☆第十三章 タスケテ。
高田さんにもらったパンフレットの病院に電話をしたら、「あ、高田さんからお話伺っております。明日にでもどうですか?」との返答だったので予約した。
次の日、杏と一緒にクリニックを訪れると、ホワイトカラーのきれいな外観で、受付には優しい色合いの花が飾られていた。恐る恐る受付を済ますと、わたし以外にもう一人赤ん坊を抱っこしたお母さんがいた。
でも突然その子がぐずりだしたので、なんとなくその人の前の席に座った。ああ、そうだ。忘れていたけど早乙女琴は超お人好しなんだった。
困った表情のその人に話しかけた。
「こんにちは」
すると、その人はほっとした表情で「こんにちは」と返す。
「赤ちゃんは女の子ですか?」
ピンク色のロンパースを着ていたのでなんとなく女の子かと思ったら男の子だという。恥ずかしくなって「すみません!」と謝る。
「いえいえ、この色の服を着せていたらみんな女の子だと思いますよね。お姉ちゃんのお下がりなんで」
「お姉ちゃんがいるんですね」
「ええ、いま、ちょうど幼稚園に行っているんですが、イヤイヤがひどくて……」
「そうなんですか……」
「嫉妬ですよね。弟が産まれたらお母さん奪われたって思ってしまうから、わざと悪いことをして親の気をひこうとするんです。覚悟はしていたんですが、予想以上にひどくてメンタルやられちゃって」
その人は笑顔を作ったが、目の下にはクマができている。
「何歳なんですか?」
「三歳ですね。まだイヤイヤがひどい時期です」
そうか……。わたしは友達も少ないから体験談とか聞くことも殆どないけれど、兄弟姉妹がいたらそれはそれで大変そうだ。
「幼稚園から帰ったらわざとジュースこぼしたり、トイレットペーパーをビリビリにやぶいたり、つい怒ってしまうんです。怒ったらダメなんですけどね……」
それは大変だ。
「姉弟、平等に愛情をかけてあげるのってこんなに難しいんだなって」
「……わたし、まだ一人目なんで全然そういうの経験していないですが、すごいですね……。あの出産を二回経験しただけでも尊敬します」
何と言葉をかけるのが正解なのかはわからない。
「ありがとう。痛いよね出産。びっくりするよね」
「びっくりしました」
「私の友達は鼻の穴に大きなスイカまるごとひとつ突っ込まれたみたいでそのスイカを無理やり外へ引っ張りだしたみたい。って言ってました」
「すごい例えですね」
思わず少し笑ってしまった。その時だった
「スズキさん、診察室にどうぞ」とのアナウンス。
「話しかけてくださってありがとうございます」
「いえ、こちらこそ……」
そうか、スズキさんと言うのか。ちゃんとフルネーム聞いておいたらよかったな。
やっと順番が廻ってきた。杏は抱っこ紐の中でスヤスヤ眠ってくれている。
高田さんの言う通り、鬱と診断されて薬を処方された。授乳中でも飲める薬があるらしい。
この時まではよかった。家に帰るとまた悲劇が待っていた。
病院ではスマホをマナーモードにしていて全然気がつかなかったが、家につく直前で、スマホの着信が八件もあることに気づいて慌てる。学だった。
「いま、どこにいるの?」
「病院……に行ってた」
「病院、どっか悪いの?」
「えっと……」
いまは、平日の昼の一時だ。仕事はどうしたのだろう。
「学は仕事中なんじゃないの?」
「実は熱があって」
「えっ」
「悪いけど、なんか胃に優しいもの買ってきてくれない」
家に帰ってみると、学は布団で寝ていた。
「熱って何度なの?」
おでこに手をあてると熱い。
「わっ、熱い!」
慌てて冷凍庫から氷枕を出そうとした時だった。
ピンポーン
誰、こんな時に? 出てみるとまさかの学のお母さんだった。
「学が熱が出たって」
えっ、何で知っているの? 姑さんが靴を脱いで勝手にあがる。
「わっ、何これ?」
しまった。今日はゴミの日だったのに出し忘れたのだ。玄関にゴミ袋を置いたままだった。
「学、大丈夫?」
姑さんもわたしと同じく彼のおでこを触る。
「わっ、熱いじゃない!」
「あ、すみません氷枕……」
「琴さん、あなたちょっといい加減にしなさいよ」
「えっ……?」
「何この汚い家! ゴミも出してないみたいだし、ホコリだらけじゃない。こんな家にいたら病気にだってなるわよ!」
ズシン。体の奥の方が固まる。
「赤ちゃんがいるのに、もっと清潔な家じゃないと! 掃除くらいせめてやりなさいよ」
反論できない。だって最近家事ができなくて……。部屋は散らかり放題だ。
「料理もまともなもの出してないんじゃないの? だから学が熱を出したりするのよ。一日、あなたたちの為に頑張って働いているんだから栄養バランスのとれた食事を用意するのが当たり前でしょう?」
ズシン、ズドン。体がどんどん石化していくみたいだ。足が動かない。
「解熱剤とかないの⁉️」
質問されたが答えられない。タスケテ……。
「ああ、もう困った嫁ね! 私が買ってくるわ!」
そう言って、姑さんは靴を履いて家から出ていった。
どうしよう、体が動かない。片付けなきゃいけないのに。杏の世話をしなきゃいけないのに。手が震えている。そうだ、今日もらったお薬。
冷蔵庫を開けて気づいた。そういえばお茶すら沸かしていなかった。仕方なくコップに水道水を入れて薬を飲んだ。
数分後、姑さんが解熱剤を購入して帰ってきて、学に飲ませて、皿を洗って帰っていった。
「うわああああああん」
泣きたいのはこっちだ。どうして杏が泣くの? 泣いている娘に何かを投げつけたい気持ちになった。いけない。慌てて家を飛び出して、マンションの踊り場でうずくまる。
タスケテ……どうして薬、効かないの? どうして家事ができないの?
