☆第十四章 家出宣言いたします!
わたしと麗奈は午前六時半にあき婆に二人を預けて自宅へ向かった。こんな朝早くから大丈夫なのかと問うと、あき婆はそもそも四時起きだから大丈夫らしい。
自宅へ帰ると学が眠っていた。そっと脇に体温計を挟むと目を覚ました。
「おはようございます」
学は見たことない女性が突然現れて驚いたらしい。困惑した表情をしている。
「き、君は……?」
ピピピピ、ロムロン製の体温計はとにかく早い。熱は三十八、ゼロ。
「あ、昨日よりだいぶ下がってますねー」
「君はいったい誰なんだ?」
「あ、失礼。保健師の高田と申します」
マスクをつけてはいるが、ニコニコと挨拶をする麗奈を後ろから見守る。
「琴さんのことでちょっとお話があるのですが、いま大丈夫ですか?」
隠れていた琴は学と目があった。
「なんでしょうか……?」
「人間、三十九度以上だとぐったりするけど、三十八度程度なら頑張ったら仕事できるくらいだから。ちゃんと聞いていてください。琴さんは昨日、病院へ行かれました」
ドキドキしながら見守る。大丈夫だろうか。
「これ見てください」
麗奈は学の目の前に薬を出した。
「ジェイドロフトという鬱病の薬です。昨日、琴さんは鬱病と診断されました」
「なんだって……?」
状況が呑み込めていない様子の学が体を起こした。
「わたし、いまは保健師だけど看護師の資格を持っているので」
「琴、この人だれ?」
わたしは答えようと思ったが、麗奈が
「琴さんの友達です。緊急事態だったので駆けつけました」
と先に答えた。
「緊急事態……?」
「そう、琴さんは昨日、自殺しようとしました。ベランダから飛び降りようとしていたのです」
その口調は強めだった。
「なんだって……?」
「あなたは琴さんのことを全く見ていない。琴さんはこの三ヶ月で五キロ痩せたそうですよ。あなたが夫として琴さんにもっと寄り添っていれば、彼女は自殺未遂なんてしなかったはずです。いまの琴さんには協力者が必要です。なので、私が彼女と杏ちゃんを預からせて頂きます」
あまりの急展開に呆然としている学。
「あなたが何病かインフルエンザかコロナか存じませんが、自力で病院へ行ってください。では琴さんは預からせて頂きます」
そう言って麗奈は立った。
「もし、心を改めて妻と娘をちゃんと受け入れようと思うなら、保健センターの高田宛に電話をください。お待ちしております」
麗奈がそう言い切って、琴の手を掴んだ。
「さあ、行くわよ」
外へ出ると朝陽が眩しい。空には雲が殆どない。
「勝手に色々宣言しちゃったけどよかった?」
「驚いたけど……」
「けど?」
「すごい格好良かった」
わたしがそう言うと麗奈が笑った。
「あのくらいガツンと言っていいわよ。さあ、子どもたちのところへ戻りましょう」
あき婆と星弥くんは朝ご飯を食べていた。杏は起きてはいるが、あうあう言いながらご機嫌そうだ。
「かわいい子だねぇ」
あき婆が杏を見てそう言うと、星弥くんが「ぼくのほうがかわいい!」と頬をふくらます。
「まるで妹ができたみたいだねぇ」
星弥くんの前に置かれたおにぎりは、二歳児にピッタリのミニミニサイズ。
「ありがとうございます」
「麗奈ちゃんは今日も仕事かい?」
「はい、出勤です」
そうだったんだ。仕事……。
「仕事があるのにごめんね」
麗奈の部屋に帰ったわたしは謝った。
「全然大丈夫。星弥は保育園に預けるけど、琴ちゃんどうする?」
「え……」
どうしたらいいのだろうか。自宅に帰った方がいいのか。
「狭い家だけど好きなように過ごしてくれていいよ。あ、ラーメン食べるなら台所の引き出しにあるから。でも栄養はつけた方がいいよね。今日帰ってきたら一緒に買い物行こ! あと、遠慮しないでいつでも電話して!」
忙しく支度して、麗奈は星弥くんの手をひいて出ていった。
いいのかな? ここにいていいのかな?
これじゃまるで家出ではないか。いや、家出した方がいいという判断で強制家出させられたのか?
わたしは一人でいるのが怖かった。いくら電話してと言われても、仕事中に電話するのは迷惑であろう。
麗奈が言う通り、わたしは出産してから五キロ痩せた。単純に妊娠で太った分減っただけではない。手は骨ばっているし、鏡で顔をみるとやつれている。
「杏……」
杏は産まれた時より随分としっかりした。首がすわって、時折笑顔も見せてくれる。
「あー、ぶー」
可愛い。小さな手と小さな足を一生懸命動かしている。
今日一日何をしようか。
家のパソコンを放置してきたことを思い出した。すると急に不安に襲われる。
またメール増えているのかな。こんな状態で仕事復帰できるのかな?
杏を抱っこしてぎゅっとする。
押し寄せる不安は荒波のようで、のまれてはいけない。そう思った時に
ピンポーン、インターホンが鳴る。誰だろう、人様の家だしわたしが出るのも変かな。
「あき婆だよ」
古いアパートで扉が薄いからなのか、よく聞こえた。
「はいっ」
扉を開けると鍋を持ったあき婆が立っている。
「琴さん、おでん好きかい?」
あき婆のおでんには牛すじ肉が入っていた。おいしい。ちくわ、はんぺん、大根とたまご、こんなに美味しいものを食べたのは久しぶりだ。
「おいしい」
「そーかい、そりゃわたしが作ったんだから、うまいに決まっとる」
実家のおでんを思い出した。実家では牛すじではなくて、鶏肉を入れる。地元にこれといった特産物はない。ただ、田舎なので自家製の味噌を作っている家庭や漬物をつけている人が多かった。
食卓には大抵、漬物が出ていた気がする。あとは、山に囲まれた地だから、春にはぜんまい、わらびなどの炊き込みご飯を作ることもしばしば。
急に実家が恋しくなった。
「久々に帰ろうかな……」
「ん?」
「あ……いえ、なんでも」
「帰りたいと思ったら帰ったらいいんだろうね。父ちゃん母ちゃん喜ぶと思うよ」
あき婆は天才なのか。一言ぽつりと呟いただけですべてを読み取った。