1
碇屋さんをおいて、オレはビルの中に駆け込んだ。
エレベーターに向かいかけたオレの肩に、クマちゃんが乗っかってきた。そしてその短い手で横を指した。
その先には非常階段の標示が──
「そうか!」
今のオレの身体能力なら、エレベーターより階段を駆け上がる方が早いな。
進路変更。オレは重い金属のドアを開け、非常階段に飛び込む。
「おお…」
手すりと手すりの間から、非常階段がずっと遠くにまで続いているのが見えた。
三二階…あらためて見るとすごい高さだなぁ。
ひるみかけた心を、頭をぶんぶん振って追い出し、オレは大きく息を吸い込んだ。そして、
「うぉおおおおおーっ!」
気合いを入れる叫びを上げ、階段を駆け上がった。
五階…八階…十二階……。
息が上がってきた。でも、休んでなんかいられない。
早く、早くミナの元に…!
二〇階…二五階…三〇階……!
「ぜぇぜぇ…」
や、やっと最上階に着いた。足がガクガクしている。
深呼吸して霊体を活性化させ、疲労を回復させる。
「え?」
ドアに手を掛けると開かない。鍵が掛かっているんだ。
「くっそ! こんな時に──」
頭をかきむしっていると、クマちゃんが「オレに任せろ」という感じで前に出た。
「おい、まさか…!」
予想は的中。あの脳筋ヌイグルミはドアに跳び蹴りをかましたのだ!
霊体を活性化させた上、魔力を乗せたパワーMAXの蹴りである。
ものすごい音を立てて、スチールのドアがへこみ、蝶番の破片を飛び散らして吹っ飛んだ。
これ、絶対ウラドに気づかれたぞ。
頭を抱えるオレに、クマちゃんは胸を張ってドヤった。
「えぇい! すんだことはしょうがない、今はミナを助けないと!」
オレは覚悟を決め、屋上に飛び出した。
三二階、一二〇メートルを超える高さの屋上は、強い風が吹いていた。
冷たくて、ぞっとする風だった。ビルの屋上のせいばかりじゃない。
上にゆらめくスプライト──空間の歪みで起きる風だ。
そのスプライトの下、光る魔法陣とその中に横たわるミナがいた。
ミナは甲冑姿のまま目を閉じている。霊体の反応からすると、昏睡状態にあるみたいだ。
そして、その魔法陣の前にヤツがいた。
「サルが、邪魔をするか!」
風にコートをはためかせたウラドが、オレをにらんで言った。
「ミナは渡さないぞ」
オレは「わぁああ!」と子どもみたいに叫んで、ウラドに殴りかかった。
毎朝の魔法修行で帝国の格闘術をたたき込まれているんだ。
実戦経験はないけど、それはウラドも同じはず。前にヤツは奇襲とはいえクマちゃんに一発殴られたことがある。
オレだって!
握りこんだ拳に魔力を乗せ、ウラドのムカつく顔面に叩きつける。電柱くらいならたたき折れるほどの威力があるはずだ。
「え?」
オレの拳がウラドの手の平に受け止められていた。
渾身の一撃だったのに、ウラドは、いとも容易くオレの拳を受け止めたのだ。
「覚醒第二段階か」
ウラドは鼻で笑い、オレの拳をつかんで持ち上げると、片手一本でオレを放り投げた。
五メートルは離れた場所に放り出された。
「くっ!」
なんとか受け身をとれたからダメージは大したことはない。
でも、オレは転がったまま動けなかった。
ウラドは、こんなに強かったのか!?
オレとヤツの力の差は絶望的なまでに大きい。拳をつかまれた時にそれがわかった。その事実に、オレの身体は固まってしまったのだ。
オレはウラドに勝てない。万に一つもオレに勝ち目はない。
「だからといって、引き下がるわけにはいかないんだ!」
ありったけの気力を動員し、オレは立ち上がった。
絶対に、ミナを助けるんだ!
2
「この短期間に、第二の霊鎖を解いたことは誉めてやろう」
ウラドが、尊大にオレを見下して言う。
「私が贈ったマナウェルのおかげかな?」
ウラドがオレの家に来た時、ミナが、ヤツの覚醒は第三段階──つまりオレの一つ上だろうと言っていた。
つまり、オレとヤツの戦闘力は一〇倍の差があるということだ。
「それが…なんだ!」
自分を奮い立たせるため叫ぶと、オレはウラドに向かって行った。
突き、蹴り、もう一度蹴り、そして回し蹴り…からの体当たり!
