☆第五章 産休とります。ご迷惑おかけします。
季節は流れて、街路樹の葉が赤く染まりハラハラと舞っている。
お腹が随分大きくなって、マタニティ服を着て出勤する日々。忙しいけれどお腹の赤ちゃんと対面する日が楽しみで仕方ない。予定日は一月の下旬だ。
「早乙女先輩、すみません今日どうしても帰らなくちゃいけなくて……これ、お願いしてもいいですか?」
わたしより五歳年下の
今日も睫毛は上向き、グロスはキラキラ。
そう、私はお人好し。「いいよ」以外の返事はない。
「ありがとうございます! やっぱり先輩頼りになります!」
そうやって何度か彼女の仕事を引き受けたことがある。
彼女はおばあちゃんと一緒に暮らしていて、そのおばあちゃんの足腰が悪くて、病院へ付き添ったり、お風呂の介助などしなければならない。と聞いていた。
見た目は派手だと思ったが、優しい子だ。
午後八時、いつも以上に帰宅時間が遅くなって慌ててご飯を用意しようとしたが、疲れて横になっていたら眠ってしまった。
「おい」
夢うつつで誰かの顔が見える。
「琴っ」
慌てて起きると学の顔。
「……あれ?」
「夕飯」
部屋の時計を見ると九時を過ぎていた。
「ごめん、寝ちゃってた」
学は何も言わずキッチンへ向かう。何か作ってくれるのかなって期待した自分がバカだった。
冷蔵庫の扉を開けてお茶を取り出し、飲んだあと、玄関へと向かう。
「牛丼食ってくるわ」
そう言って、学は家を出ていってしまった。
牛丼買ってくるわ。ではなくて食ってくるわ。つまりわたしの分は? スマホを手にとって聞こうかと思ったけど辞めた。
冷蔵庫を開けて野菜ジュースを一気飲みした後、ポテトチップスを一袋食べた。赤ちゃんごめん。ちょっと脂っこいかもしれないけど許して。
産休まであと一週間となり、多忙を極めていた。なんせトータル一年以上休むことになるので、仕事を残していくわけにはいかないし、引き継ぎも必要だ。
後輩の葉月やウサギに引き継ぎであれをやってほしい、これをやってほしいとどんどん資料を渡していく。
「早乙女先輩がいないと不安ですよぉ」
ウサギ、こと
「ごめんね。何かわからないことがあったらいつでもメールとか電話とかして」
「じゃあ毎日します♪」
「えっ、毎日⁉️」
ウサギは遠慮を知らないのか。さすがに冗談だろ。
昨日、会社から少し離れたケーキ屋さんに大量のクッキーを発注した。産休に入る前に社員たちに配る予定である。
「産休中、ご迷惑をかけます」と書かれたクッキーも最近は販売されているが、わたしが注文したのはかわいい動物クッキーだった。そこの店にしたのは、見た目もかわいいが味がいいからだ。
怒涛の日々が過ぎていく。仕事を終えたのは夜の九時だった。
もうオフィスには誰一人残っていなくてわたしが最後。
デスクの中のいらない資料をシュレッダーで粉砕して、パソコンの中身も整理した。
外へ出ると、もうすっかり冬の空気が満ちていて、月が綺麗だった。
先に帰ったウサギはもしかしたら月で一生懸命モチをついているのかもしれない。そんな満月。
駅までの道を急ぐ。繁華街を通りぬけたところにバス停があるのだが、ふと誰かが座り込んでいるのに気づいた。
フードを深く被っていて下をむいているので顔はわからないが、体格からして男性だ。彼の前には欠けたお椀が一つ置いてあった。そして油が染み込んだような紙にこう書かれていた。
『派遣切りに合いました。お金がありません。ほんの少し恵んでください』
男性のズボンの裾はほつれているし、パーカーも随分汚れている。一回通りすぎたが無視できずに戻ってきた。
カバンの中から財布を出して、小銭入れに入っていた硬貨を全部お椀の中に入れた。
中途半端になぜか五十円玉がたくさんあった。多分八枚くらい。
そして近くの自動販売機に千円札を入れる。あったかい飲み物は、コーヒー、紅茶、おしるこだった。迷った挙げ句、紅茶のボタンを押すと、ペットボトルがゴロンと出てきた。
「どうぞ」
