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第4話 砕かれた円環

「回復魔法? そんなものは存在しない」


 生徒のひとりが投げかけた問いに、イゾルデはそう答えた。


「でも、教会の神父様はじっさいに回復魔法を使うじゃないですか。私のおばあさんも、回復魔法のおかげで怪我がよくなりました!」


 イゾルデはその女子生徒をじっと見つめ、説明を続けた。


「怪我が回復したのはなによりじゃ。しかしあれは魔法ではない。祈りが管となり、神の奇跡をこの世に顕現けんげんさせているだけにすぎぬ。いってみれば神の気まぐれのようなもの。お前さんのおばあさんが助かったのも、正確には魔法ではなく奇跡のおかげじゃ」


 彼女の言葉に、生徒たちはさらに困惑した。

 奇跡と魔法の違いがどこにあるのか、彼らにはまだ理解しがたい部分があったのだ。


「回復魔法は、厳密にいえばまったく存在しないとは言えぬ。だが、あまりにも複雑で、実用的ではないのじゃ」


 生徒たちは真剣に耳を傾けた。イゾルデはさらに続ける。


「目を瞑って、砂浜で砂の城を作るところを想像してみてほしい」と彼女は言った。「両手で砂を積み上げ、少しずつ精巧な形を作り上げるためには大きな労力が必要じゃ。砂が乾きすぎて固まらなかったり、逆に湿りすぎて形が作れなかったり。些細なミスや手抜かりがあって崩れてしまったら、その都度やり直すことになるじゃろう。ところが、その苦労の結晶である砂の城も、たったひとつの波が襲ってきたり、ただ軽く足を踏み入れたりするだけで儚く崩れてしまう。魔法も同じこと。治すよりも、壊すほうが圧倒的に簡単なのじゃ」


 生徒たちは納得したように頷いた。


「しかし、人類の発展は著しい」イゾルデは続けた。「奇跡などという確実性に乏しい手段を使わずとも、いずれ人間の力で壊れた肉体を治せる時代が来るじゃろう。わらわはそう信じている……」


 †


 勇者アレックスの子孫たちが受け継いだ王国は、その後、長い繁栄の時代を迎えることとなった。

 しかし、発展と共に、他国との競争も激化していくことになる。


 アレックスが死んでからさらに数十年の月日が流れた。


 人々は、魔族がかつてこの世界に存在したことを忘れ始めていた。彼らは過去の遺物として、物語や伝説のなかでのみ継がれるだけになっていったのである。そして彼らの敵は自らと同じ人間となった。


