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奈良って実は九割の人が北部に住んでいるんだよ。

☆第十五章 奈良って実は九割の人が北部に住んでいるんだよ。


 見渡す限りの山、山、山。杉、ヒノキ、ヒノキ、杉、なんかわからない植物、杉、沢、砂利、せせらぎ。

 目に入ってくる大自然は昔から親しんだ光景。本当に何もないけど実はたくさんある。ここには緑がある。珍しい植物がある。野生動物がいる。


 あの日、麗奈と一緒に買い物に行って、肉を購入した。誰がこんなに食べるのと言いたくなるくらい、鶏、豚、牛、ウインナー、ハムを買って家に帰る。


 あき婆のおでんも美味しかったがその日は肉も焼いて食べた。こんなに食べたのはいつぶりだろうか。


「おなかいっぱい……」

「そりゃよかったです」


 麗奈が笑ってわたしのお腹をさすった。まるで妊婦に戻ったみたいに膨れていた。


 麗奈に、実家に帰ろうかなって話をしたら、「おーいいね。帰りなよ」とサラリと言う。


 でも、実家の両親に自分が病気だと告げる勇気がなかった。どうしようか迷っていると

「私が親だったら言ってほしいと思うなぁ」と彼女がじっとこっちを見ていた。

 あき婆といい、麗奈といいエスパー? 人の心を読む能力を持ち合わせているのだろうか。


 そうか、言ってみよう。でも……ああ、これが鬱病なのか。体がいつも重くて重くて、いつの間にか心が鉄になってしまったみたい。手は鉛、足はニッケル、胃はウラン。アルミニウムはゼロ。


 スマホを出したはいいが、そこで固まってしまった。


 実際、電話をかけることができたのは三日後のこと。母のスマホに電話する。


「あ、もしもし~」

「……」

「琴? どうした?」

「お母さん……そっち帰っていい?」

「いいよ~。ちょっと二人とも動き鈍いけど」

「お母さんも大丈夫?」

「ああ、大丈夫大丈夫。それよりあんたが大丈夫?」

「……」

「いつでも帰ってきてよ。孫の顔なんて毎日でも見たいから」


 奈良の実家まで公共交通機関では行きづらいのでレンタカーを借りた。

一泊二日しか借りていないので、明日、大阪に返さなければならない。


 後部座席のチャイルドシートに座っている杏は眠っている。家出同然だったわたしと杏は私物を殆ど持っていないので最軽量の荷物を積んだのみ。


 スマホの電源はOFFにしている。というのも昨晩、どうやらわたしがいなくなったことが学の両親にバレたらしくて、学の父と母から電話がかかってきたから、電源を切った。


 ポツリポツリと家が見えてきた。このあたりだ。


 実家のまわりは昔と何も変わっていない。ただ、わたしが昔通っていた小学校が閉校になったというのは聞いた。いま、集落には子どもが一人だけいるそうだが、その子はバスで別の町の学校へ通っているそうだ。


 家の近くから高台が見える。夕莉のお父さんが営んでいたレストランがあった場所に、寺田さんが追悼の意味を込めて花の種をまき、苗木を植えた。いまは四月だから、ハナミズキが咲き乱れている。


「よー帰ってきよった」


 父と母が出迎えてくれた。


 何も持っていなかったわたしに三万円貸してくれたのは麗奈である。そのお金でレンタカーを借りた。


 荷物が殆どない。それでも父も母も不審がらないのが奇妙だ。

 無駄に広い庭に車を停めて、家に入ると懐かしい匂いがした。


「今日は琴の好きなカレーだからね」


 ああ、実家のカレーはそうだ、はちみつをたっぷり入れるから妙に甘いんだけどそれが美味しいんだよな。奈良を代表する奈良漬(そのまんまネーミング)が必ずカレーと一緒に食卓に並ぶ。杏は当然まだ食べることができないが、もしかしたらカレーを食べた翌日の母乳はカレー味なのかもしれない。


 そんなくだらないことを考えることができるのは、実家に来たことで心に余裕ができたからだ。


 もちろん罪悪感はある。学を放ってきたこと。しかも熱があるのに放置してきたことは人間としてアウトな気もするけれど、献身的に看病できる自信なんてない。


 まずは病気をよくしてから、それから家事をちゃんとやって、夫とも向き合おう。そう決めた。



 翌日。

 一泊二日で借りたレンタカーに乗って発進すると、母がわたしのあとを着いてくる。

 大阪のレンタカー屋さんに返却した後、母がわたしを乗せて再び実家に帰るということだ。

 連絡してくれたら迎えにいったのに。って言われたし、確かにガソリンやレンタカー代も無駄なわけでエコロジーじゃないけど、なんだろう。考える力がなかったし家出娘が迎えにきてなんて言えなかった。


 杏は父が預かってくれているが大丈夫なのか。


「大丈夫よ、いざとなったら雅子おばさんが面倒みてくれるって」


 雅子おばさんとは実家のご近所に住む人で、杏の姿を見て「かわいーかわいー」を五十回くらい連呼していた。


「いやぁ、この集落には赤ちゃんがいないからアイドルね!」


 そう、田舎では琴ちゃんが帰ってきたでー。みたいな話がビューンとみんなに伝わって、可愛い赤ちゃんはチヤホヤされる。


「わたしが抱っこする」

「いいや、私だ」


 ご近所さんの間で杏が取り合いになっていて母が「人形じゃないんだから!」とツッコミを入れていた。


 きっと今頃チヤホヤされているに違いない。


 レンタカーを返して母の運転する車に乗り込む。往復四時間の道のりだから、運転をすると言ったが、大丈夫よと言って、運転席は譲られない。


ひざは大丈夫なの?」

「ああ、膝ね。ちょっと水が溜まっているみたいだけど大丈夫」


 水が溜まっていては大丈夫ではない。


「治療は?」

「手術はするけど、まぁそんな深刻なもんじゃないから。それより……」


 シートベルトをして、アクセルを踏み込んだ母は一瞬だけこちらを見た。


「高田さんという保健師の方から連絡を頂いたの。全部聞いたわ。いくらでもゆっくりしていいのよ」


 いつの間に。麗奈はいったいどうやってわたしの親に連絡したのか。


「知ってたんだ」

「ま、いまはぼーっと景色でも眺めるのが一番!」


 軽快に車は街中を通り抜けていく。そういえば出産してから殆ど家を出て

いなかった。外出するといえば、杏をベビーカーに乗せてスーパーやドラッグストアに買い物に行くくらい。


 流れる景色の中で、民家、小学校、信号、体育館、公民館、いろいろ目に入ってくる。

 やがて、緑が目立つようになる。


 子どもの頃を思い出した。兄がいたので、一緒に虫とりをした。地元の子と川に遊びに行った。夜は満天の星を眺めた。


 最寄り駅まで一日二本のバスがあって、ドキドキしながら駅まで出た。

 たまにそうやって電車に乗って街に出ることもあったが、殆どはこの町で、過ごした。


 都会に慣れてすっかり忘れていた景色が愛おしくなった。涙が一筋、頬をつたう。


「いいお友達に出会えたのね」


 車はゆっくりと、山道へ入っていった。


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