ボタボタと、熱い雨が両目から降ってくる。
自分の手の甲だけに振り続いてくるその雨は、一向に止む気配を見せなかった。
「いき、なりで…ごめんッ、でも…これが、理由だから」
「ッ…」
「ちょ、ちょっと…出かけてくる。だから翼は荷物まとめて帰ってていいよ」
「で、出かけてくるって…おい!待てって!ひな!」
翼の声を背中で受け止めながら玄関の扉まで走る。
雪で濡れた体を乾かすこともせずに、またあの白い世界へ飛び出した。
翼の言うことを聞かずに飛び出した外は、濡れた体の所為でさっきよりも冷たく感じる。
それでも、あの温かい場所にいるよりはずっと気持ちが楽だった。
あのままあの場所で翼の優しさを感じ続けてしまえば、卑怯な私に逆戻りしてしまう。
その確信があったから、この冷たい世界へわざわざ飛び出していた。
翼が追いかけてくることを恐れて全力で走る。
どんなに息が苦しくなっても止まろうとは思わない。
白い息が何度も目の前を見え辛くして、視界を遮ってくる。
そしてある場所の近くを通った瞬間…
「ッ……はあ、はあ」
呼吸が数秒止まって、目の前の景色をはっきりと認識することが出来た。
懐かしい思い出が蘇ってきた途端、自然と口角が上がり始めて両眉が垂れ下がっていく。
目の奥からは新しく作られた涙がまた大量に流れ出てきて、頬をぐちゃぐちゃに濡らしていた。
「はは、何でまた…こんなとこ、来ちゃうかな…」
目の前に広がる公園へ目を向けて笑いを零す。
無意識に私の足が向かっていたのは、小さい頃よく翼と遊んでいた公園だった。
翼に泥団子を作って遊んでいた砂場。
どちらが高く飛べるかで競い合ったブランコ。
一緒に逆上がりを練習した鉄棒。
ひとつひとつの遊具に、翼との思い出が詰まっている。
どれも今の私には涙を誘発するものばかりで、切なくて苦しかった。
それでも足は前へ前へと進んで、公園の中へと吸いこまれていく。
向かった先は思い出の遊具達を見渡すことが出来る、雪の積もったベンチだった。
雪を払い除けたベンチへ腰を下ろして、荒れた息を整える。
思い切り吸い込んだ息を、今度は我慢して止めることなく吐き出した。
「…本当に、弱い…なぁ。私は」
落ちついて冷静になった瞬間気付くことは、翼の前から逃げ出した自分の弱さ。
あのままあの場所にいれば翼に甘えてしまうから、なんてのはただのこじつけだ。
本当の理由はもっと単純で、子供で…情けない。
もしも高橋さんなら…私のように逃げ出したり、翼へ一方的に伝えて終わらせたりはしないだろう。
自分の想いをはっきりと伝えて、真っ直ぐ彼の目を見て、ちゃんと…彼の気持ちも聞き入れるんだろう。
それが例え、自分にとっては辛い内容でも、悲しくて苦しくて耐えられない内容でも、彼の言葉を最後まで聞き届けるんだろう。
私はただ、翼の口から聞きたくなくて逃げ出しただけだ。
「翼…つば、さ…」
ただ単純に、怖かった。
彼の方から別れを告げられることが怖くて、はっきりと断られることが怖くて、何も聞きたくないと思ってしまった。
あんな別れ方ではいつまで経っても離れられないに決まっている。
一方的で、話し合いすら出来ていなくて、本当に…情けないとしか言いようが無い。
「う゛…ぅ、つばさ…ううッ」
それなのに、彼の名前を呼ぶことと涙は止められなかった。
真っ直ぐ前を向くと決めたのに、今の状況は目標とは程遠い。
前を向くどころか下を向いて、離れると決めた彼の名前を愛しそうに呟いている。
もう一度、翼へ気持ちを伝える所からやり直したい。
出来ることなら、もっともっと前に戻って、自分の気持ちに早く気付く所からやり直したい。
振り向いてもらえることは無くても、もう少し早く気付いていたなら…君と過ごしてきた時間を大切に出来た。
日常の些細なことや、支え合ってきたことや、笑いあってきたことまで、一日一日を大切に過ごすことが出来た。
