☆第十六章 アイドル杏ちゃんの争奪戦
実家に帰って一週間が過ぎた。集落の人ほぼ全員がこの一週間にやってきて杏の相手をしてくれた。
「杏ちゃーん」
「杏ちゃん、いないいないばー!」
「杏ちゃん、お菓子持ってきたで! え? まだ食べられない!?」
「杏ちゃんに似合うかなって思ってお洋服買っちゃった♥」
「いやぁべっぴんさんやなぁ」
完全にアイドル化した我が娘は、少しずつ笑う回数も増えて、その笑顔がますます集落のおじおばを魅了していた。
「まぁなんと、めんこい」
「将来は女優やな!」
着替えをまともに持ってこなかったのに、いつの間にかお古の服を貰ったり、買って頂いて、杏の服は七枚もある。よだれかけも八枚、必要なのかわからないがおもちゃも色々。
みんなの孫になってしまった杏は放っておいても……いや、別に放っているつもりは全くないのに、気づいたら誰かが抱っこしてくれている状態で、わたしの手元にあまり帰ってこない。
わたしは薬を飲んでいたが、まだ気分の上下があり、学の元へ帰ることを考えては暗い気持ちになり、麗奈のことを考えては明るい気持ちになり、また、学の両親のことを考えては真っ暗な気持ちになったりしていた。
これからどうしたらいいのだろうか。うららかな季節で、春の日差しは暖かく、里には花が咲き乱れ、鳥が楽しそうに鳴いている。
麗奈から二度ほど電話があった。他愛もない話ばかりで、
「星弥が保育園で今日、まなみちゃんって子に好きって言われたんだってー」とか
「今日の晩ごはんはチャーハンだよっ」とかそんなことを言っていた。
わたしがスマホをずっと電源OFFにしているので、麗奈は実家の固定電話にかけてきた。どうして番号を知っているのか尋ねたら、以前赤ちゃん訪問した家で、ママさんのお母さんがちょうどいらしていて、その方が偶然、この集落の出身だったらしい。
わたしの旧姓は前田という。至って普通の苗字だが、この集落には前田が三軒しかない。三軒ともわたしの親戚なので、前田さんに連絡をとりたい。と麗奈が話したらそのお母さんはアッサリと電話番号を教えてくれたそうだ。
個人情報厳しい時代なのにごめんね~なんて麗奈は言っていたが、本当にナイスプレイすぎる。あと、世間はわりと狭いらしい。
電源をOFFにしていたスマホを起動させた方がいいのか。
薬は一ヶ月分しかもらってないし、再度受診するならまた帰らないといけない。
集落には大概、世話焼きなおばちゃんというのが存在する。
実家から割と近い家に住む井ノ上さんは、母からわたしのはなしを聞いて、集落中に
「琴ちゃんが帰ってきても旦那さんのことは触れたらダメよ」
というお触れを出した。
そうとしか思えない。だって誰も聞いてこない。
「旦那さんは一緒じゃないのか?」とか、
「帰らなくていいのか?」とか。
それが嬉しくもあり、自分のことをみんな知っているという羞恥心でドキドキもした。
人生で初めて鬱病になったけど、とにかく朝、体が重い。米俵のように鉄のように重くて布団から起き上がるのに一苦労。
ご飯を見ても、「美味しそう!」って思わない。色がくすんで見える。
一日に一回、「自分はこの世に存在していていいのかな」って思う。
そして一番サイアクなのが、「子どもを産まなければよかった」というフレーズが頭に浮かぶこと。
でも杏の顔を見る。小さな目、鼻、耳、ぷっくりしたほっぺ、まんまるのお腹、お人形さんみたいな手、足。
我が子を見て、自分は一体何を考えているんだって自己嫌悪に陥る。
二週間が経って、杏の服の数がさらに増えた。誰が用意したのか、お食い初めセットもいつの間にか置かれているし、両親に聞いたら、
「ああ、町のみんなで昔から使いまわしているのよー」と言っていたが、どうりで、箱がボロボロなわけだ。
でも、中には美しい朱色の台と皿が収められていた。
生後百日が近づいている杏は首がしっかり座って、ひとまわり大きくなった。
アイドル杏の写真撮影会もこの二週間行われ続けていた。わたしはぼーっと庭の木や空を眺めていた。