わたしはそれを男性に差し出した。ほんの少し顔をあげた男性の顎には無精髭がたくさん生えていた。
「あり……がとうございます……」
男性はそれを受け取ると抱きしめるように持った。やっぱり寒いのだ。
今日の気温は最高気温十三度、最低気温は六度である。こんなところにコートも着ないでじっと座っていたら寒いに決まっている。
「風邪ひかないように気をつけてください」
そう声をかけて立ち去った。
世の中には辛い思いをしている人がたくさんいる。子どもだって妊娠したくてもできない人もたくさんいる中で、自分は子どもを授かることができた。
これは幸運なことだ。そう思うと勇気が湧いてきた。
いよいよベビー用品を買い揃えて、名前もちゃんと考えなくちゃ。
エコー検査でお腹の赤ちゃんが女の子だということはわかっていた。
いろんな名前を頭で思い浮かべる。
近くにあった本屋で名付けの本を購入した。産休に入ったらゆっくりと考えよう。
勤務最後の日に、わたしはあちこち部署をまわって例のクッキーを渡す。
「出産頑張れ!」「産まれたら教えてねー」「早乙女さんいないとさみしいわ」
皆、励ましの言葉をかけてくれる。あっという間にクッキーはゼロになった。
終業のチャイムが鳴って、「お疲れ様でした」と挨拶をして会社を出ると、雪がチラついていた。大通りのイルミネーションが綺麗だ。
ああ、もうすぐクリスマスだな。
学と付き合い始めたころ、クリスマスを一緒に過ごしたことを思い出す。
「これ」
学がわたしに小さな包を渡した。ピンクというより朱色という方がしっくりくる包装紙にくるまれたそれを開けると、小さなイヤリングだった。雪の結晶の形をしている。
「ありがとう」
感激したよな……。あのころはよかった。学は優しくてもっと笑顔だったのに、どうして最近は笑ってくれないんだろうか。
結婚してから会話は随分と減っていた。今日は残業だとか、牛乳がないとか最低限の会話しかしていない。
会社の上司に一度相談をしたことがある。
松山さんという四十代の女性で課長だが二人の子持ちだ。
「あの……わたしの夫がお腹の子どもにあまり興味を示さないのですが。男の人ってそういうものですか?」
昼休みにお弁当を食べていた松山は箸を止めた。
「あーなるほど。男の人にもよるけど、どうしても自分の体のことじゃないから、わかんないのかもね。でも実際産まれたら可愛くなるものじゃないかな。うちの旦那は産まれる前から娘を嫁にはやらないとか言ってたけど(笑)。早乙女さんも確か女の子だったよね? だったら、そのうち可愛くて仕方なくなるんじゃないかな」
そういうものなのかな。まだお腹の中にいて見えないからピンとこないのだろうか。
「まぁ、いまは娘も中学生になってパパと一緒にお風呂も入らないし口もだんだん聞かなくなってきたから旦那は寂しい寂しいってウルサイよ」
「そうなんですか」
松山さんの言葉を信じることにした。娘の姿を見たら学もメロメロになるのかもしれない。
色々考えながらバスを待っていると、机の引き出しに大事なものを忘れたことに気がついて慌てて会社へと戻る。
例の松山さんが「出産頑張って」と言って、よだれかけのセットをプレゼントしてくれたのに、それを忘れてきたのだ。
ああ、バカだなぁ。せっかく頂いたものなのに……。
商品開発部は会社の三階である。エレベーターに乗り、三階で降りると、給湯室の電気がついていた。誰かの話す声が聞こえる。
「あ、クッキー忘れてた」
「先輩にもらったやつ?」
この声は、ウサギと葉月だ。
「オレいらんから葉月食べろよ」
「えー、いらないよ」
「これが噂の産休クッキーってやつか」
「早乙女先輩ってやることがいちいち普通っていうか」
「確かに。オレ今日の朝、もしかしたら先輩はクッキーを配るんじゃないかって予測してたらビンゴすぎた」
ちょっと待て、ウサギは自分のことをオレなんて言わないはず。
「クッキーごときで休まないでほしいよね。主任なのにさ」