 イゾルデは遠く離れた地でそのさまを見守っていた。彼女の瞳に映るのは、すっかり変わってしまった世界だった。


 あるときイゾルデは古びた城の一室に佇み、目の前に広がる戦場の様子を見下ろしていた。


 戦場には兵士たちが死体が山となり、無残に転がっている。

 彼らの血で染まった大地は、まるで人間たちの果てしない欲望と愚かさを象徴しているかのようだ。

 人間たちはより多くの資源を求め、領土を拡大しようとして争い始めた。

 そして、戦争はいつまでも終わらなかった。

 ひとつの戦争が終わると、すぐに次の戦争が始まる。

 その繰り返しに、イゾルデの心は徐々に疲弊していった。


 「人間はこれほどまでに愚かで、これほどまでに残酷な生き物だったのか」


 彼女の細い声は、城の冷たい石壁に吸い込まれ、そして消えていく。


 そしてさらに数百年が経過した。

 人類は驚異的な発展を遂げ、世界の国々の統治の形態は民主主義や共和制へと移行していった。


 都市は巨大化し、通信技術や交通網が発達したことで、人々の生活はますます便利で豊かになった。

 人々は自分たちの手で新たな世界を築き上げ、かつての勇者たちの時代は歴史の教科書の中に語られるのみとなった。


 皮肉にも、人間同士の戦争や資源の奪い合いは、技術の進歩を促し、結果的に人類全体の飛躍的な文化的発展をもたらすこととなったのである。


 †


 このような状況が続く中で、先進国の社会は次第に崩壊の兆しを見せ始めた。

 経済の不安定さが増し、暴動やデモが頻発するようになった。特権階級と一般市民の間には深い溝が生じ、社会全体が不満と絶望に包まれていった。


 そして、権力者たちもまた、この腐敗した社会の中で苦しんでいた。

 彼らは自らの過ちに気づき、社会を立て直そうと努力したが、すでに手遅れであろうことは誰の目にも明らかだった。


 イゾルデは、再び世界を見守りながら旅を続けていた。


 彼女の目に映るのは、かつての栄華を誇った都市が、少しずつその活力を失っていく姿だった。

 都市の中心部に立ち並ぶ高層ビルは、老朽化が進んでいる。

 かつての賑わいは影を潜め、街には静寂が漂っていた。


 たとえば、少子高齢化は深刻な問題として社会に広がっていた。

 若者たちは結婚や子育てに希望を持てず、未来に対する不安から家庭を持つことを避けた。

 さらに彼らは限られた仕事を求めて都市部に集中し、地方はゴーストタウンと化していく一方だった。


 イゾルデはそんな光景を見つめながら、町の片隅にある古びた介護施設の前で立ち止まった。

 施設の中では、高齢者たちが薄暗い部屋の中で過ごしていた。彼らの多くは、家族に見放され、孤独の中で静かに最期のときを迎えていた。

 介護をするスタッフは不足し、彼らは必要なケアを受けられずにいた。


 「これが、旦那様が平和をもらたした世界の末路か」


 また、環境問題も深刻化していた。

 都市部では大気汚染や水質汚染が進行し、人々の健康を脅かしていた。さらに、異常気象による自然災害の頻発によって、人々の生活は常に危険にさらされている。


 「このままでは、人類は自らの手で滅びの道を歩んでしまうかもしれない。精霊ルビウスはこのサイクルを見つめていたのじゃな」


 しかし、人々の心にはもうすでに、精霊ルビウスの名前はなかった。

 書物に遺された古い物語や伝説の中でのみ、かろうじて彼女の名前を確認できる程度だった。


 †


 イゾルデが旅を続けていると、ある国に辿り着いた。

 世界の先進国が少子高齢化に苦しむ中、この国は若い世代が多く、活気に満ちあふれていた。イゾルデはその理由を知るために、しばらくこの国に留まることにした。


 ある日、彼女はこの国で暮らす人々が『生成施設』と呼ばれる場所について話しているのを耳にした。

 イゾルデはその話に興味を持ち、真相を確かめるために施設を訪れることにしたのだった。


 生成施設は厳重なセキュリティに守られた建物で、外から内部の様子はわからない。

 イゾルデは魔法で姿を変えたりなどしながら施設に潜入することに成功した。


 施設の内部には驚くべき光景が広がっていた。

 広大なラボには無数の培養槽が並び、その中では人間の胚が成長していた。クローン技術が国家レベルで導入され、人口を維持するために利用されていたのだ。


 施設の研究員たちは、魔法で姿を偽ったイゾルデの存在に違和感を覚えることなく作業に没頭していた。

 彼らは人間の遺伝子を操作し、生まれながらに特別な才能を持つクローンを作り出しているようだった。

 こうして製造されたクローンたちは、国の様々な分野で働くために専用の教育を受ける。


 イゾルデはその光景を目の当たりにし、衝撃を受けた。

 この国は、少子化の対処法として、倫理的な問題を顧みずにクローン技術を利用していたのだ。


 †


 イゾルデは施設のなかで一人の若者と出会った。

 彼は施設で生まれたクローンで、教育を終えたばかりの新米エンジニアだった。彼は自らの出自を知っていた。


 「私たちは、この国の未来を担うために作られました。人々の生活を支え、社会を発展させるために生まれてきたんです」


 彼の言葉には力があった。自らの存在意義を強く信じているようすだった。


 しかし、イゾルデはその若者の瞳の奥に、わずかな不安のゆらぎを感じ取った。


 「自分がクローンであることに疑問を感じたことはないのか? 」


 イゾルデの問いかけに若者は一瞬だけ戸惑った表情を見せたが、すぐにそれを振り払うように彼は笑顔を浮かべる。


 「確かに、考えたことがないわけではありません。でも、結局のところ、クローンでない人間も、僕たちと大して変わらないと思います」と彼は静かに語り始めた。「違いといえば、産まれてくる場所が天然の子宮なのか、人工の子宮なのか、それだけです。この施設では、動物の体内で行われるプロセスを機械で再現しているに過ぎません。動物の体だって複雑な化学工場のようなものですからね。同じことをしているのに、どちらか一方が間違いだということはありませんよ。それに、僕たちクローンはこの国に欠かせない存在です」


 彼の言葉は強がっているようにも聞こえた。

 しかし、イゾルデは確かに世界が変わったことを確信した。

 科学の進歩により、たったひとつの細胞からひとりの人間を生成できる技術が確立されたのだ。

 それは、神の起こす奇跡――回復魔法に頼らずとも、死んだ人間を生き返らせることができる時代が訪れたことを意味する。


 †


 ところでこの世界のリーダーの座には、勇者アレックスの子孫の姿があった。 

 かつての王国はとうの昔に滅び、姿や場所を変え、それでも勇者アレックスの血は途絶えることなく受け継がれてきた。

 しかし、勇者の一族のもとに富と権力が集中する期間が長くなるにつれ、次第に政治的な腐敗が進んでいった。

 彼らは特権階級としての自らの地位を守ることに必死だった。

 一部の政治家や特定のグループに既得権益を集中させ続けた結果、国の中枢が腐敗したまま新たな改革が進むことはなく、若者にとって希望が見える政策が打ち出されることもなかった。


