☆第七章 こんにちは赤ちゃん!
「
いつもお世話になっている産婦人科の医師はニコリと笑った。五十代くらいの女の先生で、評判のいい医師だ。
「赤ちゃんは推定体重ですがちょうど、三キロ、つまり三千グラムくらいになっていますね。もういつ産まれても大丈夫ですよ」
先生の声を聞くとほっとする。お腹に手を当ててみると胎動はもう殆どなかったけど、明らかに膨れたお腹に自分以外のもう一人の人間がいることが信じられなかった。
「最近、また食欲が出てきました」
九ヶ月に入ったころから胃が圧迫されて食欲が落ちていたが、またお腹がすくようになっていた。
「それは赤ちゃんがそろそろ下がっているということです。楽しみですね」
暖かい医院を出ると、寒風が吹き荒れていた。一月の末は一年で最も寒い時期だ。インフルエンザもコロナも心配だから、携帯用のアルコール消毒液を常備して、マスクを二重にしているが、息がかなり苦しい。
家に帰って横になるとはぁぁぁあと大きく息をついた。重い。重いとは予想していたけれど重い。赤ちゃんが約三キロに加えて、胎盤と羊水と何かわからないけど色々含めて体重が増加している。でもそれが嬉しい。
早く出てきてくれないかな、とお腹をさすった。出産予定日は一月の二十二日、いい夫婦の日だ。
残念ながらいい夫婦ではなくなってしまった。学とはあまり会話をしていない。
学の実家からベビーベッドをなんとか持って帰ったけど、疲れたと言って学は眠ってしまったので、結局、わたしが組み立てた。
2DKのマンションには大きすぎるサイズのベビーベッドと、新しい布団と新生児用の服が並んでいる。姑さんからプレゼントされた巨大なテディベアがいまは
布団を買うのを最後にしておいてよかった。いまどきのベビーベッドは狭小住宅にも置けるようにコンパクトサイズがメジャーである。その、コンパクトサイズの布団を近くの店で購入済みだった。当然だが、ベッドに対して布団が
ひとまわり小さいということになる。
学が使用していたという年季の入ったベビーベッドは、どんな大きな赤ちゃんも受け入れてくれるであろう。ベッドの手すりにかけたハンガーに、シンプルなベージュの服、そして実家の母から送られてきたピンクのフリフリロンパース(どうしても着せたいらしい)と小さな靴下を洗濯バサミで挟んでかけている。
出産予定日まであと二週間か……とカレンダーを眺めていると急に生暖かいものが太ももの辺りに触れた気がした。なんだかおかしい。最初は尿もれかと思ってトイレに行ったが、次々と何かが流れ出てくる。これは……破水だ。
慌てて学に電話をかけた。
「もしもし」
「何?」
「破水した!」
「はすい……ああ、もうすぐ産まれるの?」
「破水した場合ってどうすればいいの?」
「さあ、病院に行けばいいんじゃない」
「いますぐ帰ってこれる?」
「えっ……仕事中なんだけど」
「でもこの状態じゃどうしたら……」
「ごめん忙しいから切るわ」
「えっ⁉️」
「初産って時間かかんだろ? じゃ」
はぁぁぁぁぁぁぁっ⁉ 信じられない。プツッと切れた電話をとりあえず机に置いた。
どうしたらいいのかわからず、とにかく深呼吸。
ええと、タクシーを呼んだらいいのかな。それとも救急車を呼んだらいいのかな? シュミレーションくらいしておくべきだった。なぜか当たり前のように陣痛が来ると思っていた自分はバカだ。陣痛より破水が先というパターンもあるだろうに。
誰に聞いていいかわからず、実家の母に電話をかけるが留守電、父に電話をかけても留守電。そうだ、産婦人科に電話!
