1
ミナがこの家を出てもう戻らないと知ったクマちゃんは、オレの代わりに見送ろうと考えたようだ。
黒スーツの女がミナの服を取りに来たのを見て、千載一遇のチャンスだと紙袋の一つに潜り込んだのだった。
そして紙袋に潜んでいると、とんでもない会話が聞こえてきたのだ。
「長い…本当に長い道のりでした」
ウラドが大きく息をついて言った。
「お主は三〇年ほどもこちらの世界にいたのだったな。親しき者たちと別れはすませたのか?」
「親しき者? そんな者はいませんよ」
ウラドの声には、ミナを小馬鹿にしたような雰囲気があった。しかしこの時のミナは気がつかなかった。
「こちらの人間は、第一の霊鎖も解けぬ下等な存在ですよ。サルと同じです。サル!」
ウラドは大げさにため息をついた。
「サル共の中に三〇年あまり…我ながら、よく正気を保っていられたと思いますよ。だがそれも今日で終わり。ようやく還ることが出来る。──貴女のおかげでね」
「それはどういう──」
いきなりミナの声が途切れた。
おい! どうなっているんだ?
オレが心の中で叫ぶと同時に、視界が明るくなった。クマちゃんが紙袋から頭を出したのだ。
ミナが魔法陣に拘束されている!
リムジンの後席に座るミナ。その座席の背もたれに、光る魔法陣が現れていた。その模様は、前にベアードを拘束する際にミナが出したものと同じだった。
「何の…まね…だ?」
絞り出すようなミナの声。
「おやおや。この封印の陣に捕らわれて口がきけるとは、さすが帝国の皇女。剣聖の称号を持つだけのことはある。期待通り…いえ期待以上です」
ミナの向かいの席で嘲笑うウラド。
「私はね、最高の魔法使いになりたかったのです。そのためにマナウェルを開き、その魔力で霊鎖を解こうとした。だが当時の私は未熟でマナウェルが暴走、〈ゲート〉となってしまった」
それって…!
「こちらの世界に飛ばされて三〇年あまり。サル共の中で、私はこちら側から〈ゲート〉を開く方法を模索していた。そこに貴女が現れたのです!」
「一連…の異変も…!」
「左様。すべて私が仕組んだこと」
ウラドは邪悪な笑みを浮かべた。
「すべては私が帝国に帰還するため。貴女なら〈ゲート〉の素体にふさわしい」
前にミナが言っていた。古代の禁忌魔法に、人間を用いて〈ゲート〉を開くものがあると。その〈ゲート〉に変えられた人間は消滅する、と。いわば〈ゲート〉の生贄だ。
ウラドはミナを生贄にして〈ゲート〉を開こうとしているんだ!
そんなことさせるか!
オレが思うのと同時に、クマちゃんが紙袋から飛び出した。
やれ! ウラドのその邪悪な顔面に一撃を──
ええっ?
オレは目を疑った。いや自分の目じゃないんだけど。
クマちゃん必殺のパンチがウラドに炸裂する直前、ヤツの顔の前に小さな光る魔法陣が現れたかと思ったら、次の瞬間、クマちゃんはリムジンの外に放り出されていた。
テレポートさせられた?
驚きで受け身もとれず、クマちゃんは落下。道路で二度、三度とバウンドしながら転がった。
早く! 早く立ち上がってくれ!
痛みはないけど、衝撃でクマちゃんは目を回していた。
回復したクマちゃんが立ち上がった時、ウラドのリムジンは遠くに走り去り、見えなくなっていた。
2
「ミナが危ない!」
クマちゃんとのリンクを切り、オレは叫んだ。
「姫さんが危ないって、どういうことだ?」
碇屋さんが戸惑った声を上げる。
「ウラドがミナをさらったんです。これまでの異変──公園のヘリ墜落、さっきの赤い稲妻、全部ウラドが仕組んだことだったんですよ」
そこまで話して、碇屋さんが刑事だということを思い出した。
「警察でミナを捜してください。ウラドはミナを〈ゲート〉に変えて、元の世界に還るつもりなんです」
「ちょっと待ってくれよ。今の話し、証拠はあるのかい?」
「オレがクマちゃんの感覚を通して──あ、クマちゃんというのはあの動くヌイグルミです。それで車の中でウラドが話しているのを聞いて……」
碇屋さんの顔がしかめられた。信じてくれてない。
「世界の危機なんです! ウラドはオレたちこっちの世界の人間をサルだと見下している。ヤツが〈ゲート〉を開けたら、この世界は滅びるかもしれないんです」
言ってから、マズったと思った。
碇屋さんの顔が「疑わしい」から「何言ってんだこいつ?」に変化したからだ。
オレの正気を疑われている? いや、オレだって、いきなり世界の終わりとか言い出すヤツがいたら、「あたおか」だって思うだろう。
ああ、こうしている間にもミナが…!
