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突然できたお友達。

☆第十二章 突然できたお友達。


 異変は感じていた。でも気づかないフリをしていた。

 相変わらず溜まった洗濯物と洗えていないお皿は極力視界に入らないように避けていた。

 壁に貼ってあるマッターホルンのハガキはすっかり日焼けして変色していた。

 ぼんやりとハガキを眺めていると、彼女のことを思いだす。


「夕莉……」


 実家に電話をしようかと思ったが思い留まる。

 父はヘルニアだし、最近母も歳のせいか膝が痛いらしい。


 窓の外は、ぽかぽかと暖かい日差しが溢れ、春まっさかりなのに、わたしの心はいつまでも冬みたいだった。


 お宮参りの次の日、にそうっとパソコンのメールを開いてみた。

『なんで返事くれないんですか⁉️』

 ウサギのメールは無視していい。問題は部長からのメールだった。


『早乙女さん、育休中に悪いがミスが発覚した。君の作ってくれたデータベースは令和五年度のものではなくて令和三年度のデータだったんだ』


 そのメールを見た時、魂が抜けそうになった。

 産休に入る前に作ってくれと言われた過去の売上記録のデータベース。

 年数が間違っているということは全部間違っているということか。

 商品A~Kまで十一商品のデータをまとめたのに……。結構時間かけて作ったのに。


『申し訳ありません』


 そう返信して、パソコンをシャットダウンした。


 へたりこんでいるとさっき寝かしつけたばかりの杏がまた泣いた。でも抱っこする気にならない。放っておこう。寝よう。そう思って横になるが、生後三ヶ月近くなった杏の声は産まれたころより大きくなっていた。


「あーもーうるさいよ! 寝かせてよ!」


 急に涙が出てきた。

 お皿洗わなきゃ、洗濯機まわさなきゃ、杏のオムツ替えなきゃ、ああそうだ……冷蔵庫の牛乳、賞味期限今日だったよな。明日食べるパンがないや……。


 でも体が動かない。こんなの初めてだ。

 誰か……。


『ピンポーン』


 誰だろう。ふとカイトのことを思い出す。

そうだ、カイトがわたしを励ましにきてくれたんだ。わたしがピンチだと思って助けにきてくれたんだ。そう思ってドアを開けると、現実に戻された。


 見たことのないお姉さんだった。

 黒いカールした髪とメガネのその人はニコリと笑って首からカードケースを下げている。


「はじめまして、保健師の高田と申します。赤ちゃん訪問に参りました」


 赤ちゃん訪問? ああ、そういえば産院の授乳室で宮ノ下さんが言っていた。


「うちの市は赤ちゃん訪問ってあるから、だいたい生後三ヶ月くらいの時に保健師さんが家にやってくるんだけど、うち、一人目から四人目まで同じ人が訪問してきてさ。四人目の時に、五人目はもういいよって言ったけど、やっぱり来るってさ。来ても多分相手している暇ないですよってw 伝えたけど」