電話をかけて、自力で来れそうなら大きめのナプキンをあてた状態で、タクシーで来院して下さいとのことだった。しかし、タクシー会社に電話をしたら断られてしまった。もう一度産婦人科に電話をする。ママサポタクシーなら対応してくれるとのことで、また電話。
出産前の妊婦を産婦人科に迅速に運んでくれるママサポタクシーは本来事前予約しておくものだが、予約なしでもすんなりと来てくれるそうだ。ありがたい。
タクシーは当然だが、マンションのエントランスの外にやって来る。さすがに家まで迎えに来てなんて言えない。
入院セットカバンを持ち、家を出て、ゆっくりゆっくり歩く、エレベーターまであと十メートルほど。
ああ、誰かどうしたらいいか教えてほしい。そう思っていたら、階段を上ってきたのはタクシー運転手だった。初老のおじさんだが、「大丈夫ですか?」と荷物を持ってくれる。
エレベーターで一階まで降りて、タクシーに乗り込むと後部座席にはシートが敷いてあった。
「防水シートなので安心してください」
なんだかこの間のおじいさんのように運転手さんが王子様に思えてきた。白馬ではなくタクシーに乗った王子様。あれ、オートロックなのにどうやって階段を上ってきたのかと、ふと思ったがいまはそれどころではない。
無事に産婦人科にたどり着いたら、荷物を持って受付まで付き添ってくれる王子様。
ああ、なんて親切なお方。
看護師さんがやって来てバトンタッチ。ここから一体どうなるのか。幸い破水はチョロチョロと羊水がでているみたいで、まだ陣痛はない。
「一人で来られたんですか?」
胸をえぐられるが、「はい」と答えるしかない。
「旦那さんに連絡はとりましたか?」
さらに胸をえぐられるが、これも「はい」と答える。
「陣痛はありますか?」
そう問われて首を振った。看護師さんはニコリと笑って
「では、いったん無菌室に移りましょう。大丈夫ですよ」
そうやって個室に通されたが、いままでにない虚無感と期待と不安と変な感情が入り混じっていた。タクシーの運転手がジェントルマンでなかったらわたしはいったいどうなっていたのだろうか……。しかし、だんだんお腹が痛くなってきた。
「よかったです。破水のあと陣痛が来ないと陣痛促進剤を使用することになるんですが、この調子で陣痛が進んだらいいですね」
ああ、陣痛というのはこの世で一番痛いという話を聞いたことがあるが、本当なのだろうか。お腹が痛い、あれ、痛くない。気のせいで、もしかして食べ 過ぎとか、こんなタイミングで胃腸炎とかだったら笑える。いや笑えない。
しばらくするとまたお腹がきゅううううと痛む。しかし、すぐに止む。なるほどこれが陣痛の感覚っていうやつか。
病室には時計がなかったので、テレビをつけた。無菌室にもテレビがあるのかと不思議な気分になったが、テレビは壁に埋め込まれていた。午後八時三十三分。学はいったいいつ病院に来るのか。もう、来なくてもいい気もした。こんなときになってスマホが鳴る。母からだった。
「ごめんー、近所の人とファミレスで盛り上がっちゃって」
呑気な母親だ。
「破水? ああ、そっちが先に来たのね。どう、陣痛はきている?」
うん、と答えると
「あー、これからちょっとだけ地獄で天国だから、頑張って」
というよくわからない励ましを頂いた。地獄で天国とは、つまり陣痛は地獄にいるかのように痛むけれど、それを乗り切ると天使に出会えるってことか。
「陣痛はいまどれくらいの感覚くらいなの?」
「わかんない、七分くらいかな……」
「お、いい調子じゃない。産まれたら行くから、準備しとくわ!」
奈良の実家からここまで車で三時間ほどかかる。
お母さん、学がいないんだけどどうしよう。って言いたくて言えなかった。
二時間後。
痛い、なんかよくわからない。いま何時なんだろう。学は何しているんだろう。痛い、痛い。
さらに一時間後、地獄。
「そろそろ分娩台に上がりましょうか、部屋を移動しましょう」
まさかの自分で歩くように言われた。
ええっっ歩くの⁉️
そろりそろり、分娩室は隣なのになんて遠いのか。一歩一歩進む。分娩台に上がれと言われても、それも自分で上がるの⁉️ だいぶセルフサービスなの……いだだだ……。思わずしゃがみ込んで約一分、少し痛みが和らいだ瞬間にまた歩く、やっと到着した。
「足をひろげてくださーい」
あああああああああああああ、足を広げる? ちょっとそれどころじゃないかも。
「はい、息を吐いてねー。ほら、ひっひっふー」
ドラマとかで見るやつ、ひっひっ……うっぐ。全然うまくいかない。
手すりみたいなヤツを全力で握る。握力そんなに強くないと思うけど、手すりが壊れそうなくらい握っていた。
誰かが部屋に入ってきた。
「産まれるよー」
この声は多分、先生だ。ああ、産まれる。その瞬間激痛が走る。
「いでででででで‼️」
「赤ちゃん、頭見えてきたねー」
もう何言ってるかわからない‼️
「出るよー」
MOST 最上級。最高の痛みだった。富士山レベルじゃないエベレストだ。
一気に雪崩が発生。
そのあと、しばらくして、おぎゃあ! という声が聞こえた。産まれた! 涙が出た。
「おめでとうございます。元気な女の子の赤ちゃんですよー」
助産師さんが赤ちゃんを見せてくれる。なんだこの生き物は! こんな子がお腹の中に入っていたんだ! 赤い、確かに赤い。だから赤ちゃんなんだ!
