているわけにもいかないので、母の車で大阪へと帰っていった。
しばらくは苦しい日が続いた。空を見ても綺麗だと思わない。五月の咲き乱れる花を見ても綺麗だと思わない。蝶も、みつ蜂もかわいくない。モヤがかかったような世界。
杏はそんな間にも成長して、いつの間にか寝返りをうつようになっていた。
「あーぶーぶーぶ」
言葉を発するようになって集落の人をますます虜にはしていたが、わたしの心は揺れていた。
「離婚か……」
結婚した時に思った。こんな一枚の紙切れで人生は変わるんだ、と。
離婚も一緒だ。一枚の紙切れを出せばすべては終わる。いや、養育費とかもらうとなれば終わらないか……。学が杏の父親である事実は何があっても変わらない。
薬が残り一つになっていた。こういう鬱病の薬は急にやめるべきでないというのは聞いていた。
「とりあえず、受診のために大阪へ行く」
わたしは『帰る』という表現をしなかった。
「うん、そうねそれがいいわ」
ニコニコしている母は膝の治療をいつ始めるのだろうか。やはり自分がここにいてはいけないのだろうか。
夜、みんなが寝静まっている間に荷物をまとめようとしたが、そもそもボストンバックやキャリーバックといった大きなカバンを持ってきていなかったので、どこにまとめたらいいのかわからず、家にあった段ボール箱に詰め込んでいく。
音を立てないようにしていたつもりだが、目線を感じた。母ではなくて父だった。
「帰るのか?」
「うん……」
「じゃあ答えは出たんだな」
「……うん」
父は静かに扉を閉めた。ごめんね。
母の運転でクリニックへ向かい、診療を受けて薬をもらった。自分の家で決着をつけたら、このまま麗奈の家に行くと言ってある。麗奈は仕事中なので、あき婆に鍵を預けているそうだ。
「お母さん」
「ん? なあに?」
「膝の治療、ちゃんとしてね」
わたしがそう言うと母は苦笑いして「はーい」と答えた。なんて素敵な地元なんだろうか、みんなが力をくれた。みんながわたしを支えてくれた。
医者は「鬱病は一ヶ月くらいでは治りません。じっくり時間をかけて治していきましょう」と微笑んだ。
小さな薬。こんな小さな薬で治るのかなって不安にもなるけど、幸いいまのところ夜はある程度眠れていた。実家に帰ってそれなりにたくさんご飯を食べたので体重は妊娠前の四十八キロ近くまで戻っていた。
クリニックから自宅まで送ってくれた母にお礼を言う。
「わたし、せっかく街に出てきたからショッピングして帰るわ」
母がそう言って走り去った。
今日は日曜日なので、学は家にいるだろうか……。足がすくむがここから先に進まないとどうすることもできない。
母がショッピングを実際にするかどうかはわからないけど、つまりしばらくはこの辺りにいるから、怖気づいたら電話でもして。ということであろう。
マンションのエレベーターのボタンを押す。杏は抱っこ紐に入れても、いままでみたいに小さくて潰れちゃいそうな感じはしなかった。体がしっかりして体重も増えたので、肩にずっしり重みを感じる。
自分の部屋の鍵をあけようとして、一旦やめる。インターホンを押すことにした。
ピンポーン
ドキドキする。いるのか、いないのか。アウトドア好きな学ならでかけていてもおかしくないはずだ。
ガチャリ
扉が開いた。