「赤ちゃんとお母さんの様子を聞かせてもらおうと思いまして……。あら、赤ちゃん泣いてますね」


 そうだ、杏を放置していた。怒られるってその時思った。赤ちゃんが泣いているのに放置しているんですかって。


「あ、あのトイレに行っていて、その時に泣きだしたもので……」

「そっかーお母さん大変だもんね」


 汚い家の中を見られたくなくて、玄関の扉を閉めようとしてしまった。


「あ、待って待って。いま、まずい?」

「え……」

「早乙女琴さんね」


 どうして名前を知っているのだろうか。あ、そうか。調べてきているに決まっている。


「都合悪かったら帰るから。その代わり、電話でもいいから少しだけ話を聞かせてください」


 そう言ってお姉さんが小さな名刺を差し出した。高田麗奈さん。


「たかだ、れなと申します。ここにある番号にかけて」

「あ……」


 玄関の扉の隙間から見える笑顔に、頼ってみたくなった。


「あのっ……」


 紅茶のパックを引き出しから取り出すと賞味期限の一週間前だったけど、ギリギリセーフと思ってお湯を注ぐ。


「すみませんお忙しいところ」

「いえ……」

「本当にお気遣いなく」

「いや、こんなものしかなくて」


 かろうじて洗ってあったマグカップに紅茶を注いで出した。


「ありがとう。ねぇお母さん、眠くない?」


 突然質問されて驚いた。思わず顔を触る。そうだすっぴんだ。しかも髪すらといてない。急に恥ずかしくなった。


「あ、大丈夫大丈夫。どこのお宅のお母さんも皆一緒よ」


 そもそも格好がパジャマじゃないか。


「どうして眠いってわかるんですか?」

「あら、皆眠いわよ。当然よ。だって夜中に何回も起きるんだもの」


 そうなんだ。わたしだけじゃないんだ。


「杏ちゃんはよく眠ってくれる?」

「えっと……新生児のころよりかは長く寝るようになったと思います……」


 自分で答えながら、曖昧だなって思う。

 とりあえず、泣いている娘を放置するのもいい加減にした方がいいので、ベビーベッドへ向かい、杏を抱っこしたが、泣き止まない。


「あら、元気な泣き声ねー」


 いつの間にか高田さんが隣にいたのでびっくりする。


「あの……授乳……」

「ああ、授乳しながらで全然オッケーよ。わたし、後ろ向いておくわ」


 出産するまで知らなかったのだが、出産した瞬間から母乳は自動的に出る。飲ませなければ溜まる一方でそのうち胸が痛くなってくるのだ。


「四ヶ月検診の紙は届いたかしら?」

「ごめんなさい、郵便物ぐちゃぐちゃで……」


 リビングにある小さなテーブルの上に雑然と、色んな郵便物が未開封のまま積んである。


「あのっ……」


思い切って打ち明けてみる。


「最近、本当にやる気がなくて、なんていうか……。洗濯しなきゃ、掃除しなきゃ、片付けなきゃって思うんですが……体がいうことをきかなくて……」


 ああ、わたしは今日会ったばかりの人に何を話しているんだろうか。


「それはいつ頃から? 最近ってことは杏ちゃんを産んだあとから?」

「そうですね……」


 しばし、沈黙の時間。


「早乙女さん、産後うつって知っている?」

「え?」

「赤ちゃんを産んだあとによくあることなの。ホルモンのバランスが崩れたり、生活も一変するでしょ? 夜何回も起きなくちゃならないし」


 うつ、打つ、撃つ……違う、変換ミスが多すぎる。難しい漢字だから書けない。

 知っていると言えば知っているが、産後うつは人ごとだと思っていた。


「赤ちゃんの世話って大変だもん。意思の疎通はとれないし、なんで泣いているのかわからないことの方が多い。まわりの人がああだこうだ言うのがストレスだって人も多いのよ。ほら、昔は抱き癖つけたらダメとか、粉ミルクはダメだ、母乳で育てろとか余計なこと言う親族が結構いる。それが嫌ですってお母さんもたくさんいるわよ」


 母乳はありがたいことにいまのところ、それなりに出てくれている。


「旦那さんはどう? お手伝いしてくれている?」


 それは一番、返答に困るやつだ。


「全く……」

「あら、それはお母さんダウンしても当然よ! 何もしてくれないの?」

「何もしてくれません」

「最悪ね。仕事が休みの日はどうしているの?」

「多趣味な人なので……。釣りとかゴルフとかに出かけて……」


 そこまで話すと高田さんは思い切りため息をついた。


「最悪最低。殴ってやりたい」

「えっ、なぐ……」

「ごめん口が滑った。でもそう思わない? こちとら寝不足で必死で赤ん坊の世話しているのに」


 そうだ。言われてみればそうだ。一発、いや五発くらい殴ってもいい気がする。


「なんか、首がすわっていない赤ん坊を抱っこするのが怖いって……」

「え、じゃあ抱っこしてくれないの?」

「ええ、最近だいぶ首がすわってきたんですが」

「じゃあ、首すわったから大丈夫って思い切り抱っこさせなさい」

「え……」

「そのくらいでいいと思うけど、ごめんね、話が逸れたわ。早乙女さん、一度クリニックに行くことをおすすめします」

「クリニックって……」

「心療内科かな」


 お腹がいっぱいになったのか、杏はわたしに抱っこされたまま眠っている。


「心療内科ですか……」

「そう、なんか敷居が高いみたいに思っている人が多いけれど、気軽に行ったらいいのよ。薬を処方してもらったらよくなるから」


 高田さんが、カバンの中から何か取り出してテーブルに置いた。心療内科クリニックのパンフレットだった。


「ここは女医さんでいい先生よ。まぁちょっと予約が詰まっているけど私が話を通しておくわ。行ってみる?」


 どうしよう、病院へ行くのか。


「琴って素敵な名前よね」


 突然の高田さんの発言に驚く。


「あーごめんごめん。ここからは保健師じゃなくて、三十二歳の高田麗奈としてお話する。琴さん同い年なんだから仲良くしよ!」

「同い年なんですね」

「そうそう、そんでもって私も息子が一人いるのよ。いま保育園に預けているけど」


 そう言われるとだんだん親近感が湧いてくる。


「ってごめんねー。私、ついつい私情と仕事の境目がつかなくなっちゃって。仲良くとか言ったけど、いやだったら全然無視してくれていいから!」


 嬉しい、心に少し灯りがともった。


「嬉しいです」

「よかったー! じゃあ今日からお友達!」


 ニコニコする高田さん。明るくハキハキ話す彼女を見ていたら気持ちが楽になっていく。と同時に罪悪感を覚えた。


「わたし……。ダメな母親ですよね」

「えっ、何言っているの? ダメな母親なんてこの世にいない」

「だって、家事まともにやってない」

「それはだから病気のせいだって。気にすることない。全部旦那さんにやらせちゃえ」


 言ってみたらどう反応するのだろうか。家事? それは女の仕事だろうとか答えそうだ。それを高田さんに話すとまた一段と大きなため息。


「昭和初期かっ! 明治時代かっ! 取り残されているね。私ならそう言う」


 高田さんみたいに痛快に言えたらいいのに、わたしは言いたいことをいつもハッキリ言えない。急に涙が溢れてきた。


「ああ、ごめん、ごめんねえ!! てか私言うよ! 旦那さんいる時に呼んでよ。思いっきり言ってやるわ」


 そう言って、高田さんはメモになにかを書き出した。


「これ、私の電話番号だから。保健センターとか関係ない個人番号。辛くなったらいつでも電話して! そんでもって琴ちゃんの番号も教えて!」


 いつの間にか琴ちゃんって呼ばれている。わたしは涙をぬぐって、高田さんの書いた電話番号の下に自分の番号を書いた。瞬間で登録したらしい彼女が立ち上がる。


「よしっ、じゃあ私のことは麗奈でいいからね! ごめん、まだ他のとこ行かないとダメだからちょっくら行ってきます! 紅茶ごちそうさまでしたっ!」


 なんだか台風のようにやってきて、あっという間に去っていった高田麗奈さんの番号を見て、少しだけ微笑んだ。


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