1
「はっ!」
眼が覚めると、木目が渦を巻く板張りの天井が見えた。今はもう見慣れた新居、茶の間の天井だ。
生きてた…のか?
ほっとしたのも一瞬で、身体が動かないことに気づいた。いや、力が入らないというべきか。
無理に霊鎖を解いたことで、オレの身体はボロボロになってしまったのか?
潜在能力を一気に解放して再起不能になるなんて、よくある展開じゃないか。
マヌケなのは、オレの場合は強大な敵と戦った結果ではなく、修行をショートカットしたからだった。
オレ、一生寝たきりなのか…!
絶望で、オレは目を閉じた。
……あれ?
少しずつ、手足の感覚が戻って来るのを感じる。
これ、ブラック企業に勤めていた頃、何度か体験した金縛りと似ているぞ。
あれは睡眠障害の一種で、意識は目覚めているのに身体が起きていないっていう症状だったはず。
対処方は、呼吸を整え、ゆっくりと身体を動かすこと。
右足の指…よし、動いた。左足も…動いた。
右手は…指、そして腕も軽く上げることができた。
でも……。
……左腕が動かない。
まるで、何かが乗っかっているみたいな──
ゾッとした。
ダメだ! ここで怖い想像をすると、おそろしいものが見えてしまうんだ。
落ち着け!
こういう時は…そうだ、素数を数えるんだ!
一、三、五、七、九…ってこれは奇数だ!
「ん……」
左の耳元で、かわいい吐息がした。
感覚が一気に戻って来た。
やはり左腕に重い物が乗っている。幻覚じゃない。
でもそれは、あったかくて、とてもやわらかいものだった。
こ、ここのやわらかさは!
この感触、オレは知っている! ま、まさか…!?
ぐいっんと首を左に向けると、すぐ目の前にミナの寝顔があった。
な、なななんでミナが、オレの左腕を抱きしめるようにして寝ているんだ?
おまけに、彼女はTシャツとパンツだけという姿ではないか!
2
「うわぁああああ!?」
驚いて飛び起きた。その直後、全身にとんでもない激痛が走った。
「ぎえぇえええ!」
悲鳴を上げて悶絶してしまう。
虫歯の治療で、麻酔の効きが悪くて痛いことがある。神経の痛みだ。あれみたいな痛みが、全身に走ったのである。痛いなんてレベルじゃない。チビらなかったのが不思議なくらいだ。
「急に動くな。ハジメの身体はまだ修復中だ」
身体を起こしたミナが言う。
Tシャツを盛り上げる大きなふくらみ、シャツの裾からはみ出ている薄い緑のパンツ、生の太もも……オレは、あわてて目を逸らした。
「おごぉおおおお…っ!」
その途端、またしても全身に激痛が走る。
「だから急に動くなと言うに」
「ミナ、なんて格好をしているんだよ?」
ぜぇぜぇと息を切らしながら尋ねる。
「これか? 緊急事態故の処置だ。治癒魔法は相手に触れる面積が多いほど効果があるのだ」
「治癒魔法?」
もしかしなくてもオレが生きているのってミナが……。
「バカなことをしたな。ハジメ」
ミナがにらむ。
「面倒に思えても、修行の手順には意味があるのだ。それを破るからこんなことになる。私が気づくのが遅かったら、ハジメの身体は崩壊していたのだぞ」
「崩壊…!?」
思ってたよりヤバかったんだな、オレ。
一つ間違えば命取り…なんてレベルじゃなかった。
「こんな手を選んだのは、やはり修行が厳しかったからか?」
「それもあるけど…ミナの役に立ちたくてさ」
ミナの青い眼ににらまれ、オレは白状した。
「オレはジョージみたいに頭が良くない。グリムリに襲われた時だって、クマちゃんがいなかったら殺されていたと思う」
「ハジメ……」
「今のままじゃ、オレはミナの付き人とコックじゃないか。そんなの…イヤだったんだよ」
ミナは驚いて言葉もない様子だった。
情けない。こんなカッコ悪いことってない。
オレはひどくみじめだった。
「バカなことを言うな!!」
ミナが大声を上げた。
「ハジメがいなければ、私はこの世界でこのように安穏と暮らすことなどできていない。ハジメがいなければ、私はこの世界の素晴らしいところを何一つ知ることもなく、すべてを敵に回していたやも知れぬ」
はっとした。
怒るミナの青い瞳に、涙があふれていた。
「私にはハジメが必要なんだ。そなたの代わりになる者などいない。そのことを忘れないでくれ」
ミナの涙に、オレの胸は痛んだ。
そして今さらながら自分のバカさ加減に腹が立った。
ミナはオレのことを頼りになると何度も言ってくれていたじゃないか。
ミナは正直だ。ウソやおせじなんか言うタイプじゃない。
「ミナ…ゴメン。二度とこんなバカなことはしないよ」
「うむ、分かればよい」
うなずいたミナは、そこで涙を流していたことに気づいたようで、あわてて涙を拭った。その時、
ぐぅううう…。
ふたり揃って、腹の虫が鳴いた。
「腹が減ったな」
「オレもだ」
色々と照れくさいオレたちは苦笑した。
「しかしハジメは今動けない。これは──」
すっくと拳を握ってミナが立ち上がった。
「私が料理するしかないな!」
「やめて! お願い!」
いだだだだっ! 止めようにも、全身の激痛に動くこともできない。
「ハジメはおとなしく寝ていろ」
と、ミナはヤル気満々でキッチンへと向かう。
誰か! 誰か、あの厨房の殺し屋を止めてくれぇええええええ!