 さらに、特権階級の人々は遺伝子操作によって強靭な身体能力や美しい外見だけでなく、強力な魔法を扱う能力までも獲得した。


 また、寿命も大幅に延ばされ、彼らは数百年にわたって若さを享受することができるようになった。

 これにより、彼らの支配体制はより強固なものとなる。


 一方で、貧困層はこのような恩恵に一切あずかることができなかった。

 彼らは遺伝子操作技術へのアクセスを禁止され、従来の人間の限界に縛られたまま生き続けていた。

 特権階級の豊かな生活を守るため年を追うごとにきつくなる税に加え、厳しい労働を強いられる彼らの姿がそこにはあった。

 格差は日々大きくなるばかりだった。


 †


 さらに時が流れ、かつて繁栄を極めたその社会は、政治的な腐敗と人口減少により、ついに崩壊の瀬戸際に立たされることになる。

 かつての栄光を知る者はほとんどおらず、今ではその姿はただの廃墟になりつつあった。


 しかし、特権階級の人々――かつての勇者の一族たちや彼らを支える側近たちは、遺伝子操作によって超人的な能力を維持しており、外見も普通の人間とは大きく異なっていた。

 彼らの肌は青白く、目は光を放ち、身体は異常なまでに強靭だった。

 その姿は、もはや人間とは呼べないほど異質であった。

 地方に暮らす庶民たちは、その姿やとても人とは思えない残酷なふるまい見て恐怖し、彼らを『魔族』と呼ぶようになった。

 かつて人間だった者たちが、遺伝子操作による進化の果てに新たな『魔族』として生まれ変わったのだ。

 特にその中でも最も力を持つ者は『魔王』と呼ばれ、貧困層の人々にとっては恐怖の象徴となっていた。

 彼らは自らの欲望に従い、崩壊寸前の世界で残りわずかな資源を支配しようとし、日々戦争や搾取を繰り広げていた。


 †


 さらに時が過ぎ。

 アレックスの子孫と彼らに近しい者たち――魔族が覇権を握るかつての先進国は、すでに一つの国家としての機能を失っていた。

 かつての経済大国の姿はどこにもなく、残されたのは荒廃した都市――人間は魔都と呼んだ――にわずかに生き残った『魔族』が営む日常だけだった。

 崩壊したのは彼らの国に限った話ではなかった。

 度重なる戦争、核兵器の使用、汚染物質の垂れ流し、その他諸々の影響で世界全体の環境は悪化を極めた。空は光化学スモッグや PM2.5の影響で鉛色に濁り、かつての青い空と清らかな水は、すでに遠い過去のものとなっていた。


 人類の文明は、偉大な繁栄の代償として自らを破滅へと導いてしまったのだ。


 文明は、ゆっくりと、しかし確実に、その光を失い、消滅の道をたどっていくかのように思われた。


 †


 そしてあるとき。

 貧困層の庶民が暮らす、とある小さな集落でのことである。

 この集落にはアレルという若者がいた。

 アレルはその日、たったひとりではじめての狩猟に成功した。

 彼が仕留めたのは立派な雄の鹿で、得た肉や骨、毛皮は村全体を支えるための貴重な資源だった。彼は村の鍛冶職人が作ってくれた弓を手に、慎重に森の中を歩いていた。


 アレルは数時間にわたる追跡の末、やっと鹿を追い詰めた。

 風向きを計り、息を整え、集中して狙いを定めた。彼の手を離れ放たれた矢は、高い音を立てて風を切った。そして鹿の胸部深くに突き刺さり、鹿はその場で倒れた。


 そうして彼はその鹿を集落に持ち帰ることで、ようやく大人の仲間入りを果たすことができたのだ。

 その日の夕暮れ。

 宴がはじまる前に、アレルは自宅にある簡単な祭壇で彼らの信じる神に祈りを捧げていた。


 そのとき、突然、彼の脳内に透き通った女性の声が響き渡った。


『わたしの声が聞こえますか』


 アレルはその声に驚き、反射的に周囲を見回した。

 薄暗い部屋の中には誰もいない。しかし、なにか得体のしれぬ偉大なものに触れたような気がする。彼の心臓は早鐘を打つように鼓動した。


『わたしは精霊ルビウス。あなたに魔と戦う力を与えましょう』


 声は再び彼の脳内に直接響いた。その響きはまるで、アレルの魂そのものに語りかけているかのようだった。

 ルビウスという名は、村の古い伝承で聞いたことがあった。

 その精霊は、かつて勇者ととも戦い、この地を守ったという伝説の存在だった。

 ルビウスの名は時を越えてこの地に残っていたのである。


「精霊ルビウス……。本当に、あなたなのですか?」アレルは恐る恐る尋ねた。


『そうです。アレル、あなたは若く、類まれなる勇気と力を持っています。力を貸してほしいのです』


 アレルはその言葉に戸惑った。

 自分が何か特別な存在であるとは思っていなかったし、はじめての狩猟を成功させて大人の仲間入りをしたとはいえ、彼はまだ未熟な少年とも言える年齢だった。

 しかし、ルビウスの言葉には大きな力があり、否応なく彼の心を支配していく。


『この世界は、今、深き闇に覆われています。あなたの力で世界に平和を取り戻すのです。あなたはわたしの導きに従い、正義の道を歩みなさい。お願いしますよ。勇者アレルよ』


 アレルは深く息を吸い込み、決意を固めた。

 自分が選ばれたという事実に戸惑いつつも、今まで感じたことのない強い使命感が湧き上がってきた。

 アレルはこの瞬間、勇者になった。


 †


 勇者アレックスと仲間たちが魔王を討伐してから、千年が経った。

 イゾルデは、文明の恩恵から取り残された人々が『魔王城』と呼ぶ建物の入口で彼らの到着を待っていた。

 かつて彼女が愛した男、アレックスにいつまでも少女のままのようだと言われた彼女だったが、今ではしっかり腰が曲がっていた。

 その表情には、世界の監視者として途方もない年月を生きてきた証である深い皺が数多く刻み込まれている。


 彼女の長い人生はその大半が孤独に満ちていたが、瞳に宿る燃えるような使命感は少しも失われていなかった。

 彼女の心を支え続けたのは、かつての勇者、アレックスの存在にほかならない。

 彼女はいつか訪れる新しい時代の勇者の到着を、人々が魔王城と呼ぶこの場所で勇者の到着を待つことこそが自らの最後の使命だと信じていた。


 そして、ついに魔王城の扉が開く者が現れた。


 イゾルデの細くなった視線の先には、若者たちの一団が立っていた。

 彼らこそが、この時代の勇者パーティであり、イゾルデが密かに見守ってきた者たちだった。


「魔族? ……いや、人間の婆さんか?」


 そう呟いたのは勇者アレル。

 精霊ルビウスに祝福を与えられてから6年。

 アレルは今ではすっかりたくましい青年へと変貌を遂げていた。

 彼の背には、光り輝く伝説の剣があった。それは、かつて勇者アレックスが使っていたのと同じものだ。幾つもの時を経て、今はアレルの手に渡っている。


「魔王城にいるってことは魔族なんじゃねーの。とりあえず頭に斧ぶちこんどけばいいっしょ」巨大な戦斧を肩に背負うのは戦士リオンだ。


 僧侶イレーヌは「待ってください、リオン」と彼を制した。「わたしには人間に見えます。でも、ここは魔都の中心部、魔王城のはず。どうしてあなたのような人間がここにいるのですか?」彼女の声には、疑問と警戒が感じられる。