「おぎゃああああああああ!」
「すっごく元気がいいねぇ」
助産師さんがニコニコしている。確かにすごい声だ。思わず笑ってしまった。
奇跡だと思った。女の子が自分の横にやって来た。小さい手、小さい足、まだ閉じたままの瞼、意外にもフサフサの髪の毛、ああ人間が一人この世に誕生した。
十時を過ぎて
「旦那さんが到着しましたよー」と看護師さんが言う。
部屋に入ってきた学に
「産まれたよ!」と言うと、「あれ、もう産まれたの?」とか言うし、なんだろう、学はこの時間まで何をやっていたのか、学の職場からこの病院まで車で三十分ほどのはずなのに何をやっていたのか。ついに同居人から赤の他人にランクダウン。
ま、いいか。いまは娘の顔を見られたシアワセの方が大きかった。
わたしが出産した産婦人科は昔からある個人院で、外観はわりとシンプルなコンクリート三階建て。
院内にはオルゴールの優しい音楽が流れている。
個室でゆっくり休んでいたら、ものすごく豪華な朝ご飯が運ばれてきた。
クロワッサン、ミニロールパン、バター、ジャム、コーヒー、サラダ、ハムエッグ、オレンジ、りんご、ヨーグルト。ホテルっすか⁉
感激してものすごい勢いで食べてしまった。
授乳を始めましょうとのことで、授乳室へと向かう。
昨日、赤かった赤ちゃんは、今日は少しだけ人間らしい皮膚の色になっていた。
小さな腕も足も丁重に扱わないと折れてしまいそうで、抱っこする手が震える。
看護師さんが色々と丁寧に教えてくれる。母乳とやらは出産したら出る仕組みになっている。人間の体ってすごいな……。
ああ、小さいな、でもこれで体重三千二百グラムもあるのか。軽いような重いような、でもこの子の人生も背負うのかと思ったら、一気に体重が増えたような気がした。
授乳室にはわたしの他にも四人女の人がいた。ベテランって感じの人からわたしと同じく初産で戸惑っている人。
「初めての出産?」
隣の人に話しかけられた。
「は、はい!」
「もしかして昨日産んだ?」
「あ、そうです」
「うわーおめでとう! わたしはこれで三人目なの」
黒いストレートの髪を一つに縛ったその人は、同い年くらいに見えたが、色んな意味で先輩のようだ。
「三人も、すごいですね」
「いやー、もうなんか気がついたらって感じで」
赤ちゃんはそれぞれ足にネームタグがつけられている。早乙女ベビーと書かれたタグを見て、そうだ、まだ名前がないんだと思い出す。女の子はピンクのタグ、男の子はブルーのタグがついている。隣の人はブルーのタグだった。
「上はお姉ちゃんですか、お兄ちゃんですか?」
質問してみた。
「一姫二太郎、三太郎ね」
その人は笑いながらそう言った。
「あ、ごめん、わたしは中村っていいます」
「あ、早乙女です!」
話しかけてもらえて嬉しかった。初めての授乳、ちゃんと母乳出ているのかな? これでいいのかな?