3
ヤル気満々でキッチンへと向かうミナ。
その前に、すっくと立ち塞がったものがいた。
「クマちゃん?」
ミナの前に立ったクマちゃんは、「任せろ」というふうに、短い手で自分の胸をたたいた。
「ヌイグルミが料理を?」
オレは疑問に思ったが、ミナ──厨房の殺し屋よりはなんぼかマシだろう。
クマちゃんがキッチンに消えてすぐ、何かを包丁で刻む音、シャカシャカという何かを攪拌する音が聞こえてきた。
調理している? ヌイグルミがマジで?
やがて、フライパンで何かを焼く音が聞こえてきた。あ、このにおいは……。
痛む身体でずりずり這いずりながら、寝室の端に移動する。そこから茶の間の様子を見た。
すると、ちゃぶ台の前に座るミナのところに、クマちゃんが皿を抱えてやってくるところだった。
「これは…オムレツか?」
ミナが目を見開いた。そしてフォークで一口食べると、
「ほほう、なかなか美味だな。ペーコンとソーセージ、それにパンを入れてあるのか」
やはりキッシュふうオムレツだ。
具材を炒め、チーズ、そして溶いた玉子に牛乳を加えたもので作るオムレツだ。食パンを細かくしたクルトンを入れることで食べ応えのあるものになるんだ。
休みの日のブランチによく作っていたものだ。
「どうしてクマちゃんがそれを?」
這いつくばったまま尋ねる。
「クマちゃんにはハジメの霊体をコピーしてあると言っただろう。だからハジメの持っている知識も入っているのだ」
ミナの説明に、クマちゃんが両手を腰に当てて胸を反らした。「ドヤ」と得意げだ。
「な、なるほど」
しかし、クマのヌイグルミの手で、どうやって玉子を割り、食材を刻んだんだ?
そんなことを考えていると、クマちゃんは再びキッチンに入ると、トレイに乗せた深皿を持って来た。
「おかゆ?」
それはオレの食事だった。
クマちゃんが「とっとと食え」というふうに腕をふった。
ミナにはちゃんとした料理を作ったのに、オレのは具もないおかゆかよ。しかもこれ、パックごはんで作ったおかゆに塩を振っただけだ。
「せめて玉子落とすくらいしろよ」
思わずオレがつぶやくと、クマちゃんは「じゃあ食うな!」と言わんばかりに、おかゆをトレイごと持って帰ろうとする。
「食べる! 食べますから!」
腹が減ってたまらないオレは叫んだ。
× × ×
──翌日。
オレの身体はびっくりするくらい回復していた。
まだ身体じゅうの関節が痛かったが、ミナに、
「ここまで回復したなら、動いたほうが治りが早いぞ」
と、言われ、庭に出てクマちゃんと組み手をすることになった。
はじめはゆっくりと型稽古のようなスパーリング。
「おっ? おおお?」
動いているうちに、身体がどんどん軽くなってゆく。関節の痛みも、すぐに消えて行った。
肉体を動かすことで霊体が活性化し、活性化した霊体が治癒力を高めているらしい。
「やめ!」
ミナの合図で組み手は終わった時、もうどこも痛くなかった。それどころか、とても爽快な気分だった。
「深く呼吸しろ。吸い込んだ息を身体の奥に下ろすんだ」
ミナの指示に従い、大きく深呼吸する。息を吸い込む時、それを身体の奥に下ろすようイメージする。
「……え?」
その途端、視界が鮮やかになった。それだけじゃない、音も、においも強く、鮮やかに感じる。
あの夜、霊鎖を解いた時と同じだ。
でも、あの時みたいに、音が大きすぎて頭が痛くなるようなことはない。
見たいと思ったものだけがよりよく見える、聞きたい音だけがよりクリアに聞こえる。
「ハジメ」
ミナに声をかけられ、振り向くと、クマちゃんがオレに襲いかかって来た!
「うわぁあ!」
繰り出される突き、蹴り、回し蹴り。容赦の無い猛スピードのコンビネーション技。
しかしオレは、その攻撃をことごとく受けることができた。
「これは…!」
驚くオレに、
「第一の霊鎖は解けた。それが覚醒だ」
ミナが祝福するように微笑んだ。