今までの分を取り戻したい。やり直したい。
そんな後悔ばかりが募って、涙で視界が歪んでくる。
一度溢れ出した想いは止めることが出来なくて、何とか涙だけは止めようと冷たい手で両目を覆った時だった。
「……ひな」
聞き慣れた、愛しい人の声。
私の名前を呼ぶ声が、止めようとしていた涙をまた溢れ出させてくる。
両目を覆った冷たい手を、すぐに離すことは出来なかった。
真っ暗な視界の中で、右から聞こえてくる愛しい人の声にただただ耳を傾ける。
微かに震え出す両肩に、止まれ止まれと何度も願う。
そこには翼が来てくれたことを喜ぶ、卑怯な自分がいたからだ。
「…隣、座ってもいい?」
「…だめだよ。もうここ外なんだから他人のふりして」
「……。」
「もう家にも来ないで。それから学校でも、外でも、他人のふりして。これは怒ってるんじゃなくて、翼のためだから」
「…わかってる。俺のために言ってくれてるんだってことは…もうわかってる。でも…」
これが、最後だから…
そう呟いた翼の言葉で、ぐっと我慢していた涙が両手を伝って外へと溢れ出した。
どんなに隠そうと頑張っても、彼のたった一言で私の涙は冷たい両手から溢れていく。
これが最後だと伝えられただけで、私の防波堤はいとも簡単に崩されていく。
「ちゃんと、俺の思ってたことも話したい。家に行くのが駄目ならここでいい。風邪引かす前には…終わらせるから」
「ッ…」
「ひな…」
ちゃんと、俺の気持ちも伝えさせて…
悲しそうに辛そうに呟かれた声が、また私の涙腺を刺激していく。
まともな声で返事が出来そうになかったから、何とかわかるように体を動かして返事をした。
隣に積もっていた雪を両手で払いのけて、翼の座れるスペースを作る。
ぐちゃぐちゃで見せられない自分の顔は、出来るだけ深く俯けることで翼の視線から逃れた。
ゆっくりと、隣に腰かけた翼が前傾姿勢のまま頭を俯ける。
翼が今どんな表情をしているのか…
それを確認する余裕はまだ今の私には無くて、深く俯いたまま相手が話してくれるのを待ち続けていた。
「ここにある遊具…全部2人で遊びまくったよな」
「…うん」
「あの砂場とか懐かしー。よくひな泥団子とか作って俺に食わせようとしてたよな」
「うん…」
「……ごめん。早く済ませるとか言って余計な話した。正直…何から言えばいいのか、俺も迷ってる」
そう小さく呟いた翼が、自分の羽織っていたコートとマフラーを脱ぎ始める。
俯いていた私へ両手を伸ばして、マフラーとコートの濡れ具合を確認した。
まだ濡れていた私のコートは翼の手で強制的に脱がされて、翼の匂いのするコートを羽織らされる。
ぎゅっと翼のマフラーを巻かれた時には、観念して翼のされるがままに体を預けていた。
「もしこれから俺の言うことで、ひなが傷つくようなことがあったらごめん。どこまで話して良くてどこまでが駄目だとか…俺にはまだはっきりわかんねェから」
「うん…」
「今から話すことは、単に俺がすっきりしたいからっていう…我がままな感情だけだから。子供でごめん」
「…翼が、子供なのも鈍感なのも正直なのも…今に始まったことじゃないし、気にしてないよ。ちゃんと…最後まで聞くから」
今度は最後まで、逃げずに聞き届けるから…
小さく小さく、自分の決心を言葉へと表わしてから顔を上げる。
まだ翼の顔を直接見ることは出来なくても、しっかりと顔を上げて、彼の想いを聞き届けたかった。
お互いに、体の向きは公園の遊具へと向けたまま。
懐かしい景色を一望出来るこの場所で、肩を並べて前を向いて、親しくいられる最後の時を過ごす。
吐く息が白くなるこの気温でも、ちっとも寒くなんて無かった。
この時間が永遠に続いてくれるなら、凍えても良いような気さえした。
でも時間は、翼の話し始めたたった一言からあっという間に過ぎて行く。
私には一生忘れられない。
嬉しくて残酷で、耳を疑うようなあの一言から…