「初産かぁー、懐かしいな」
前に座っていた女性が突然そう言った。
「わたし、五人目なの」
上には上がいた。
「す、すごいです……」
「五人、頑張りますねー」
その人はちょっとだけ老けて見えたからもしかしたら四十を過ぎているのかもしれない。
「あ、私は宮ノ
ベテランママに見とれていると、端っこに座っていた若い女性が
「あの……私も初産なので色々教えてください」と声を出す。
長い睫毛とパッチリ二重で可愛らしいピンクのパジャマを着ている。
「若そうねー、いくつか聞いても怒らない?」
「二十三です」
「若っ!」
なんだか和やかな雰囲気でほっとする。こうやってママ友さんってできるものなのかな。
「なんかさ、いままでの四人髪の毛フッサフサだったのにこの子だけ丸坊主なの」
宮ノ下さんがそう言って笑う。
「うちも全然、毛がないわ」
中村さんも笑っている。ベテラン勢は余裕が違う。
「あ、ごめん、名前より先に年齢聞いちゃった。お名前は?」
ピンクのパジャマの彼女は「クキです」と答える。
「数字の九に
「ええー、顔と名前が一致しないね」
「でも名前がマリアなんです」
「九鬼マリア……」
「結婚する人間違ったんでしょうか」
授乳室は笑いに包まれている。
久々に楽しいと感じた。そして家に帰りたくないなと思った。入院している部屋に帰ると、両親が揃っていた。父は腰の調子が悪いのか車椅子に乗っている。
「おめでとう!」
母に頭を撫でられた。今日はなんだかいいことばかりだ。
「赤ちゃんは?」
「あ、連れてくることができると思う」
新生児室へ行って赤ちゃんレンタル。
おじいちゃんおばあちゃんはメロメロで覗き込んでいる。
「ちっちゃい手~‼️ ほら、ばーばでちゅよ♥」
「じいじでちゅよ」
父まで赤ちゃん言葉で鳥肌が立ったがとにかく喜んでくれて何よりだ。
しかし、そこへある人がやって来た。昨日ランクダウンした赤の他人……我が夫だった。
「こんにちは」
「あら、学くん」
これは……もしかして。学は二重人格で我が両親の前ではいい夫を演じる。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
「琴のこと、これからよろしくね。ごめんね本当は里帰り出産できればいいんだけど」
「いえ、全然大丈夫です」
里帰り出産ができない理由は、奈良のど田舎の実家から一番近い産婦人科まで車で一時間以上かかるからだ。両親の住んでいる町では、出生数がゼロという状態が五年連続続いているらしい。
「まぁ一人目はゆっくり育児できるわよ。とはいっても一ヶ月くらいはあんまり動いちゃダメよ。まだ体が癒えてないからね」
母のその言葉に、さきほどお会いした宮ノ下さんと中村さんを思い出した。産まれたばかりの赤ちゃん&イヤイヤ期の二歳児&元気な小学生という組み合わせらしい中村さん。
宮ノ下さんに至っては長女が既に十六歳らしいので、母親二人いるようなもんで意外と楽よ。なんて言っていた。先輩方はすごすぎる。
「そうそう、名前は決めた?」
母に聞かれて、わたしは思わず学の顔を見た。学の両親が山のように案を出していたからだ。
「それが、うちの親が名付けたいみたいで、山のように名前の案を出してきて困っているんです」と苦笑いする学。
そんな顔、家では見せないのに。
「あらあ、どんなお名前なのかしら?」
「これです」
学は両親から預かったメモを取り出した。小さなメモなのにぎっしり文字が詰まっている。
「すごいわね、候補が十五もあるわ」
「どれどれ」
父もメモを受け取って眺めている。
「それで、二人はどの名前にしようと思っているの?」
母の質問に、「それがまだ全然相談できていない」とわたしが答えようとしたら、学が
「杏なんかかわいいなって思っています」と勝手に回答。そんな話全く聞いていない。
「杏ちゃんかぁ、可愛らしいね」
「おお、女の子らしいな」
満足気な両親を見ると何も言えなくなってしまう。
「琴もそれでOKなの?」