 イゾルデは彼らを見つめ、余裕たっぷりに微笑んだ。「いかにも。わらわはお前たちと同じ人間。しかし、同時に魔族でもある。お前たちがここに来るのを待っておったのじゃ。この時代の勇者たちよ、歓迎するぞ」


 賢者ミランダが鋭い目つきでイゾルデを睨みつけ、杖を振りかざした。「ふん、白状したわね。私たちは魔王を倒して世界を救いにきたのよ。魔族は全部くたばっちまいな!!」


 杖の先から放たれた巨大な火球がイゾルデに向かって猛スピードで飛んでいく。

 ミランダの魔法の力は圧倒的であり、その炎は城内の壁を一瞬で照らし、放出される激しい熱がその場の空気を焦がした。


「喝ッ!!!!」


 イゾルデの一喝が城内に轟き渡り、びりびりとその場の空気が振動する。

 その瞬間、ミランダの放った火球はまるで見えない力に弾き返されるようにして方向を変え、勇者パーティの足元へと叩きつけられた。

 石でできた地面は轟音とともに深くえぐられ、その場所には赤熱した大きな穴が開いた。熱気が立ち上り、辺りには焼けつくような匂いが広がる。


 勇者たちは驚愕しながら後ずさりし、放心していた。

 彼らの心に緊張が走るのをイゾルデは見た。


「な、なによこの婆さん。私の最強の魔法をいとも簡単に……」ミランダが怯えた表情でイゾルデを睨みつける。


「こいつやばいぞ。戦闘態勢を整えるんだ」アレルが勇者の剣を構えて叫ぶ。


「まったく、話を聞かんやつらじゃのう!!」


 イゾルデは涼しい顔を保ってはいるものの、内心でかなり焦っていた。

 さすがの彼女も、4人で一気にこられたらひとたまりもない。

 それに、ミランダの魔法を跳ね返すことに成功したものの、それは彼らの旅を陰ながら見守り続けてきたからだ。彼女の得意な魔法、得意な戦法、性格などをある程度理解していなければ、今の攻撃でやられていたかもしれない。

 彼らの力は未熟ながらとても強く、また、イゾルデの力は全盛期と比べかなり衰えていた。


「わらわは悠久の時を生きる魔女、イゾルデ。おぬしらのようなひよっ子とは年季が違うわ。その気になればいつでも4人まとめてあの世へ送れると思え」


 イゾルデは精一杯強がって彼らを威嚇する。

 これにはそれなりの効果はあったようだ。


「その強さ……もしかしてお前が魔王なのか?」アレルが質問を投げかけた。


「違う。そなたらのいう魔王はわらわよりもずっと強い。彼に会いに来たのであろう? 案内しよう。ついてきなさい」


 そういってイゾルデは彼らに背を向け、杖をついて歩き出す。

 背中には彼らの視線が痛いくらいに刺さっている。この状態で一斉に襲いかかられたら終わりだ。背中を見せながらも、警戒は怠らない。


 と、そのとき背後から魔法の気配を感じた。

 今度はいかづちの魔法だった。出力が大きい。まともに喰らえばひとたまりもない。


「喝ッ!!」


 瞬間的に反応し、今度もかろうじて跳ね返すことができた。

 直撃すれば一撃で肉体がバラバラになるほどのすさまじい威力を持っていたに違いない。

 現在のイゾルデはルビウスの加護を受けていない。ダメージを受けても回復することはなく、死んでも生き返ることもない。

 イゾルデは勇者パーティに気づかれないように乱れた呼吸を整え、額に浮かぶ冷たい汗を拭った。

 跳ね返した魔法は戦士リオンの顔ぎりぎりをかすめ、廊下の壁に直撃した。

 大理石でできた廊下の壁の一部が弾け飛ぶ。


「うおっ」


「ふん、未熟者めが。何度やっても同じじゃ。黙ってついて来られんのか」イゾルデが彼らを睨みつける。その瞳は威厳に満ちていた。千年の重みだ。


「やめてよミランダ。死ぬところだったじゃねーか。この婆さん超こえーよ」戦士リオンがびびりながら言う。


「死んだら生き返してあげますよ」僧侶イレーヌがアミュレットを握りしめてにっこりと笑った。


「本当についていって大丈夫かな? 罠じゃない?」とミランダ。


「とりあえず俺たちに危害を加える気はないみたいだ。反射した魔法もわざと外したように見えた」アレルが言う。


「聞こえているぞ。城は広い。見たところお前さんたちは血気盛んのようだ。好き勝手暴れられて城を壊されても困るんじゃよ。どうせ貧乏じゃろ。弁償できるのか? え? この城にあるものはどれも高価じゃぞ」


