都市を離れ、カンタロウは街道を歩いていた。
道に旅人はなく、道横に広がっているのは緑の雑草。
羽に黒い斑点をつけた蝶が、黄色の花の上で休んでいる。
人に気づいたカマキリが、威嚇するように腕を振り上げた。
おだやかな協風が、足下を通りすぎた。
波状型の雲が、青空に大きく広がっている。
太陽はすでに西向きに傾いていた。
カンタロウは突然、ため息をつくと、足を止めた。
「……なぜついてくる?」
カンタロウの後ろには、アゲハがいた。
アゲハは素知らぬ顔で、口笛を吹く。
「別に、私がどこ行こうが勝手でしょ?」
「依頼主の所には行かないのか? 別の用事で、あの都市にきてたんだろ?」
アゲハはもともと、人貸屋に頼まれて都市に行っていた。
カンタロウは、影無とアゲハの会話で聞いていた。
「別にいいよ。後で手紙書いとくし」
「そうか。なら勝手にしてくれ」
カンタロウはまた歩み始めた。
アゲハがしっかりとついてくる。
数歩あるいた瞬間、カンタロウの足がぐらついた。
「……うっ」
「えっ、ちょっと! 大丈夫?」
よろけると、その場に両手をつくカンタロウ。
慌ててアゲハは、カンタロウのそばに駆け寄る。
「なんでもない……ほっといてくれ」
「怪我とかしてないの? 体調が悪いとか?」
カンタロウの体を調べてみるが、多少の怪我はあるものの、致命傷となる傷はない。
「他人のことなんて、かまってる余裕があるのか? 俺のことはほっといて、先に進めばいい」
「別にいいじゃん、そんなこと。とにかく、あの木の影で休む?」
アゲハは卵形の木を見つけると、カンタロウを肩にかついだ。
カンタロウの額から、薄い汗が流れていく。
顔が辛そうに歪む。呼吸も激しい。
緑の葉を影にして、カンタロウを木のそばで寝かす。
アゲハはカンタロウの額に手を当てた。
「熱はないか……」
「いい。かまうな。ここに俺を置いていってくれ」
「やだって言ってんじゃん。水飲む?」
「くっ、あのハンカチさえあれば……」
「ハンカチって? あの影無との戦いで使った? あれに何があるの?」
カンタロウが持っていたピンクのハンカチは、影無の戦いで切り裂いてしまっていた。
「あのハンカチには……」
「あのハンカチには?」
アゲハがカンタロウの顔を覗きこむ。
「母の――匂いが染みこんでいるんだ」
「……ええっ!」
アゲハは信じられない事実に、息がつまった。
――それって、まさか?
それが本当なら、世にも珍しい奇病だ。
「ただのホームシックじゃん!」
「違う。ただ故郷が恋しいだけだ」
「同じじゃん! それホームシックじゃん! 自立しろよカンタロウ君!」
「俺は自立してる。自分の手で稼いでいる」
「してないじゃん! マザコンだし!」
「マザコンじゃない! 親孝行だ!」
静かに反論していたカンタロウが、マザコンというキーワードには声を荒だてた。
――あっ、そこは怒るんだ。
よく他人から、からかわれるのだろう。行動や言動からして、どう考えてもマザコンだ。
「まあともかく。その症状はどうやったら治るの?」
「母がそばにいれば、治る」
見事にまでのマザコンだった。
――それは無理だ!
アゲハは絶望的な気分になった。
「くそっ、母が、母が川のむこう側で、俺を手招きしてる。行かねば」
幻を見ているのか、カンタロウは何もない空間に手を伸ばす。
――この人、幻覚見てる! やばっ!
症状は重症化していた。
アゲハは伸ばされた腕を、しっかりとつかんだ。
「待てカンタロウ君! よし、仕方ないなぁ。私がお前のお母さんになってやろう」
「……なぜ?」
アゲハの提案に、カンタロウの口元が引きつっている。
「何その顔? すごく嫌そうな顔してるよね?」
「悪いが――お前は俺の、母にはなれない」
「わかってるよ。そんなの全女性が無理だよ。だから仮。仮のママになってやろうって言ってんの」
「よいしょっと」アゲハは正座すると、剣を木に立てた。
「さっ、準備できたぞ。こっちへ来い、カンタロウ君」
自分の太股を手で叩く。
「…………」
カンタロウは迷っているのか、動かない。
「大丈夫。そんな警戒するような顔をするな。カムカム」
「そこに寝ろと?」
「そうだ。膝枕してやるって言ってんだ。お前が初だぞカンタロウ君。幸せをかみしめろ」
カンタロウは仕方なく、頭をアゲハの太股にゆだねた。固く、筋肉質な感触がする。
アゲハの匂いが、鼻腔をくすぐった。化粧のような人工的な匂いではなく、草花の香りがする。
「おっきくなったね。カンタロウ君」
母親の真似をしているのか、アゲハの口調が優しく、女らしくなっていた。
「もう十六だからな」
「そうなの? 私は十四だ。二歳の違いだな」
「そうだったのか。もう少し年下かと思った」
「褒めるなよ。まあよく年齢のわりには若いって言われるけど」
「褒めてはいないが」
「えっ、何?」
「いや、なんでもない」
「そっか」
アゲハは空をあおぐ。
カンタロウも同じ気分だったのか、空に視線を移した。
「いい天気だね」
「ああ、快晴だ」
「君、強いね。どこ出身?」
「剣帝国だ」
「都市部?」
「いや、都市よりだいぶ離れている。人があまりいない田舎だな」
「へぇ。じゃ、剣はどこで習ったの?」
「父親とスズさんって人からだ」
「えっ、何? スズさんって恋人?」
「違う。保護者みたいな人だよ。年も離れている」
「そうなんだ。お父さんは何してるの?」
順調に進んでいた会話が、カンタロウの沈黙に変わった。
アゲハは少し嫌な予感がした。
「……もういない」
「えっ、あっ、ごめん」
「かまわない。仕方のないことだしな」
会話が途切れた。
――仕方ない?
アゲハはカンタロウの言葉が気になっていた。どうしようか迷う。
「アゲハの親は心配しないのか?」
今度はカンタロウから話しかけてきた。
「しないよ。もともといないから」
「いない?」
「そっ、生まれたときからいない。顔も知らないし。まっ、気にもしてないけどね。私は養子だから」
「そうだったのか。すまない。よけいなことを聞いた」
「いいさ。気にすんな。それに今は、私がお前の母さんだ」
アゲハの手が、カンタロウの頭に触れ、優しくなでる。
「母さんはね――あなたが生きているだけで、嬉しいんだから」
どこかで聞いた言葉。
遠く、懐かしい言葉。
カンタロウの症状が、少しだけ軽くなる。
「……アゲハ、一つ言っていいか?」
「何? 症状治った?」
「お前の体が固くて、落ち着かない」
「うっさい!」
「ぐわっ!」
アゲハのパンチが、カンタロウのお腹に入った。
「そもそも、よくそんなんで、旅できるよね?」
「これでもだいぶ、マシになった方だ。十二でハンターの仕事をしていたときは、半日で――死んだ父が見えた」
お腹をさすりながら、カンタロウは遠い昔を思い返している。
「死にかけたの? あと、半日は短すぎ! 仕事ちゃんとしてた?」
「今では俺も成長し――七日はもつ」
「四年かけて七日? やっぱ短すぎっ!」
自慢気に語るカンタロウに、すっかり呆れるアゲハだった。