母が聞いてくれた。
「え、うん……、そうだね」
わたしは、曖昧な返事しかできなかった。娘の名付けはとっても大切なのだが、それよりも学の二重人格に全く気づかない両親。無理もないか、まるで狐のように化けるから。
「早乙女 杏 いい響きね」
「杏ちゃーん」
「杏ちゃーん」
とにかく嬉しそうな両親を見ていると、何も言えなくなってしまう。
お昼ご飯が運ばれてきた。
「まあああ、豪華!」
そう、とにかく食事が豪華な病院だと噂は聞いていたけれど、オシャレなレストランのように、洗練された器に盛られたカラフルな料理に思わず唾をのんだ。
「わたしにも一口」
「おい、お前は産んでないだろ」
「車を三時間も運転したのよ~」
「はいはい、じゃあ帰りにうどんでも食べて帰るか」
「うどん~⁉️」
両親が来てくれて嬉しい。学と二人きりだと何を話していいかわからない。ステーキがあったので、一枚母にあげたら大喜びで食べて、代わりにバナナを置いて帰った。
両親に連れられて夫も帰る。コロナが流行して以来、親族でも面会は一時間半までと時間が決まっていた。
三人が帰ったタイミングでまた授乳。終わるとひどい眠気に襲われて眠っていたら、また来客。今度はまさかの姑、舅ペアだった。聞いていない。
もちろん来てくださるのは嬉しい。だけど気を遣えるほどの余裕はなかった。
やっぱり出産は大仕事だ。倦怠感がまだなくならないし、いくら赤ちゃんが出たからといって急にお腹が軽くなるわけではない。出血もひどいし、座るだけでも会陰切開したお股が痛い。
当然、赤ちゃんも部屋に連れてくる。
「おめでとう!」
「ありがとうございます」
「いや~可愛い!」
姑さんが赤ちゃんを抱っこする。可愛いを連呼する姑さんはやはり悪い人ではない。
「これ、出産のお祝い」と頂いたのは地元ケーキ屋のプリン十個。
え、十個どうするの? わたしが食べるの?
「ありがとうございます……」
とにかく受け取るしかない。幸い、個室には冷蔵庫が完備されている。
「出産大変だった?」
「ええ、まぁ」
「学に似てるんじゃない?」
そう言って姑さんが娘の顔をじっと見つめる。
言われてみたら似てる気もするが、どうだろうか。
「いや、よかったよかった。初孫はいつかと本当に待ちわびていたから」
舅さんにも悪気はない。喜んでくれているのなら何より。
「二人目も産むんでしょ?」
姑さんの思いがけない質問に慌てる。
え、二人目? まだやっと一人目を昨日出産したところですが……。
「姉妹ってのもいいわね」
産むこと前提なのか。
「一姫二太郎がいいんだろう?」
舅さんも産むこと前提なのか。
「女の子ばっかりじゃ、早乙女の名が消えてしまうだろう」
「そんな古臭いこと言ってんのあなただけよ」
「琴さんはもう仕事辞めたんでしょう?」
また思いがけない質問だ。辞めていない。ただ産休をとっているだけだ。
「あの……辞めていないです。産休中です」
おどおど答える。
「あら、辞めないの? 女は家庭に従事した方がいいわよ~」
姑さんも古臭いことを言っているではないか。
「すみません、主任なのでなかなか辞めるってのは難しくて……」
「えっ、主任⁉️ 女なのに?」
女とか男とかいまの時代は関係ない。
「えー、じゃあこの子を保育園に預けて働くの?」
「そのつもりです……」
「もったいないわ。一歳、二歳とか可愛い時期に一緒にいられないのは」
そう言われてもどうしたらいいのか。
「二人目が産まれたら働くの大変よ~」
だからどうして二人目を産むことが決定しているのだろうか。
「女は家事も育児もやらなきゃいけないからね」
どうしてそれは女の仕事なのか。いまどき、イクメンパパもたくさんいる。だが、いまのところ学にそれは全く望めない状態である。
ああ、だからか。親がそういう価値観だから学は家事をやらないのか。
つまり、わたしは仕事、育児、家事。学は仕事。というアンバランスが想定される。