「とにかく、ミナが危険なんです!」
「あんたの言葉だけでそれを信じろっていうのかい?」
「それは…!」
そうだった。
誘拐事件が起きた時、犯人の脅迫メッセージとかがないと警察は動かない。いや動けない。
ましてウラドは警察上層部をアゴで使うようなヤツだ。
碇屋さんに信じてもらうにはどうすればいい? 信じてくれたとしても、協力してくれないんじゃ……。
オレが頭の中でぐるぐるしていると、後ろでクラクションが鳴った。
「ジョージ…!」
ジョージがミニバンでやって来たのだ。
「おばばから聞いた。いきなり姫が還るって──」
「ミナがウラドにさらわれた!」
ジョージを遮ってオレは叫んだ。
「なんだと!?」
「ヤツはミナを生贄にして〈ゲート〉を開くつもりだ。最初からそれがねらいだったんだ!」
「乗れ、イッチ! 姫の気配をたどるんだ」
そうか。ミナの霊体、その気配をたどるという手があったんだ。
オレとミナは何度も霊体を触れあわせている。彼女の気配をたどれば、どこに連れて行かれたのか、わかるかもしれない。
「よし!」
「ちょっと待ちな」
オレがミニバンのドアに手を掛けたところで、碇屋さんが声を上げた。
止める気か? いくら警察でもそんな権利はないぞ。
「姫さんはスマホを持っていたか?」
「え? ええ」
姫騎士に
碇屋さんは自分のスマホを取り出すと、
「ツチさん、オレだ。姫さんがさらわれたらしい。スマホの位置情報で探してくれ」
なんと鎚田署長に連絡して探してくれた。
「碇屋さん!」
「ありがとうございます」
礼を言うオレたちに、碇屋さんは
「オレはファンタジィは嫌いだが、時代劇は好きなんだよ」
と、よくわからないこと言って笑った。
3
オレと碇屋さんが乗り込むやジョージがミニバンを出した。
取りあえず、ウラドのベンツが去った方角に進むと、しばらくしてクマちゃんを見つけた。
クマちゃんが乗り込むのと前後して、碇屋さんのスマホに連絡が来た。
「姫さんの現在地が割れた。駅北口、タクロスだ」
「この辺りで一番デカいビルじゃないですか」
ジョージがうめく。
タクロスはランドマーク的な高層ビルだ。地上三二階、高さは一二〇メートル以上。一階は様々な店舗と市の施設。二階は駐輪場。三~七階は家電量販店が入っていて、九階から上は分譲マンションになっている。
「三人…クマちゃん入れても四人だけで探すのはキツいぞ、イッチ」
「ウラドは屋上にいるはずだ」
オレには確信があった。
「ヤツの目的は〈ゲート〉を開くことだ。きっと屋上にいる」
「そういやあのビル、屋上にヘリポートがあったはずだ」
ジョージが言う。ウラドはきっとそこにいる。
ほどなく、ジョージの車はタクロスの近くに着いた。
「何があるかわからない。ジョージはここで待機していてくれ」
「気をつけてな、イッチ」
オレはイヤホンを付け、スマホをハンズフリー通話にしてミニバンを降りた。
「公園の時みてぇな化け物がいたりしねぇよな?」
碇屋さんが不安そうにタクロスビルを見上げた。
つられて見上げたオレの目に、それが見えた。
「あれは──」
ビルの上のほう、空にゆらめく光がある。
それは微かで、ほとんど目に見えないくらいうっすらとしたものだったけど、第二の霊鎖を解いたオレには見えた。
──スプライト。
空間の歪みが起きる時に現れる発光現象。
間違いない。ウラドとミナは屋上にいる。
そしてミナを〈ゲート〉にする儀式だか魔法だかは、もうはじまっている。
「ミナっ!」
オレは脇目も振らず駆け出した。