「どうせ産むならもっと早いペーペー社員のうちに産んでおきゃいいのにね」
「だよなぁ、責任の重さをわかっていないっていうか」
「しかも育児休暇もあるんでしょ?」
「一年くらいないんだよな」
「あー、仕事増えるの嫌だなぁ」
足がすくんでいた。
「子ども産んだあとってさ、結局保育園のお迎えとかで残業できないとか、熱で呼び出されたりとか、その分の仕事誰がやんのさ。ってなったらどうせわたしたちじゃん」
「それでも主任なんだろ? 休みの間も給料出るって」
「うらやまし~」
「お前も妊娠しろよ」
どうしよう、足が動かない。なんだろう、どうしたらいいんだろうか。
「悪いけど捨てちゃお」
ぼんって音がした。いまの音はもしかしてクッキーを捨てた音なのか。
「妊娠しろよってわたしは独り身なのに」
「オレの子いる?」
「やだ、気持ち悪い!」
「うわ、傷つく」
「あんた二重人格ヤバすぎ。みんなの前でかわいこぶってるのに」
「だって可愛いから」
「あー寒気する」
「早く帰れよ、足腰悪いばあさんが待ってるんだろ」
「待ってないよ。猫が待っているだけー」
「お前に言われたくないよ。二重人格女」
「嘘じゃないよぉ。だって十四歳の猫だもん」
わたしはエレベーターの下がるボタンを押して静かにその場を立ち去った。
仕方ない、だって迷惑かけるんだから。仕方ない……でも。
バス停に向かう途中で涙が溢れてきた。すると、追い打ちをかけるようにある人と出会ってしまう。
「あれ、早乙女さん?」
商品開発部の部長だった。慌てて涙をぬぐう。
「お疲れ様です」
「お疲れ様。ああ早乙女さんはバス通勤だったね」
「ええ、部長は車ではないんですか?」
いつもは真っ赤なスポーツカーで出勤している。
「ちょっと車こすっちゃってねぇ、修理中なんだ」
「そうなんですか……」
部長と一緒にバス停に並ぶのは嬉しくない。が仕方ない。
「お腹大きくなったねぇ」
「もうすぐ九ヶ月ですから」
「あ、そうそう今日のクッキー美味しかったよ。ありがとう」
なんだ、ちゃんと食べてくれている人もいるんだとほっとしたのもつかの間だった。
「早乙女さん、育児休暇一年取るんでしょ? もうちょっと短縮ってできないの?」
「えっ……」
唐突な話である。
「ほら、保育園って確か六ヶ月くらいから入所できるって聞いたから」
確かにそうだ。世間の保育園は大概、生後半年から入所できるところが多いが、保育園の入所は基本が四月スタートなので、一月末に産まれたとして、半年後は五月末になる。
そこで入所させるのは相当むずかしい、というか不可能に近い。
なので、冬産まれの赤ちゃんは大概一歳オーバーしてから保育園に入ることになる。という事情を部長が知っているとも思えない。
「すみません……」
説明しようかと思ったが、なんだか言い訳しているような気がして辞めた。
「早乙女くんがいないと困るよ」
思わず作り笑いをする。頼りにされている、と捉える。
「すみません……」
また謝ってしまった。早くバスが来ないだろうか。
「できれば、来年の夏くらいには帰ってきてほしいんだ。よろしく頼むよ」
そんな無茶な。と言いたい。やっとバスが見えたが、赤信号で止まっている。
「あの部長……」
「なんだね?」
「やっぱり育児休暇って迷惑なんですか……?」
こんなことを聞くのも何だが、正直どうなのだろうか。
「うん」
ハッキリした答えだった。何と返事していいかわからない。バスがやって来た。
バスに乗り込んでできる限り部長と離れるために奥の方に向かうが、今日もやっぱり席は空いていない。つり革をもって、はぁと息を吐く。部長は隣に来なくていいのにやってきた。空気を読んでほしかった。
「いや~イルミネーション綺麗だねぇ」
悪い人ではないんだと思う。マタハラではない。でも、はっきり迷惑だと言われたのはさすがにショックでわたしは黙っていた。
五駅目で部長は降りた。わたしは呆然としたままバスの中で立ち尽くしていた。