一時間ほどの滞在で二人は帰っていった。はぁとため息をつくと、授乳の時間だと言われて、授乳室へ向かう。
「えっ、姑さんと舅さんが来たの⁉️」
驚く宮ノ下さん。
「そんなに驚くことなんですか?」
「まぁ、たまにあるか……。でも基本は出産した本人の両親とか祖父母とか兄弟とかで、やっぱり夫側の親族が来たら気を遣うじゃん。産んだあとはゆっくり休まないといけないから、遠慮するのが普通」
そうだったのか。
「そうよねぇ……。しかも昨日産んだばっかりなんでしょ? 気の毒ね」
中村さんも頷いている。
「お邪魔します」
あとから九鬼さんが入ってきた。
「九鬼さんのところは誰がお見舞いに来た?」
宮ノ下さんが尋ねる。
「お見舞いですか? えっと、両親と姉が来ました」
「お姉ちゃんもいるのね」
「ええ」
「早乙女さん、産んだ翌日なのに姑さんと舅さんが来たそうよ」
宮ノ下さんの言葉に、ああ、と平然と答える九鬼さん。
「わたしは一緒に住んでいるので……」
「えっ、一緒に住んでいるの⁉️」
宮ノ下さんと中村さんの声が重なる。
「姑さんと舅さんは退院の時に迎えに来て下さいます」
「あんた、偉いわー」
宮ノ下さんが急に関西弁になる。
「わたしは明日退院なんです」
「わたしも」
宮ノ下さんと、中村さんは明日退院するらしい。その時、新しい人が授乳室に入ってきた。パーマをかけた髪で小柄な女の人が赤ちゃんを抱いていた。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
少し緊張した様子だ。
「新入りさんね、いらっしゃい」
授乳室という空間はもしかしたら交流室みたいなものなのかもしれない。
「朝に産まれました」
「あら、おめでとう」
青いタグがついているから男の子だ。こうやって授乳室のメンバーは入れ替わっていくのか。
出産して二日目から沐浴教室などの講座が始まる。助産師さんが、人形の赤ちゃんを使ってベビーバスでお風呂に入れる方法を教えてくれる。お湯の温度はぬるめがいい、三十五度から八度くらいでそっと入れてあげてね。と人形をそっと湯船に入れる。タオルではなくてガーゼを利用して優しくふく。顔も洗う、髪も洗う。ドキドキしながら見ている。
「じゃあ実践してもらいましょう。代表で……早乙女さん、赤ちゃんを入れてみて下さい」とまさかの指名。
杏……で名前が決定したのか、とにかく娘をそうっとベビーバスに入れる。緊張する、溺れたらどうしようとか、まだ目がぼんやりとしか開かない娘は助産師さん曰く殆ど見えていないそうだ。お湯に入れると、ほーっとした顔をする。
左手で支えながら頭を洗い、体を洗う。気持ちいいのかな?
「その調子です」
こうやって色々覚えていかなければならないんだなぁ。
入院生活はあっという間だった。学は一応、仕事終わりにやって来てくれていた。
「退院の日は迎えに来れそう?」
「何時?」
「午前中」
「午前中かぁ……」
カバンからスマホを取り出して何かを確認している。
「ちょっと厳しいな」
「退院って誰も迎えに来なかったらどうしたらいいんだろう?」
そう言うと学はふうーと大きくため息をついた。
「仕方ないから迎えに来るよ」
仕方ないから来るのか。仕方ないのか。
そうやって退院の日を迎えた。わたしより先にベテランの宮ノ下さんと中村さんは既にいなくなっていたので、九鬼さんが声をかけてくれた。
「住んでいるのってどこですか?」
「旭ヶ丘町です」
「あ、残念。わたしは細井町です」
同じ市内でも正反対の場所である。
「また会えたらいいですね」
笑うと本当にお人形のように可愛い九鬼さんはとても優しい子だった。
「ばいばーい」
助産師さんが娘に手をふってくれる。看護師さんも手をふる。
うちには車が一台ある。わたしも免許を持っているが、基本的には学が通勤に使用している。白いコンパクトカーに乗り込んで家へと向かう。
大量の荷物と娘と一緒に帰宅した家の台所には大量のカップ麺の汁がそのままにされていた。冬でよかった。夏だったら虫がわいている。