「あ、ああ……」とアレル。


「なんか調子狂うわね。でも案内してくれるっていうんだから……。それにもし全滅しても私達にはルビウス様の祝福があるし。最悪、何度死んでも蘇ることができるわ」


「確かに」


「死んでも生き返るって便利ですよね」イレーヌがにっこりと笑う。


「うぇーい」リオンは楽しげにしていた。


 ふん、と鼻を鳴らしながらイゾルデは彼らを見つめる。

 どこか千年前の自分たちを見ているようで、感慨深い。

 自分たちも昔はこんな感じだったのかもしれない……。


「ねえ婆さん。ここはどういうところなの?」と、しばらく歩いたところでリオンが尋ねた。


「ここはかつて世界の覇権を握った場所。お前さんたちが生まれるずっと昔、世界はもっと栄えておったんじゃ。その名残りみたいなもんじゃよ。さて着いたぞ」


 イゾルデが案内した場所には巨大な扉があり、威圧感を放っていた。

 その両脇には、翼を広げた魔族が二体、鋭利な金属製の槍を握りしめて佇んでいる。

 彼らは勇者たちを睨みつけていた。

 イゾルデが目配せをすると、彼らは頷いて見せる。


「え……本当にこの先に魔王が?」アレルが言った。


「そう言っておるではないか」イゾルデが答える。


「本当に案内されちゃった。お婆ちゃん、実はいい人?」賢者ミランダが杖を握りしめてはしゃいだ。


「でも魔族だって言ってたぞ」とリオン。


「人間だとも言ってましたわね」とイレーヌ。


「自分のこと魔族だと思い込んでるとか」と言ったのはアレルだ。


「中二病? なにそれウケる。ねえお婆ちゃん、さっきの魔法跳ね返すやつ教えてよ。どうやんの?」


 わいわい、がやがや。

 やっぱり千年前の勇者パーティとはちょっと違うような。

 イゾルデは彼らとの文化の違いを感じながら魔王の間へと続く扉を開いた。


 殺風景なその部屋には、大きな玉座がひとつだけ設置されている。

 玉座には、人間が魔王と呼ぶ者が待ち構えていた。

 彼の姿はもはや人間とは呼べないほど歪だった。遺伝子操作によって独特な形質を得たその身体は、常識では考えられないほどしなやかで強靭な筋肉を持っていた。


「イゾルデよ。ご苦労だった。下がって良いぞ」地の底まで響くような声で魔王が言った。


「あいよ。わらわは部屋の隅っこで行く末を見守るとしよう」


 そういっておぼつかない足取りで杖をつきながら部屋の隅へと移動する。

 長い距離を歩いた彼女の息はすでに切れかかっていた。


「よくぞここまでたどり着いたな、勇者たちよ。まずは褒めてやろう」


 魔王は威厳のある声でそう言った。


 アレルは剣を握りしめ、勇気を持って言い放つ。


「お前が魔王だな。俺たちはこの世界を救うためにここに来た。お前がどんなに強大な存在であろうと、俺たちは負けない!」


「とりあえず斧ぶち込んどけばいいっしょー」リオンは戦いたくて仕方ないようだ。


 魔王もかつては彼らと同じ人間であり、自分の運命や人間の運命を理解していた。

 ここで争っても意味はない。

 勇者が自分を打ち倒して、人間の社会が発展しても、また同じように人間が自分のように魔王になるだけ。

 このサイクルはこれまでの歴史のなかでずっと繰り返されてきた。


 あるとき、ふらりと城に訪れた老婆、イゾルデがこの事実を教えてくれた。

 彼女はこれをルビウスの円環と呼んでいた。


 魔王はかつての勇者、アレックスの末裔だ。

 そして、イゾルデは勇者アレックスの伴侶だという。

 彼女はその時代から生き続け、世界のすべてを見てきた。彼女は見た目は人間のように見えるが、旧世界の魔族に違いないと魔王は思った。

 人間としての見た目を保ってはいるものの、遺伝子操作で強化された魔族としてはかなりか弱く見えた。このような存在は意図的に生み出されたものだろう。

 たとえば旧世界の魔族が、自らの運命の終焉を察し、人間に溶け込ませる形で彼女を送り込んだのかもしれない。

 イゾルデの話を聞くに値すると判断した魔王は、彼女を魔王城に置くことにしたのだった。


 アレルは剣を握りしめ、最後の一撃を放つべく魔王に向かって歩み寄った。

 しかし、その瞬間、魔王が手をかざして彼を制止した。


「まあ待て、まずは落ち着いて話し合いをしようではないか」


 その声は堂々としてはいるものの、どこか哀愁があった。彼は自らの運命を悟っているのだ。

 アレルは戸惑いながらも剣を引き、魔王を見つめた。


「お前はここで私を打ち倒すつもりだろう。しかし、我々がここで戦うのはお互いにとって得ではないと思うのだ」


 アレルはその言葉に驚きつつも「お前はこの世界の諸悪の根源。お前を倒すことで、人々は再び平和を取り戻せる」と答えた。


 魔王は静かに頷いた。


「そうか。ではこうしよう。世界の半分をお前にやろうではないか」


「馬鹿にしないで!」ミランダが叫ぶ。「私たちはあんたを倒すために旅をしてきたのよ。交渉の余地なんてない!」


