「コートとマフラー、貸してくれてありがとう。もうすぐ帰るから、先に翼が行って」
「けど…」
「大丈夫…ちゃんと帰るから」
「…わかった」
私が渡したコートとマフラーを受け取って、翼が勢いよく立ちあがる。
さっきまで私の着ていたコートに腕を通して、温かい防寒具に身を包む。
離れ辛そうにその場で立ち尽くしていた翼が、ゆっくりとこちらを振り返った。
「マジで…ちゃんと帰る?」
「帰るよ。子供じゃあるまいし、翼と同じにしないで」
「はは、そっか…」
そう呟いたまま、一向に前へ進もうとせずに立ち止まる。
俯いたまま動こうとしない彼へ、しょうがないなと呟いて立ち上がった。
大きな背中へ両手を添えてから、優しくトンと前へ押し出す。
驚いてこちらに目を向けた瞬間、とびっきりの表情で笑ってみせた。
「正直!高橋さんすごく良い子だと思います!」
「え…?」
「だから!翼と付き合うことを許可します!両親の代わりに、私が許可してあげます!だから…!」
幸せに、なりなさい!
ドンと、もう一度強く背中を押してから笑って見せる。
これ以上ないくらいの笑顔で、満面の笑顔で手を振って見せる。
そんな私を見てからようやく前へ進み出した翼に、ほっと胸を撫で下ろした。
ありがとうと、震える声で囁いてから一歩一歩前へと踏み出していく。
彼がこちらへ振り返ることは、もう一生ないだろう。
それでも彼の姿が見えなくなるまで、私はずっと笑い続けた。
どんなに頬へ涙が伝っていこうとも、喉の奥が締め付けられて苦しくなっても、ずっとずっと笑い続けた。
姿が見えなくなってからやっと、笑っていた口角を元へ戻して振っていた手を下ろす。
この場にいなくなった彼へ発した声は、どうしようもなく震えていて、情けない声だった。
「ばいばい…翼」
ゆっくりと目を閉じた後、真っ暗な世界へ身を寄せる。
頬に伝っていった涙は首を通って、まだ雪の積もる地面へと落ちていった。
翼が私を好いていたと言った、中学生までのことを思い出す。
深く思い返すうちに気付いたことは、鈍感で子供だった自分自身についてだった。
小学生の時、両親が私の誕生日を忘れて祝いの言葉も言わず仕事へ行ってしまった時がある。
私はそれがとてもショックで、学校も行かずに一日中泣いていた。
そこへ来たのは両親でも学校の先生でもない…
『ひな…どした?』
…翼だった。
『何で…ここにいんの』
『ひなが学校来てないって聞いたから…抜け出してきた』
『そんなの、頼んでない』
その頃から素直じゃなかった私は、せっかく来てくれた翼に背中を向けて必死に強がる。
今思えば、翼はあの頃からはっきりと自分の気持ちを表現してくれていた。
自分の気持ちをはっきりと、言葉にして私へ伝えてくれていた。
『ひな…誕生日おめでとう』
『…!』
『何があったのかわかんないけど、それが言いたかった。今日両親帰ってこないから…寂しかったんだろ?』
『ち、違うよ』
『……。』
ああ、何で…
今まで、気付かなかったんだろう。
『…俺、ひなのこと好きだよ』
翼はあんなにも、想いを伝えてくれていたのに。
『ひなといると楽しいし、面白いし…だから、ひなの両親が側にいなくても…俺はいる』
ずっとずっと、側で見守って、支えてくれていたのに…
『俺はここにいる。ひなの側にいる』
どうしてもっと、君の声を聞き留めていなかったんだろう。
『なあ、ひな…俺のご飯作って。そしたら俺、毎日食べにくるから』
どうしてもっと、君の想いを深く深く受け止めなかったんだろう。
『学校終わったら毎日来る。ずっと…俺が側にいるから』
ああ、私は本当に…
「…大バカだ」
さっきまで座っていたベンチへ腰を落とす。
両手で目を抑えながら思うことは、今さら取り戻せない幸せの数々。
もう一度やり直せたら、もう一度元に戻れたら…
後悔ばかりが頭の中を支配して、前に進むことを拒もうとする。
ぐっと歯を食いしばった拍子に口の中へ入ってきた涙は、経験したことがないくらいしょっぱかった。
屈めていた上半身を何とか起こして、前に並ぶ遊具達を見つめる。
今はまだ涙を誘ってくるこの景色に、我慢することなく悲しみを流し続けた。
いつかまた、この風景を目の前にして笑える日が来るんだろうか。
今日のことを思い出して、笑える日が来るんだろうか。
楽しかったと、幸せだったと、涙を流すことなく心から笑える日が…
もしもそんな日が来るのだとしたら、私はその時やっと、前を向けたと胸を張って言えるんだろう。
今はまだ、自分のしてきたことを悔いることしか出来そうにない。
「翼…好きだ、よ。あの時気付かなくて、…ごめ、ね」
本当に、ごめんね…
私の隣からいなくなった相手へ、何度も何度も謝り続ける。
それと同じだけ、何度も何度もお礼を言い続ける。
そんな私の行為に歯止めをかけたのが、数分前から降り始めた雪だった。
まるで早く帰れと促しているみたいに、大量の大きな粒が冷えた体へと降り注いでくる。
名残惜しそうにベンチから立ち上がった瞬間、私の隣に座っていた翼の場所は、もう真っ白な雪で覆いつくされていた。
さっきまではそこにあった翼の場所が、真っ白に塗りつぶされる。
ぽっかりと空いていたのは、今の今まで座り続けていた私の場所だけだった。