「オレ、悪いけど仕事行かなくちゃいけないから」
「うん、ありがとう」
わたしを家に送った夫はあっという間に消えてしまった。
一応、退院の日に迎えに来てくれたので、赤の他人から再び同居人にランクアップ。
出生届は出産より十四日以内に出さなければならない。思い切ってメッセージを送る。
『娘の名前、何にする?』
娘はいまのところベビーベッドですやすや眠ってくれているので、少々荒れた家の中を片付ける。洗濯機を回して、炊飯器に米をセットしたらメッセージが返ってきた。
『杏で決まったんじゃないの?』
そんな簡単に決定でいいのだろうか。早乙女杏、可愛らしい名前ではあるし、反対ではない。わたしは紙とペンを用意して書いていく。
早乙女 杏
早乙女
早乙女
早乙女
早乙女
早乙女
他にもいい名前がないか、名前辞典をパラパラめくる。流行りの名前から古風な名前まで色々載っていて、ちょっと驚くような名前もある。しばらくすると赤ん坊が泣き始めた。
「ああ、ごめんごめん」
慌てて抱っこをしてあやしていたら、パソコンから「ピロン」って音がした。これは、メール受信。会社以外メールを使用していないので百パーセント会社から。
赤ちゃんをあやしながら、マウスを操作してメールを開くとウサギだった。
一応、出産した二日後に、会社に出産しましたと連絡した。
あれからまだ四日しか経っていない。おめでとうとかのメッセージではないのかと落胆した。
赤ちゃんには昼と夜が存在しない。特に新生児はそうだと聞いていたが、夜中の授乳は過酷だった。
午後九時、就寝、午後十一時起床、授乳後また寝る。午前一時起床、授乳後また寝る。
時計を見るのが面倒くさくなり何時かわからないけれどまた起きる。寝る。起きる、寝る。朝が来た。
ねみぃぃぃぃぃぃぃ……zzz
一晩でげっそりしてしまった。産婦人科にいた時は、お母さんがしっかり休めるようにと、昼間のみ授乳で夜間は看護師さんがミルクを与えてくれていた。これが毎日続くのかと思うと恐怖を感じる。幸い母乳はしっかり出ていて、夜中にミルクを作る必要はないのだが、眠い。
大きなあくびをしながら洗濯機を回していると、玄関のドアが閉まる音がした。学が出勤する音。いってきますくらい言ってほしい。
いままで夫婦同じ部屋で寝ていたが、仕事に支障をきたしたくないと言う学は、隣の部屋に布団を引きずっていった。
しばらくは引きこもりの生活だ。買い物は学に頼んだが、少々おかしいことになる。鍋に入れるきのこを買ってきてと言ったらなめこを買ってきた。
「なめこ?」
「きのこだろう」
「きのこだけど……鍋がぬるぬるになるよ」
「え、そうなの? なめこがダメなんだったら具体的に書いてくれ」
と言われたので、具体的に色々書いてみた。
『合い挽きミンチ300グラム』と書いたら夜の七時ごろに電話がかかってくる。
「合い挽きって何?」
知らないのか。いつも食べているハンバーグの素材などきっと知らないのであろう。豚と牛のミックスだと答えると、難しいと言われた。
「豚肩ロース……?」
「もう、何でもいいよ」
「なんだそりゃ」
「豚肉なら何でもいい」
独り暮らしをしていた時に何を食べていたのだろうか。わたしが知る限り自炊をしている様子はなかったが、毎日コンビニ弁当でも食べていたのだろうか。
「無洗米? って何?」
「お米売っているところに行ったらあるよ」
「何? 洗ってない米なのか?」
「逆だよ。洗ってある米なんだよ」
「意味がわからない」
そこ、別にこだわらなくていいから黙って買ってきてほしい。
学との電話以外は基本、毎日が平凡に過ぎていく。杏という名で出生届を提出して、結局なんだかんだで早乙女杏に落ち着いた娘。まだいまは眠っている時間が長い。
やはり体が疲れているのか、カイトの動画を見る気もしなかった。
カラオケも新生児がいるから行けない。
二月の空はくすんだ色をしている。二月二日、今日は