「よく言った。ミランダ」とアレルが同意した。「そんなふざけた提案など飲めるものか。俺たちは私利私欲のためじゃなくて世界の平和のために戦ってるんだぜ」


「そのとおりです」とイレーヌが続く。「精霊ルビウスも私たちを見守ってくださっていますわ」


「とりあえず斧ぶち込んどけばいいっしょー」リオンがだるそうにブンブンと巨大な戦斧を振りかざす。


「交渉決裂だな。それでは仕方がない」魔王は寂しそうに呟いた。「来い、愚かな人間どもよ。見事余を打ち倒し、この玉座から退かせてみるがいい!!」


「こらこらこらこら!!」それまで黙っていたイゾルデがつかつかと魔王のところまで歩いてゆき、その頭を平手で叩く。


「……え?」きょとんとした顔で魔王がイゾルデの方を向く。


「打ち合わせと違うではないか、ばかたれが! 勇者たちと戦ってどうするんじゃ!」


「いやあ、つい……」と魔王は頭を掻いた。「でもイゾルデさん、あまりそういうことをされると余の威厳が……」


「やかましいわい。ちゃんとやれちゃんと!!」


「邪魔をするな!」とアレルがいきり立った。


「ああ、もう! お前たちも待て。こうなる予感はしておったのじゃ。御主人様よ。提案なんじゃが、どうやらこの者たちは世界の半分じゃ足りないみたいじゃ。いっそのこと全部くれてやってはどうかね」


「……は? 全部?」アレルは剣を構えたまま驚愕の表情を浮かべた。


「全部って……魔王の支配が終わるってことですか?」イレーヌが疑問を投げかける。


「いかにも」とイゾルデ。


「イゾルデさん。あなたは先代の勇者、わがご先祖の伴侶ではあることは承知しています。しかし、勝手な発言は許しませんぞ!」


「そんなことしらんがな。ここで戦ったら間違いなく負けてしまうぞ。死んだらすべてが終わりじゃ。終わるのはお前さんの命だけではない。これまで築き上げてきた人間たちの記録、文化のすべてが失われることを意味するのじゃぞ」


「しかし、こうなったらいっそのこと戦って前のめりに散ってゆき、人間たちに新たな時代を託すのが矜持きょうじというか……」


「はあ……」とイゾルデはため息をついた。「そうやって同じことを繰り返してきた結果、今があるんじゃろうが。ここで勇者たちがかりそめの平和を取り戻したとしても、なんの意味もないのじゃ」


「なんか喧嘩してるけど」ミランダが言った。


「やっぱりあの婆さんの方が魔王より強くね?」リオンが言った。


「なにを言ってる? かりそめの平和?」アレルは疑問を口にする。


 先ほどまでいきり立っていた勇者たちも今ではすっかり落ち着きを取り戻し、もう闘う姿勢は見られない。なんだか毒気が抜かれてしまった、という感じだ。

 イゾルデは彼らのほうを見て、ゆっくりとこれまでのことを話し始めた。


 †


「これは……壮観ね」


 勇者パーティのひとり、ミランダは、数えきれないほどの書物が並ぶ本棚を見上げて思わず息を呑んだ。


 イゾルデは、勇者と魔王の戦いが幾度となく繰り返され、そのたびに世界にかりそめの平和が訪れたことを新たな勇者たちに語った。

 しかし、その平和を手にした人間たちは、結局のところまた新たな魔王を生み出す運命にある。人間たちが紡ぎ出す物語は、終わることのないループに閉じ込められている。


 最初はその話を懐疑的に受け止めていた勇者たちだったが、イゾルデが彼らを城の書庫へと案内すると、その圧倒的な記録を前にして呆然としていた。


「この書庫には我々が築き上げてきた世界の歴史が保存されている。そしてこれらの歴史は、魔王を打ち倒し平和を取り戻したと錯覚した人間たちが、これから築き上げていくであろう予言の書でもある。電子書籍としてデジタルデータ化されたものも含めれば、軽くこれの倍はあるぞ」


 目の前に広がる圧倒的な知識の海に、勇者たちは口を開けて見上げていた。

 千年にわたる人類の記録が物言わず彼らを見下ろしているかのようだった。


「さすがにすべてを鵜呑みにするわけにはいかないな」と勇者が書庫の本の一冊を手にしてつぶやいた。しかしその目は泳いでおり、その声には不安と迷いが滲んでいる。


 イゾルデは静かに頷いた。「信じられないと言われても、事実なのじゃから仕方がない」


「でも、彼らの言葉が無視できないのも確かですね……」と、イレーヌがつぶやく。彼女の声は微かに震えていた。


「とりあえず戦うのはなしになったっぽい?」とリオンがあくびをしながら言う。


「ああ」とアレルが言った。「彼らの言うことが正しいなら、魔族を倒してその文化を消し去ることに意味はない。意味はないどころか、これからの人間たちにとって大きな損失になるかもしれない」


「賢明な判断じゃ」とイゾルデが言った。その言葉は、長い旅路の終わりを意味していた。


 そうして、彼女は大きく深いため息をひとつついた。

 魔王やその側近たちも、心なしか安堵の表情を浮かべていた。


「アレックスよ。見ておるか」とイゾルデは「この瞬間、ルビウスの円環は砕かれた。この世界は、魔王が勇者に倒されることはない。わらわと旦那さまの戦いもこれで終わりじゃ。長かったのう。長かった……。本当に……」