娘をほったらかしたらダメじゃない。涙が溢れるばかりだ。
二時間ほどぼんやりして家に帰ると泣き声がやんでいた。杏は泣きつかれて眠っている。学も眠っていた。
ははおやしっかく
わたしは母親失格。家事も子育てもできない。こんなんじゃ……。
寝ている杏を抱っこして、ベランダへと出た。ここは三階……この高さから落ちたら死ねるかな。ベランダの手すりを握った瞬間、スマホの着信音が聞こえた。
誰……?
誰でもいいか。だっていまから死ぬんだから。……死ぬ? わたしはともかく杏まで?
何をしているのだろうか。着信音は鳴り続けている。
ゆっくりと部屋に入ってスマホのディスプレイを見た。高田麗奈。
「……」
「あ、琴ちゃん、ごめんなさい寝てたかな⁉️」
「……っ」
「ん? どうしたの?」
「う……うわあああああああああああああん」
「ねむれー、ねむれー」
麗奈が杏を抱っこして寝かしつけてくれている。まるでスーパーマンのようだと思った。わたしが電話越しにワケがわからないくらい号泣してから約十分後に家に麗奈が登場した。そして、学の熱が一旦ひいていることを確認した後、わたしと杏は車に乗せられた。
麗奈の家は意外と近かった。車だと僅か五分ほどで到着する。この距離だったら歩いても三十分かからないであろう。
二階建てのアパートの二階。麗奈の息子、
「本当にいいの?」
「全然大丈夫。狭くってごめんね」
今晩ウチに泊まりなよ。って言われてノコノコ来てしまったが熱のある夫を置いてきてよいものか。
「いまは保健師やってるけど、実は結婚するまで看護師だったの」
僅か五分間のドライブ中に麗奈が色々話してくれた。
「大丈夫よ。大人なんだから自分で勝手にどうにかしなさいって。いままでのバチがあたったのよ」
麗奈はそう言うが、明日の朝亡くなっていたら保護責任者遺棄致死罪ではないか。いや、別に保護責任はないのか。
「学さんよりあなたの方がよっぽど心配よ」
わたしは今日、クリニックへ行ったこと。あと鬱だと診断されたことを話した。
「さっき……、さっき自分でもわからないの。ベランダに出てここから飛び降りたら楽になれるって……」
信号で止まると、麗奈が抱きしめてくれる。
「よかった、電話してよかった。お願いだから死なないでよ」
涙が溢れて麗奈の服がぐしゃぐしゃに濡れる。
「自分でもよくわからないの……」
散々泣いて、やっと泣き止んだ時には時計は十二時を過ぎていた。いつの間にか星弥くんはすやすやと眠っている。杏も眠っている。外は真っ暗で深夜だ。
「見ての通りだけど、うちには夫がいないんだわ」
八畳一間の和室と、隣にキッチンと小さなテーブルがあるのみだ。
「離婚したの。この子が生後二ヶ月の時にね」
「そうだったの……」
星弥くんはお気に入りなのかゾウのぬいぐるみを抱っこしている。
「どうして離婚したの?」
「琴ちゃんと一緒よ。わたしが産後あまりメンタルよくない状態で、でも夫は何も手伝ってくれなくて、お酒が好きな人でね。あちこち飲みに行っては帰ってこないばっかりでうんざりしちゃって」
離婚か、そこまで考えたことがなかった。
「わたし、やっぱり学のところに戻ろうかな……」
「心配?」
「熱があるから」
「琴ちゃん優しいね。わたしが二人をここに連れてきたのは感染予防のためでもあるよ」
「えっ、感染?」
「うん、だって季節は春だけどインフルエンザとかかもしれないじゃん」
「……」
「赤ちゃんは本来、お母さんから抗体をもらっているから生後半年くらいは熱とか出ないもんだけど、でもインフルエンザってお母さん自身が抗体を持ってない場合も多いし、その時によって型も代わるし」
なんとなく聞いたことがある。赤ん坊は生後半年はあんまり病気しないのに、半年を過ぎたあたりから熱が出やすくなるって……実家の母に聞いたんだっけ。
「うーん、まぁ明日の朝にわたし、行ってみるよ。とは言っても人様の家だから琴ちゃんも一緒の方がいいか。あき婆に二人を預けておこう」
「あき婆?」
麗奈曰く、アパートの隣に住んでいるお婆さん(御年七十七歳)が、子どもが大好きで星弥くんをよく預かってくれているらしい。