☆第四章 お姫様、あなたのお名前どうされますか?
ある日、思い切って打ち明ける。
「子ども欲しくない?」
学は表情を変えなかった。「まぁ、おふくろもウルサイしな」
おふくろを納得させるために子どもを作るのか。とツッコミたくなったが、もう年齢的にもそろそろ産まないといけない気がした。三十五歳を過ぎて、あ、やっぱり子ども欲しいと思っても簡単にできるかどうか怪しい。
学は何事もなかったかのようにわたしの体に命を宿した。
父親の遺伝子を別人に変えたい気持ちはあったけど、そんなの無理だから……なんて思っていると、僅か一ヶ月後には妊娠検査薬で陽性反応が出た。素直に嬉しかった。
ネットで色々調べる。先に調べてから妊娠しろと言われそうだが、わたしは友達が少ないので、体験談などあまり聞くことがなかった。
一応既婚の兄はいるが、北海道に転勤になったきり、ほぼ音信不通だ。
甥っ子と姪っ子には滅多に会うことがない。いま確か一歳と五歳だった気がするが、年齢もあやふやなくらい連絡をとっていない。
実家は奈良県の南部のど田舎。タヌキ遭遇回数十回、イノシシの子ども遭遇回数一回、スズメバチ遭遇回数一回、マジ怖かった。
十八歳で大阪に出てきた時に、別世界に来たような感覚だった
駅のホームにはたくさんの人が列をなし、電車は三分に一本くらいのペースでやって来る。駅前にたくさん停まっているタクシーを見て、自分の故郷の人口よりもタクシーの数の方が多いのではないか、なんて思った。
外国人もいるし、ビルは高いし、異世界だ。
実家から大学に通うのは不可能だったので、独り暮らしを始めた。
フローリングが光る、ワンルームのアパート、家賃は五万円。何も知らない無垢な少女は都会の片隅にそっと引っ越した。
妊娠検査薬を右手に握ったまま、玄関の前で正座をしていた。
ドキドキ、ワクワク。
午後九時二十分、我が夫が帰宅。すかさず彼の前に検査薬を出す。
「何それ?」
「妊娠検査薬。陽性反応だよ」
この時の自分はニコニコしていた。
「ふーん」
予想外のそっけない返答に驚いて、立てなくなってしまう。
「あれ、ご飯は?」
は? ご飯?
学に早く伝えたくて、玄関で座り込んでいたら、足がひどく痺れていることに気づかなかった。ご飯のことすら忘れていた。
「ねえ、ご飯は?」
我が夫、無反応。ご飯は自分で炊け。
涙が出そうだ。喜んでくれて当たり前だと思っていた。妊娠なんて学にとってどうでもいいことなのか。
嬉しいはずなのに、眠れなかった。この時『りこん』の三文字が頭をチラついたが、産まれた赤ん坊にパパがいないのはどうなのか。
さっきまでの幸福感が急に不安へと変化していく。
妊娠したからといって会社を辞めるわけでもないので、翌日から普通に出勤する。
幸いだったのはつわりが軽かったことだ。会社へ出勤する満員バスが少々苦痛な程度で、吐き気に襲われることもなかった。
一番喜んだのは実家の両親で、まだ妊娠四ヶ月なのに、ベビー用品を購入しようとしていた。
奈良のど田舎にベビー用品を売っている店もないので、ネットショッピングであれを購入しようか、これにしようかなど電話がひっきりなしにかかってくる。
写メを見て呆然。フリフリレースのピンクのロンパース。
姫を産まなければならないようだ。
父も母も元気なのだが、父はヘルニアで腰が痛くて、母がいつも車に乗って二十分かかるスーパーまで買い出しに行っていた。
そして浮かれているのは、学の両親もだった。
「名前はそうねぇ、早乙女が三文字だから一文字がいいわね。
学の母親の名前が
単純すぎる。
「いやー女の子って決まったわけじゃないだろう」
学のお父さん、ナイスつっこみ。
「男の子だったら
姑と舅が二人で勝手に名前候補をどんどん挙げていく。わたしは適当に頷くしかなかった。
夏が過ぎて、秋が来ても残暑が厳しくて、うっかりしていたのか九月になってから出てきた蝉が必死に鳴いていた。
わたしも久々にカラオケに行って鳴くことにした。
「勝手に名前決めんじゃねぇええええええええええ‼️」
学に対しても不満は溜まりに溜まっていた。
「ちょっとは妊婦に優しくしろぉぉぉぉおぉ!」
蝉がびっくりして鳴くのをやめるくらいのデシベルで鳴いてみた。
すっきりして家に急ぐ。もう七時を越えている。早く家に帰ってご飯を用意してお風呂を沸かして……。つまずいた。
べしゃ!
残念な転け方だった。アゴを強打して激痛が走る。お腹も軽く打ち付けてしまった。大丈夫だろうか⁉️
転んだ場所は自宅マンションの近くだった。一人ゆっくり起き上がると急に涙が出てきた。
「うぇぇぇぇ……」
幸い、周りに人はいなかったが、こんな調子で大丈夫なのだろうか。
その時「大丈夫ですか?」と声がした。振り向くと七十代くらいのおじいさん。
おじいさんが年輪のように皺を刻み込んだ手を差し出してくれた。
「ありがとうございます……」
わたしはその手を握って立ち上がって急に恥ずかしくなった。
おじいさん……もしかしたらこの人がわたしの本当の運命の相手なんじゃないか。
カイトはやっぱり二次元の存在だから、三次元の王子様ついに現る⁉️
白馬に乗ったおじいさんがやっと迎えに来たのかもしれない。
「気をつけてくださいね」
そう言い残して、白馬の
帰路につくと、珍しく学の方が先に帰っていた。
「ごめんね遅くなっちゃって」
慌てて靴を脱いでリビングにあがると、机の上にはカップラーメン……が一つ。
「遅くなるなら連絡くれよ」
そう言って学はラーメンの蓋を開けて沸いたお湯を注いでいる。そして一人ずるずるとラーメンを啜りだした。
ああ、王子様だったらテーブルに二つのラーメンが並んでいて、きっとわたしの分までお湯を注いでくれるだろうに。
王子様は何も言わずともきっとわたしが好きな豚骨をチョイスする。
そうに決まっている。
コイツは王子様ではない。夫でもない。同居人。
ランクは日々下がりゆく。