 イゾルデは静かに目を閉じ、書庫にある本棚にもたれかかった。

 かすかに漂う古びた紙の匂いが、過ぎ去った年月の重みを物語っている。

 この場所には彼女が生きた世界の記憶が詰まっていた。彼女の心に残るのは、懐かしさと苦しみの入り混じった感情だった。


 彼女の旅、戦い、そして失われた時のすべてが、まるで昨日のことのように思い出される。


 勇者たちはイゾルデの沈黙に戸惑いながらも、その場を離れようとはしなかった。

 彼女の背中には、長い戦いの果てにたどり着いた者だけが持つ、深い哀愁があった。

 彼らは、彼女が背負ってきた重荷を感じ取り、どう反応すればいいのか迷っているようだった。


 イゾルデはゆっくりと目を開けた。


 彼女の視線の先、書庫の入口には5、6歳くらいの小さな少年の姿があった。


「全部、終ったの?」と少年はつぶやく。


「魔族? ……いや、どこからどう見ても人間の子どもだ。なぜこんなところに……」とアレルは言った。


「彼は……」イゾルデは一瞬、言葉に詰まった。そして目を見開いて話し出す。「彼の名は、アレックス。先代の勇者じゃ」


「先代の勇者アレックス? 伝説の人物じゃないの。人間でしょう? どうして生きてるの?」ミランダが驚いたように言う。


「これから先、人間の文明は飛躍的に進歩する」とイゾルデはアレックスに手招きした。小さなアレックスは彼女の方へと歩みを進め、その手を握る。「お前たちがルビウスの祝福で死んだものを蘇らせることができるように、われらもまた、死んだ人間を蘇らせる技術を確立したのじゃ。神の奇跡などではない。人間が発見し確立した、誰でも扱うことのできるただの技術じゃ」


 †


 千年前、イゾルデは愛する夫アレックスが自室で静かに息を引き取るのを見届けると、彼の肉体が劣化する前に、急いで南極へと向かった。

 氷点下数十度にも及ぶ永久凍土の内部に彼を閉じ込め、時の流れからその肉体を守るために。


 当時の技術では、彼を蘇らせることなど不可能だった。

 年老いて命を失った者を再び呼び戻す方法は存在しない。

 それでもイゾルデは信じた。

 人間の進歩が、いつの日か奇跡に頼らずとも彼を復活させる時代をもたらすだろうと。そして、彼女はその時代が訪れるのを、ただじっと待ち続けた。


 そして、そのときイゾルデが思い描いていた未来は現実のものとなる。

 人間の科学技術の発展は驚異的であり、クローン技術や記憶の転送、さらにはDNAに刻み込まれた生前の記憶を呼び覚ます技術までが実現した。

 イゾルデは時代を超え、あらゆる学問を学び続け、ただ一つの約束を守るために生きた。

 アレックスと一緒に、ルビウスの円環が破壊された新しい世界を見届けるために。


「しかし、これも自己満足なのかもしれぬ」老女となったイゾルデは、しわくちゃの手を見つめながら呟いた。「旦那様は、わらわと共に移り変わる世界を見たいと言ってくれた。その言葉があったから、わらわはこれまで戦い続けてこれたのじゃ。だが、それも千年前のこと。旦那様の肉体は、時の流れによって大きく劣化していたのかもしれぬ。記憶の転送もうまくいかなかった……。ここにいるのは勇者アレックスと同じDNA配列を持っただけの、ただのなにも知らぬ子供に過ぎぬ。それに……」


 そう言いながら、イゾルデは隣に立つ少年の肩に、そっと手を置いた。彼女が愛した男の、幼き日の姿がそこにあった。


「わらわは、もうこんなにしわくちゃのババアになってしもうた。旦那様が今のわらわを見たら、一体どう思うのか……」


 そのとき「イゾルデ」と、少年の声が静かに響いた。


 そして彼はゆっくりと顔を上げた。彼の小さな手が、イゾルデの肩にそっと触れる。

 イゾルデは驚き、彼の顔を見つめた。

 まるで遠い記憶の彼方にあるアレックスが、優しく彼女を支えるように触れてくれた時と同じ感触だった。


「旦那様……?」イゾルデは信じられない思いで、彼を呼んだ。


 アレックスの顔に、柔らかな微笑が浮かぶ。彼女が何度も見たことのある、優しさに満ちた微笑みだった。


「今まで黙っていてごめんよ」彼は静かに語り始めた。「実は、断片的だけど、少しずつ記憶が戻ってたんだ。お前が俺をこの世に復活させたことを思い悩んでいる姿を見て、ずっと言い出せなかった。記憶の転送は失敗していなかったんだと思う」


 イゾルデは彼のその言葉に目を見開いた。

 胸の中で、無くしかけていた思いが激しく揺れ動いた。

 少年アレックスの言葉は、彼女の心の奥深くに眠っていた希望の火を再び灯した。同時に抑えきれない涙が彼女の頬を伝い始めた。


「本当に、旦那様なのか……? わらわを覚えて……?」イゾルデの声は震えていた。


 彼女は少年の目を覗き込んだ。

 そうしてその瞳の奥に、自分が愛したアレックスの魂を探し求める。


 少年アレックスは頷き、彼女を見返した。「ああ、少しずつ俺の中に思い出が蘇ってきているのを感じる。もちろん、お前のことも覚えているよ」


 その言葉に、イゾルデは耐えきれず少年にしがみついた。彼女の胸の中で、長い間抑えていた感情が一気に溢れ出し、涙が止まらなくなった。


「ああ、旦那様……」彼女は少年の肩に顔を埋め、震える声で繰り返した。「わらわはずっとあなたに会いたかった……」


 アレックスはその白い頭髪を優しく撫でながら、「よく頑張ったな」と彼女を慰めるように囁いた。「長い間、ひとりにさせて悪かった。お前は本当にすごいよ。これは本当に、お前にしかできないことだ。俺に新しい世界を見せてくれてありがとう」


 イゾルデは、彼の言葉に応えるように、さらに強く抱きしめた。小さなアレックスの衣服は、すぐにイゾルデの涙と鼻水でぐしゃぐしゃになってしまった。しかし、彼はそれがちっとも嫌ではないみたいだった。