「ふん。ふふん。ははは」
オレの攻撃すべてを、鼻で笑いながらウラドがかわす。
クマちゃんに殴られ、頬を押さえていたヤツとは別人だ。あの時は力を隠していたのか。
「うおぉおおお!」
大きく踏み込んで右の肘打ち、裏拳、左の突き、蹴り、回し蹴り…と見せかけて浴びせ蹴り!
あらん限りのコンビネーションをたたきつける。でも、そのすべてがギリギリのところでかわされる。
「猿まねにしては上出来だ」
パチパチとウラドは手を叩いてみせた。その余裕にハラが立つ!
正攻法じゃ絶対勝てない。
ヤツとオレとの力の差は絶望的だ。だったら──
オレは一旦距離を取ると、左足を前に、右足を後ろにしたファイティングポーズに変更した。
「ひゅおおおお~っ!」
気合いだか呼吸音だかみたいな怪鳥音と呼ばれる声を上げ、トントンとステップを踏みながらウラドへの距離を詰めてゆく。
「この世界の格闘技か?」
「そうだ。この世界最強の格闘技ジークンドーだ!」
伝説のアクションスター、ブルース・リーのマネをオレはしているのだ。
トントントントン…ステップを踏みながら、オレは円を描くようにして間合いを近づけてゆき──
「アチョオっ!」
と、蹴りを放つ。ウラドはあっさりかわしたものの、
「なんだそれは?」
と、少し困惑してた。
よし! いける!
トントントントン…ステップを踏み、円を描くようにして移動する。
「アチョっ! アチョオっ!」
次々と蹴りを放つ。でもウラドにはかすりもしない。
「アチョ──うぶっ!」
蹴りをかわされたついでに顔を殴られた。
「馬鹿めが」
二度、三度と殴られる。
「私が知らない格闘技なら通用すると思ったか? やはりサルだな!」
立て続けに殴られる。
ウラドは無造作に手ではたいているとしか見えない。そんな攻撃なのに、オレは反撃どころか防御さえできない。
痛い。すげぇ痛い。
霊鎖を解く前だったら、一撃で死ぬくらいの打撃だ。
それでもなんとか立っていられるのは、霊体を活性化させて魔力で治癒しているからだ。
「どうした? 鳴けっ、踊れっ!」
何度も殴られる。
適当な攻撃なのに、オレはかわせない。防げない。力の差がありすぎるんだ。
目がかすみ、気が遠くなってきた。
魔力での治癒も限界かもしれない……。
アクションスターのマネをしたって通用するわけはない。そんなことわかっている。
──オレのねらいは別にあるんだ。
オレのおかしな、そしてまるで駄目な攻撃にウラドが気を取られている間に、クマちゃんが、ヤツの背後に回り込んでいた。
そして、満を持して殴りかかった!
「愚かな」
背後から殴りかかったクマちゃんを、ウラドは振り向きもせず裏拳で叩き落とした。
「クマちゃ──ぐえっ!」
直後、ウラドに蹴飛ばされ、オレは後ろに吹っ飛んだ。
「このような猿知恵、気づかぬと思ったか?」
ウラドが、転がったオレを尊大に見下す。
勝ち誇っていやがる。
オレとウラドの実力は天と地ほども開きがある。オレが何をしたところでヤツに勝てるわけがない。
──そんなこと、ハナからわかっているんだよ。
「……気づくと思っていたよ。計算通りさ」
屋上のコンクリに転がったまま、オレは手の平に魔力をこめた。
ばしゅっと音を立てて、
「貴様…!」
ウラドが驚きに目をむいた。
そうだ。
アホみたいなブルース・リーのマネも、クマちゃんの奇襲も、すべてはオレをミナのもとに吹っ飛ばしてもらうための仕掛けだったんだよ。
「またそなたに助けられたな、ハジメ」
少し舌足らずなかわいい声。
でもその萌えボイスは、とてつもなく力強く、頼もしいものだった。
オレの姫騎士。帝国の剣聖。
ミナが復活したのだ!