「イゾルデ、すっかり歳をとったな」アレックスは子どもには見えないほど達観した表情でそう語る。「でも、お前は昔とちっとも変わらない。お前は今でも美しいよ。それに、とっても可憐だ」


「ふふ、当たり前じゃ……」


 アレックスはイゾルデが泣き止むまで彼女の頭を撫で続けていた。


 †


 こうしてルビウスの円環は破壊された。


 その後、人間と魔族は和解の道を歩み始めた。

 かつて互いに敵対していた両者は、共に協力しこれからの未来を築くことを誓ったのだ。


 魔族たちは、自らが長年にわたって培ってきた知識と技術を惜しみなく人間たちに提供した。

 その知識は、科学や魔法、農業、工芸、さらには医療に至るまで、あらゆる分野において人間社会に革命をもたらした。


 しかし、完全な和解にはまだ時間が必要だった。

 長きにわたる憎悪と対立の歴史は、人々の心に深く刻み込まれていた。

 人間の魔族に対する不信や恐れが根付いており、互いの違いを受け入れるためには多くのハードルがあった。

 それでもイゾルデが残した希望の種は、確かに根を張り、未来に向けて少しずつ芽を伸ばしていた。


 †


「旦那様、覚えておるかえ? あの時のこと……」イゾルデは、優しい微笑みを浮かべながら、遠い昔の出来事を思い出していた。「わらわたちが初めて出会った日のことを……」


 夜になると、二人は魔王城の一室の小さな灯りの下で寄り添いながら、これまであったことを語り合うのが習慣になっていた。

 イゾルデの顔には長い年月を過ごしてきたしわが深く刻まれていたが、その瞳は少女の頃のような輝きを取り戻していた。


 アレックスは静かに頷いた。「ああ、覚えているよ。あの頃は何もかもが新鮮で、冒険はつらかったけれど、一緒にいるだけで満たされていた……」


 夜が更けていく中で、二人は幾度となく繰り返された戦いのこと、魔王を倒した瞬間のこと、その後の生活について語り合った。

 そして、イゾルデはアレックスが死んだあと、どう過ごしてきたかを話して聞かせた。


 彼らの会話は毎夜続いた。

 過去のことだけではなく、これからの未来のこともたくさん話した。

 彼らが築き上げた世界が、どのように変わっていくのか。人間と魔族が共に生きることが世界にどういう影響を与えるのか。

 彼らは未来への希望を胸に抱きながら、静かにふたりでいつまでも語り合った。


「旦那様、この先の未来を見届けることはわらわにはかなわぬが、旦那様ならきっと、どんな世界でも強く生きていけるじゃろう」イゾルデの声には、かすかな寂しさが混じっていた。


「お前が共に歩んでくれたことを、俺は絶対に忘れない。そして、この世界をもっと良くしていこうと思う」


 二人はこれまで会えなかった時間を埋め合うようにいつまでも語り合った。

 そしてある朝、イゾルデはアレックスの手を握り締めたままベッドの上で静かに息を引き取った。彼女は二度と目を覚ますことはなかった。


 †


 魔王城の地下は、深い闇と静寂に包まれていた。

 その冷たく硬い石の床に、少年アレックスは立っていた。

 彼の両腕のなかには、息絶えたイゾルデの肉体があった。彼女の顔にはすべてを成し遂げたことによる穏やかな笑みが浮かんでいる。


「イゾルデ……」アレックスは、彼女の顔を愛おしそうにそっと撫でながらささやいた。ひんやりとした、命を伴わない冷たさが伝わってくる。「お前のおかげで、ルビウスの円環は破壊された。そして、世界はたしかに一時の平和を手に入れたみたいだ」


 自分自身に問いかけるようなその言葉が、闇の中で不気味に反響する。

 その瞳の奥にはどこか疑念の色があった。


「しかし、なぜだろう……本当にいつまでも平和が続くとは思えないんだよ。俺の胸の中に、何かが引っかかってるんだ」


 アレックスはそっとイゾルデの冷たくなった手を握りしめた。

 その手は、かつて彼を導き、守り続けてくれた手だった。今はもう動かないその手を握りながら、彼は問い続ける。


「人間はひとつ賢くなったかもしれない。しかし、本質的には愚かなままだ。これからも、同じ過ちを繰り返す気がしてならないんだ」


 いくら文明や技術が進歩しても、人々の心の中に潜む弱さや欲望は簡単には消え去ることはない。この世界に勇者や魔王が存在しなくなっても、結局のところなにも変わらないのかもしれない。


 ルビウスの円環は破壊された。


 しかし、これですべてが上手くいくとは限らない。

 それどころか、この選択が致命的な間違いとなるかもしれない。

 たとえば、ルビウスの円環は、この世界のバランスを保つために必要な存在だったのではないのか。

 これが破られることで世界はそのバランスを失い、予想もできない最悪な方向に進んでいく可能性さえあるのだ。


「見てみたいと思わないか? 新しい世界がどうなっていくのか」


 彼はイゾルデの体を優しく寝台に寝かせ、その穏やかな寝顔に問いかける。


「俺はこれからも、お前と一緒に同じ道を歩んでいきたい。たとえそれがわがままな願いであっても……」


 次に、アレックスはそっとイゾルデの髪に手を伸ばした。

 彼女の白髪の中から一本だけ慎重に抜き取ると、それを丁寧に保存容器に収めた。

 毛根から彼女の細胞を取り出すために。


「許してくれ、イゾルデ」


 そして彼女の細胞を収めた容器を大切そうに持つと、培養装置の前へと歩みを進めた。



<了>

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